「〇〇は社会の役に立たない」という言説はクソの役にも立たない。
文系、というか、主に人文科学を専攻している人間が自虐として、「〇〇学は社会の役に立たないからな~」なんて言う姿を見ることがままある。しかし、ここでいう「社会」とは、「役に立つ」とは、一体よくわからない。公共圏において、個々人がその成員としての自覚の下に振る舞い、普遍的な利益を導き出すことに貢献できるということか。もちろんそうではない。
では、この場合の「社会」とは?それは「国家」と言い換え可能なものだ。国家であり、国益であり、国力である。そして、「役立つ」とは、そうしたものに”資する”企業における資本の増殖に、あるいは国家を円滑に統治する機構の温存に、役立つということに過ぎない。学問の成果が社会に還元されるべきだという点について、それは僕も信じるところである。しかし、そういった種の「生産性」に、学問、というよりも、自由な人間の営みが従属しなければならないという主張には、バカげてると言う他ない。
ところで、主張が180度変わっている風に聞こえてしまうかもしれないのだが、人文社会科学を学ぶ”硬派”な学生の中には、現代社会の問題についてアクチュアルに向き合う学問に対し、見下すような態度をとる人も多い傾向があるように見えて、それもまたモヤっとする。所謂「社会学」(実際のそれではなくインターネット上に広まるイメージとしての「社会学」)に対する昨今の風向きの原因の一端もそこにあるのではないかと、個人的には感じたりもする。
まあ、それはそれとして、今回書き留めておきたいのは、Netflix配信の映画『エノーラ・ホームズの事件簿』について。主演のエノーラ・ホームズは『ストレンジャー・シングス』のミリー・ボビー・ブラウンで、その脇を兄シャーロック・ホームズにヘンリー・カヴィル、母ユードリア・ホームズにヘレナ・ボナム=カーターと、結構豪華なキャスト。ヴィクトリア朝時代のイギリスを舞台に、シャーロック・ホームズの妹エノーラが、失踪した母を見つけ出すために、あれやこれやと奔走するストーリー。ヴィクトリア朝好きやシャーロッキアンには言うまでもなくおすすめできる本作なのだが、時に第四の壁を破壊しながら観客に語り掛けてきさえするエノーラの自由闊達ぶりがパワフルかつチャーミングで、娯楽作としても、誰にでもおすすめできる一定の楽しさを備えている。
一方で、「シャーロック・ホームズの妹」という設定が、それ自体として作品の根幹をなしている点も、この映画が単なるバリエーションに留まらない一因だろう。
つまり、シャーロックと同じ探偵としての才能を持ちながらも、女性であるが故に家庭に縛り付けられるという障害が、エノーラの冒険のドラマ性を高めると同時に、謎多き母に対する理解を深めていくきっかけともなる。本作は、決して傑作というわけではないのだが(※個人の感想です)、しかし、随所にそういった”上手さ”を感じる映画でもあり、見て損はない、はず。
個人的なその白眉は、本作独自のシャーロック・ホームズ評にあると思う。映画の中盤、シャーロックとある人物が、こんな会話を交わす。
「あなたは政治に無関心ね」
「退屈だからな」
「それは世界を変える気がないからよ、現状で満足してるから」
「……なるほど」
(僕は一応シャーロック・ホームズシリーズの原作をすべて読んでいるがだいぶ前のことであり記憶も定かではないので、と保険をかけつつ)このやりとりがどれほど元のシャーロックの人物像に切り込んだものかというと確証はないのだが、とはいえ、ある一定の、現実にも存在する、キャラクターに対する鋭い批評性を持っていることも確かなように感じる。(市民運動を天空目線で見下しつつ、(退屈でシリアスなそれを)ネタにして喜んでいる人たち、「世の中に不満があるなら自分を変えろ。それが嫌なら、耳と目を閉じ、口を噤んで孤独に暮らせ」と草薙素子(攻殻機動隊 S.A.C.)のセリフを引用して得意げになるような人たちは言わずもがな)自分はあらゆる人間の営みを俯瞰して平等に見ているだとか、逆に、自分はあらゆる人間に興味がない(ので平等に取り扱っている)とか、そういった、俗っぽいことにこだわらない、超然とした人物かのようにふるまう(あるいは周囲がそういった風に見なす)キャラクターに対する疑いの目線だ。
シャーロックとエノーラは、同じような資質を有している。エノーラはシャーロックのように生きたいだけだった。しかし、エノーラは政治に巻き込まれ、シャーロックは政治に無関心でいられた。そこを分かつものはなにか。言わずとも分かるだろう。
かくして、どのような人間にも、政治に無関心でいられなくなる瞬間というのがやってくる可能性は大いにある。もし、人間を(俯瞰しているが故に)平等に見ているとか、平等に興味がないとか言うなら、それは嘘か、その人の目は節穴だ。その「平等」は、無関心でいられる人の、無関心の上に成り立つ、薄っぺらなポジショントークに過ぎない。某インターネット掲示板の元管理人ひ〇〇き氏は、よくアベプラに出演したときに、「男性はその問題について何も訴えてない。女性だけが訴えている。じゃあそれって(普遍的な問題ではなく)女性の側が(個人の問題を拡大解釈して)一般化してるだけなんじゃないですか?」という論法を使う。自分は人間を平等に俯瞰しているつもりなのだろうが、まさにその「平等」(のつもり)でいられる自己が如何なる存在かというところに思慮が及んでおらず、そして「平等」という口当たりのいい言葉が現実に存在する差異(この場合はジェンダー)を覆い隠すヴェールになっている点で、悪辣ですらある。
話を戻そう。「〇〇学は社会の役に立たない」と言ったとき、そこで想定されるのはむしろ「国家」における資本の増殖や統治機構の温存である。そういったシステムの系譜を辿り、既成の価値観を疑う営みは歓迎されないようだ。そして、”硬派”な人文社会学徒や趣味者にありがちな、現代社会の問題に対するアクチュアルな態度を忌避する姿勢。これもまた、現状のシステム、価値観の中で足る人間の無関心が支えるふるまいである。
『エノーラ・ホームズ』はヒロインのオリジンストーリーだ。オリジンストーリーとは、自分はこうありたい、という覚悟を行動に移すまでを描く物語だ。こうありたい自分を決意するためには、自分が如何なる存在なのか、その系譜を否がでも突きつけられることになる。無関心から脱皮することで、世界に羽を広げることができるのだ。
追記
「「平等」にバカにする」ことも同様の問題を孕んでいる。尖った笑いに対して「全方位(性別や人種、民族や宗教、また政治的立場におけるそれ)に喧嘩を売っている」と称し、故に特別な地位が与えられるかのような評価をする向きもある。しかし、ある作品内で「全方位」をバカにしていることが、マジョリティの人間がマイノリティに対するステレオタイプを助長する表現で笑うことへの免罪符になってはならない。
仮に劇中で「全方位」をバカにしている、つまりそこで揶揄される様々な立場がフラットに描かれているといっても、現実には厳然たる差異が横たわっており、また、そこで供される笑いは往々にしてマジョリティからマイノリティへのまなざしの下で構築された文法に依るところが大きいわけで(エスニックジョークなど)、やはり平等などではないのである。
もちろん、そういったコメディのあり方を否定するものではない(批判的に見ることはあるが)。繰り返しになるが、「全方位をバカにしている」からといって、現実的に差異が存在する以上はフラットなそれは成立しえず、故にマジョリティがマイノリティを面白おかしく描写することの免罪符にしてはならない、ということである。