以下の内容はhttps://memushiri.hatenablog.com/entry/2023/08/17/212419より取得しました。


「バービー」は、ツイフェミ映画に傾きかけない危うさを孕んでいる映画

 「バービー」観てきました。

 それまで赤ちゃんのお人形で遊ぶことで、お母さんごっこという皮に包まれた、育児を女性に押し付ける家父長制の再生産の構造に組み込まれていた子供たちが、バービー人形に出会うことで、そこからの脱却の一歩を踏み出すということを、「2001年宇宙の旅」のパロディでやり切るという冒頭は、おお、このノリなら最高だと、悪くないスタートだぞと思っていたのですが、中盤めちゃくちゃダレて、一応は後半盛り返したんですけど、グルーヴを産みきれなかったというのが本音のところです。単純に、コメディとしてレベルが低く、音楽の使い方も全然よくなかった。

 「死」を意識したバービーがハイヒールが履けなくなるなど、フェミニズムにおける記号などを上手く配置して、物語に組み込んでいたのだけれど、割とすぐに失速してしまった。

 それくらい、中盤の人間世界は退屈だった。この中盤の人間界を笑えなかったということを指摘すると、男性だから男性を馬鹿にしているパートが耐えられないのだと言われてしまう可能性があるが、シンプルにつまらない。これは冒頭がメタファーや記号を使い、女児たちが新たな思想に出会うという良いことを使って笑いにしているのに対し、中盤は、フリが雑であったり、誰でもいじっていいようなおじさんなどを馬鹿にするなど一方向の安易な笑いでしかないからであり、仕組みが分かってしまうと、もういいよ、となる。

 これが1時間続いて、正直しんどくなってきていたが、後半、舞台が人間界からまたバービーランドに戻るのだが、ここからは、前半と同様な笑いの取り方になっていって、やっとちょっと退屈さを抜け出すことができた。

 バービーランドは、ケンが人間界から輸入してきた「男が女性よりも優位にいる」という思想によって、バービーたちがケンに奉仕するようになる。ここで、バービーは、変てこバービーと、人間であるグロリアらと協力して、他のバービーたちの、男性に奉仕するのをやめさせるために、ケンにマンスプレイニングをさせてその隙に、バービーを連れてきてグロリアの女性としての生きづらさのスピーチを解呪のおまじないのように聞かせて、本来のバービーランドの価値観に連れ戻すというくだりがある。

 ここで笑いはしたが、ものすごく危ういなと思った。

 理屈ではなく、感情を持って、一つの性の優位性を取り戻すというのは、これは、男もつらいんだよといって男性優位を温存させるということにも転用可能だからだ。

 加えて、バービーたちはケンたちが起こそうとした改憲のための選挙に、ケンたちを参加させないという方法を取る。これは民主主義への冒涜じゃないのか。

 とある人が、今いる社会に違和感を覚えていたところに、新しい考えを見つけて書籍を読み漁り、他者にも共有して、社会を変革させようと民主主義を活用しようとするも、参政権を奪われて失敗に終わるということを肯定していることにならないだろうか。

 ガワだけ見たら、ケンが踏もうとした手順はめちゃくちゃ正しく、個人の問題意識から発展した社会の変革に取り組もうとしている。

 正直なことを言うと、だから、この映画はツイフェミ映画だと思う。

 ツイフェミというのは明らかに揶揄の言葉であり、厳格な定義というのはあってないようなもので、ツイッターフェミニズムの言説を述べている人というレベルだと思うが、ここでいうツイフェミは、ツイッター上でフェミニズム関連のトピックについてほぼ毎日、誰かを批判的に取り上げてツイートしているが、フェミニズムおよびジェンダーにまつわる用語や理論の概要を知識として習得しているもののそれはツイッターやインターネットから得たものが殆どであり、フェミニズムおよびジェンダー関連の書籍を10冊以上読んだことがない、25歳以上の人とします。書籍については、漫画は原則として加えずにカウントしてください。25歳というのは、一般的に大学を卒業する年齢であり、社会に出て女性差別が実際に行われている現実に直面して疲れているであろう3年間ということに加えて、経過措置としては十分だろうという考えのもとに設定してみました。何らかの理由により、書籍を読むことが出来ない人に対しては、この設定条件は除外します。

 個人的に、ツイフェミという言葉を使うことはないが、さすがに、30歳以上の物事の分別がついている一人の人が、ネットで聞き齧った言葉で人を殴り続けているのであれば、どんなに正しいことを言っていたとしても、話を聞いてもらえなくてもしょうがないと思います。何故なら、そこには、フェミニズムに限らず思想に重要な、理屈が不在だからです。理屈が不在ということは思索が無い。思索を研ぎ澄ますのは、本を読み、分からないことに出会い、考えを巡らせ、アウトプットをして、また本を読み、分からないことに出会い、考えを巡らせ、アウトプットする。原則として、これしかないからです。

 さて、なんで、わざわざしなくてもいい、当人たちが不快に思っている揶揄の言葉を分解した上で、自分なりの定義をしてみたかというと、本作には、フェミニズムの記号やワードが散りばめられているものの、それだけで物語は進んでいくという構図に対して、思想と理屈の欠如という危うさを見るからだ。

 他者を、ましてや社会を、何かを言うだけするだけでは絶対に、ドラスティックな変化を生じさせることは出来ない。他者はそれだけ自由なものであり、原則として、真摯に理屈を積み重ねて提示し続けることで、変わってくれる可能性が少しあり、そうなるのを待つしかない、人って変わんないよ、と個人的には思っているので、そういう観点からも、この映画は肌に合わなかった。

 田嶋陽子は万雷の拍手を送るかもしれないが、ボーヴォワールは唾棄するかもしれない。

 そういえば、余談だが、この映画において、一番、批評的に思えたのは、ケイト・マッキノンが変てこバービーを演じたことだろう。ケイト・マッキノンとは、リブート版「ゴーストバスターズ」で、ジリアン・ホルツマンを演じている。リブート版は、ゴーストバスターズのメンバーが全員女性となっている良作で、ちゃんと面白かったので、その続編を作ればいいものを、それを無かったことにして、また新しい続編を作って、普通に滑っているという最悪な結果になっているのだが、その中でも、ホルツマンはカッコイイキャラクターであった。

 そんな、彼女が、捨てられたバービーというのは、何とも味わい深い皮肉のようなキャスティングであった。

 

 




以上の内容はhttps://memushiri.hatenablog.com/entry/2023/08/17/212419より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14