しばらく前に、「どうすればよかったか?」を観ました。
どうすればよかったか?はドキュメンタリー映画で、その対象は監督自身の家族の記録です。監督のお姉さんは大学在学中に統合失調症を発症して、どんどんコミュニケーションをとりにくい人になっていったそうです。この映画は、そのお姉さんと同じ家で暮らし続けた父母と、そして就職して家を出たことで、家族とある程度の距離を取れるようになった監督の関係の中で、長期間に渡る映像が撮られています。
監督自身はこの映画で見せる家族の記録を、失敗例と表現し、さらにこれは、統合失調症がどのようなものであるかとか、なぜ統合失調症になったのかを解き明かす内容でもないと最初に宣言します。これは映画を観る人に対して、どういう態度で観てほしいかというお願いだと思いました。
このドキュメンタリーを観たことによって統合失調症とは何かを理解したつもりになったり、統合失調症になることそのものをどうすれば防げたかを話す方向には行ってほしくないということ、そして、これは上手くやれなかった話であって、様々な解釈を付与することで、ある種の良かった話としては観ないで欲しいというお願いであるように思いました。
映画の中に出てきた監督とその家族について、何かを言う言葉を僕は持ちません。僕が観たものは、こういうことがあったという事実であって、それに対してああすべきだったとかこうすべきだったということには意味がないと感じるからです。
なので、この映画を見て思うことは、これと似た構造のことが自分の人生にあったとき、自分はどうするだろうかを考えるということです。そして、本当にそれが目の前に来たときに自分が何をするか、あるいは既にそれがあるのに目を背けてはいないかに気づくことではないかと思いました。
世の中の多くのことについて、「正解」が分かっていることは多いです。しかし、その「正解」を上手く実行できないこともまた多いです。例えば、体重を減らしたければ「食べるものを減らして、運動をすればよい」という正解は分かっているものの、それを毎日堅実に実行して目標を達成できないことも多いのではないでしょうか?もしくは、会社員の仕事をしながら漫画の連載をしたいと思えば「あらゆる隙間時間をかき集めて、進捗管理をきっちりやればできる」という正解を言っても、そんなことはできないと色んな人に言われてしまったりすることもあります。
特に監督は、早い段階から「正解」が分かっていたと思います。その「正解」とは、お姉さんを病院に連れていき、適切な治療を受けさせればよかったということです。実際、発症から二十年以上かかってやっとそれができたあと、たった数ヶ月でどうしようもないように見えていた状況がかなり改善していたように見えたので、見ている人からすれば、もっと早くできていれば…と思ってしまうのではないかと思います。その気持ちは、映画を観ているだけの自分でも感じたのだから、当事者である監督はもっと痛切に感じたのではないかと思います。
でも、これってそれができなかったという出来事なんですよね。
そこにはさらに、たまに実家に帰ってくるだけの監督には見えていないかった長い時間や、多くの出来事もあったでしょうし、両親にはお姉さんが生きていくための場所を提供し毎日接しているので、「お姉さんのために何かをやっているのは主に自分たちだ」という自負もあったのかもしれません。
そこに見出せる構造は、「外から来てすぐ去っていくだけの人間が、その場でだけ正しいことだけ言っても何かを変えるのは難しい」というもので、その構造は、映画を観ている自分にも当てはまるようにと思いました。
この映画を観て、他人に対して「こうすべきだった」と言っても、何もかも終わったあとで、当事者ができなかったことを言っても、できなかった、という既に確定した事実がそこにあります。
映画を観て思うことは、今の自分にはそういうことがないのか?ということです。何かが問題だと感じていて、それを何とかしないといけないとは日々感じているものの、何となく先延ばしにしたり、自分のやることじゃないとか思ったりしてはいないかということです。そして、事態はゆっくりと悪化し続けているのに、そこを見ぬふりをしていることがないのかということです。
大きな話として例示してみるならば、日本の少子化問題についてどうするべきかを考えると、社会問題の多くが人口バランスが歪であることに起因して起こっているため、多くの人が「何とかしないといけないことだ」と思ってはいると思います。でも、僕自身がそうであることを根拠に言いますが、その多くの人は「でも、自分が解決のために何かをする話じゃない」と思っているのではないでしょうか?
特に、僕は独身で生活をしており、少子化が問題だと思えば、それは自分が結婚して子供を作っていないということと接続されてしまいます。でも、今のところ結婚して子供を作るという予定はなく、問題だとは思っているが何かをするわけではないという状態です。それは問題は認識しているが、自分は何もせず、他の誰かが子供を作ることで解決してほしいと思っているということだと思います。
別にそれは悪いことでもないとも思っています。かつてはもっと社会の要請として「人間は結婚をして子供を持つものだ」という規範意識が強かった時代があり、そこで無理矢理に家族を持ったために不幸な家庭を作ってしまう事例も見てきましたし、今の、それは別にもう規範ではないという状況になったことは、人間が自由に生きられるようになった社会の変化の良いポイントだと思っているからです。
でも、そうなったことと少子化は繋がっていると感じていて、僕自身が自分の自由な生き方のためにそこに加担しているなとも思うんですよね。問題だとは思っているが自分は何もせず、時間が過ぎているという構造の話であれば、こういうところにもありますし、もっと細かな話が世の中のそこかしこにも無数にあるでしょう。
今どうすればいいと思いますか?
そしてそのやるべきことを今やっていますか?
そういうことを考えます。
何かの出来事に対して一歩引いた俯瞰的な立場をキープしたままで、既に終わってしまったことに対して「こうすればよかったのに」と言うだけで終わらせることの無力さについて考えてしまいます。
ずっと先に「あのときどうすればよかったか?」と問わずに済むようにするために、まず今を見つめ直す必要があるなと映画を観ながら思いました。