「人間の血中アルコール濃度は常に0.05%を保つことが理想である」と、ある哲学者は言う。おそらく普通に生きている人間であればこれを真に受けることはないのだろうが、普通に生きることからドロップアウトしてしまった男たちの一人こそ、この物語の主人公である。
マッツ・ミケルセン演じる高校教師マーティンは、ルーティンと化した日々の仕事に飽き飽きし、冷え切った夫婦関係にもうんざりしている。どうせ言うことを聞かない生徒たちに教科書を読み上げる授業。夜勤で働いているためにほとんど顔をあわせることもなくなった妻。そんな繰り返しの日常に突破口を開こうと彼がすがったのが、上述の格言である。かくして、マーティンとその友人であり同僚の三人、合わせて四人の中年たちは、日中に酒を飲むことでQOLの向上を目論む秘密のクラブを結成するが、次第に彼らはコントロールを失っていく……。
しかし、いつ誰がシラフをシラフと、つまり、飲酒をしていない状態こそが平常であると、決めたのだろうか。例えば、栄養失調や飢餓状態をして平常と見なすことがないように、血中アルコール濃度もまた0.05%に至るよう補ってこその人間なのではないか。一見すると過激に思えるかもしれないこのテーゼであるが、我々が人生を生き抜くために必要な視点を与えてくれる確かな真理を含んでもいる。
おそらく事実とそう違わないだろう個人的な見解であるが、映画において酒がフィーチャーされるときには、だいたいがアルコール依存症の形をとって描かれてきたように思う。
このWikipediaの記事の一覧を見ても分かるように、映画史の最初期から現代に至るまで、アルコール依存症を描いてきた映画は数多く存在する。一覧には含まれていないものの、その最も古い一例としてフェルディナン・ゼッカによる『アルコール中毒の犠牲者たち』(1902)を参照されたい。
もちろん、その最初期からというのは、映画というメディアが飲酒を否定的に描くことの本質的な必然性を強調するものではなく、例えば映画の都を擁するアメリカにおいて、1920年の禁酒法施行にいたる宗教的厳格主義の胎動があったこととの同時代性に注目すべき部分がある。
そして、それはアメリカ的なプロテスタンティズムに固有の精神ではなく(実際、ゼッカはフランス人である)、近代に顕著な、自己の身体を制御すること、その規範の表れでもある。つまり、欲望を断ち切れ、感情に振り回されるな、平常を保ち理性的な主体(subject)たれと我々に迫る規範だ。そうした規範はいつしか我々の身体に浸透しながら、欲望を創造し、感情を構造化する。(まさしく身体化を経て)主体と相成った私たちは、どうすれば欲望を、感情を自らの手の内に取り戻すことができるのだろうか。
『アナザーラウンド』の主人公マーティンもまた、理性的な主体である。理性的なんていうと少し堅苦しいかもしれない。おとなしめな性格、真面目、生徒からすれば堅物、そんなところだろう。歴史の教師である彼だが、その肝心な授業は文字通り教科書を読み上げるだけ。マーティンからしても生徒たちからしても退屈極まりないそれは、しかし、カリキュラム通りに授業をこなすという規則の果てに陥った形式主義なのだ。
家庭におけるマーティンの振舞いにも同種の病理を見て取れる。夜勤で忙しい妻と心を通わせることができなくとも、子供たちと上手くコミュニケーションをとれなくとも、感情を飲み込み、夫として大人としての役割を全うしようと、淡々とした日常を送るマーティン。あるいはそこに男性性の問題を見て取ることもできようが、ともかく、欲望を封じ込め、感情を抑え込む生活はマーティンの人間性を疎外し続けてきた。
この映画は、シラフであることのもっともらしさに揺さぶりをかける。規範によって身体化された平常を突き崩すには、アルコールをその身体に取り込むことによって内側から理性を、平静を、常識を攪乱するほかないのだと謳いあげる。
教えることの喜びを忘れてしまった先生に、緊張によって面接試験で勉強の成果を発揮できない生徒に、ちょっとばかりの─血中アルコール濃度0.05%に相当する─酒を差し出す。これでも飲んで、肩の力を抜いてみればいいじゃないか。そうすると、人生は案外と上手くいくのかもしれない。
とはいえ、この映画は酒を万能薬として称揚するわけではない。マーティンの友人の一人に起こるとある出来事がそれを物語る。事程左様に、肝心なのは規範によって絡めとられた生を解きほぐすことで見えてくる人生の喜びであって、あくまで酒はその手助けに過ぎないわけだ。酒に溺れてしまえば視界はぼやけてしまう。
しかし、本作のラストシーン、マーティンもといマッツ・ミケルセンの美しい身体が踊り、美しい世界に胸が躍る瞬間、シラフでは得ることのできない自由に私たち観客は夢を見る。それは論理の飛躍─最後のショットに目を凝らされたい─だろうか。もちろんそれでかまわない。ときに理性から飛躍することこそ我々の人生に必要なのだから。