本題から入りましょう。いつまでお正月気分でいるわけにもいきませんのでね。M-1グランプリ2025でかけられたネタの感想と、好きなくだりたちです。
1組目:ヤーレンズ
恥ずかしながら、決勝3回目にして初めての漫才コントではないという指摘がなされているのを見て、確かにと膝を打ってしまったわけだが、気づいていましたよ感を全面に出して話を始めよう。漫才コントは、コントでもある以上、そこから降りることが出来ない。反して、しゃべくりであれば、出入りが自由となる。この制度上の縛りがなくなったからなのか、今年のヤーレンズは肩の力が抜けているようにも思わせながらも、一点のミスも生じていないように思わされるネタだった。それでいて、どこまでも、軽く、意味がない。
そのことが、今大会の全体的な点数の高さ、楽しさを一気に運命づけたと言っても過言ではない。
つまりは、言うことなし、なわけなので、揚げ足を取るかのように、ネタに組み込まれた客いいじりについて考えてみたい。
ヤーレンズの二人の掛け合いは、それぞが好き勝手に喋っているにも関わらずたまたま会話が成立しているような、アルゴリズム体操のような美しさを感じる瞬間があるが、その反面、あまりにネタを繰(く)っている、二人で完結していると思わされる瞬間、つまりは観客不要のゾーンに入ってしまう危険性を孕んでいる。例えば、盗み聞きしているという心持ちで聞いているのが一番正しいミルクボーイの漫才については、観客不要のゾーンに入った方が面白い。ではなぜ、ヤーレンズにおいて、観客不要なゾーンに入ってしまうとあまり良くないのか、台本をなぞっているように思えてしまうかというと、それは二人の声が楽しすぎるからに他ならない。ミルクボーイの漫才は、二人とも声が低めで、ボソついているから良いのである。
今回の客いじりは、この弱点を補完するためではないかと思案する。客いじりをもって、舞台の奥行きを演出していたのではないか。事実、上手側の今田耕司、下手側の海原ともこ、そして客席側と、全方向へのいじりが挟まれている。これはもう戦略だと言っても良いだろう。これ自体は、だから何なんだという気づきに由来する与太考察なのだけれど、そこまで緻密に構成が考えられているわけである。おそらく、構成とボケの配置については、今大会で一番練られていると言って良いにも関わらず、あの軽さを醸し出し続ける凄すぎないか。会話が流れるように流れていくわけである。だから、ヤーレンズは自分たちのことを乱れ打ちと述べていたが、決して、乱れてはいない。エンドレス・ウザではある。
配置で言えば、楢原が「アンガーマネジメント」と怒鳴りながら出位の胸ぐらを掴んで揺するくだりは、その唐突さに一番笑ったのだけれど、まさか、あの脈絡なく入れられていた、2回挟み込まれた楢原の「まずは、ありがとう」はもしかしたら、アンガーマネジメントだったのではないのか。そう考えると、唐突に、アンガーマネジメントとキレた理由も分かってくる。そうだとしたら、恐るべし配置である。
そのほかにも、日英同盟により破棄されるまで80年以上続いた「栄光の孤立」と、鉄の女と呼ばれるマーガレット・サッチャーによるサッチャリズムにおける小さな政府と、獅子舞の後ろをやることが決まっている母親、本国初の女性首相を産み出すために暗躍していたとされる麻生太郎、これらが42歳で独身である楢原の口から溢れることに、何らかの政治的メタファーを見出したいところではあるが、アルゴレリズム体操における「パッチンパッチン、ガシンガシン」くらい、そこには何の意味もないのである。
本当に、今大会の満足度は、ヤーレンズの大手柄に他ならない。
好きなくだりは、「決めつけの刃じゃないですか」からの「見たことなさそうです」、「栄光の孤立ってやつなんですけど」からの「19世紀イギリスじゃねえかよ」、「心の声、麻生太郎じゃん」、「ポカリ飲んだら茶柱たってた」からの「ゴミだよ、じゃあ」、「アンガーマネジメント」。
2組目:めぞん
良いところを挙げていくと、初見で、やっていることや言っていることが全て分かるという意味において、ダレることのない構成、サンボマスター山口の「行きますよぉ」のイントネーションを完コピ、笑い飯哲夫に褒められる立ち姿と、オーソドックスな漫才の技術だけで言えば、今大会ファイナリストの中では一番高いだろう。このままいけば、一生食いっぱぐれることがない漫才師となるコンビだろうということが容易に想像がつく。そのくらい、早口で捲し立てるところなども聞き漏らすことのないほどの滑舌の良さ、緩急の付け方などが基礎がしっかりしている。技術だけで言えば、間違いなく、M-1グランプリの出場資格を有する漫才師の中では5本の指に入るだろう。そのくらい、国民的な漫才師の萌芽を感じさせる。では何故、点数が伸びなかったのかを考えてみたい。
大方の意見としては、歌ネタだからという意見が出てくるだろう。確かに、サンボマスターの「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」を出してくるのは、3月に同期と一緒にライブに行くためにこの1ヶ月ほど聞き込みをしていた自分にとっても、やはり安直な選曲であり、意外性はそこまで無い、という印象は否めない、ちょっと厳しい選曲ではある。そこに加えて、10秒以上歌ってしまうと、めぞんの漫才のBPMと、楽曲のBPMのズレが目立って、中弛みをする印象を与えてしまう。歌ネタがインフルエンサー夫婦の離婚くらい軽視されているということを差し置いても、ただ、ここまで点数が伸びなかったのは、それだけの理由ではないように思えるか。もう少し、別の角度から考えてみたい。
ネタの大枠をおさらいすると、こうだ。
女友達に彼氏のふりをしてと頼まれて面倒くさがる原に対して、初手から、本当に面倒くさいと吉野は訝しむ。「ミキのことを女として見てないから」という原の言葉に対しても「強がらないで」と吉野は食い下がるが、本当に強がっていないということが分かってくると、ミキが本当は原のことを好きなのではないかという方向で攻めていく。そこから実は、原はミキに一度告白するも振られているということが発覚する。
このネタにおいて、いまいち乗り切ることが出来なかったのは、ミキの不在ではないだろうか。いまいち、ミキがどういう女性なのかが分からないため、ドラマに奥行きがないのである。加えて、吉野があまり女性と縁がなかったことを「最後にできた女友達が小六の頃に男子に混ざって遊戯王カードやってくれてた高田さんで終わっている俺への当てつけ?」だけで処理されているため、吉野が原に食い下がる動機が見当たらないのである。
このネタの重大な欠陥は、歌に重きを置いたことではなく、観客がドラマに没入する理由がないことにある。
女性が「ミキ」というM-1グランプリにおいて、漫才師を想起してしまうことにも気になった。よっぽどの意味が無ければ、普通であれば避けるべきである。Twitterにて、本人たちがミキじゃないと気持ちが乗らなかったと話していたが、脚本が良ければ名前は何だってよくなるはずだろうって思ってしまう。もしくは、吉野か原のどちらかが、ミキという女性に何かしらの思い入れがあるのであればそのエピソードを落とし込んだ方がいい。たとえば、高田さんとのほぼ実話であり、その名前がミキだったから、ミキという名前に固執しているということであれば、吉野を逃さないことにそれなりの整合性が生じる。
過去の大会のアキナにおけるネタでもそうだが、M-1グランプリにおいて、恋愛ネタそのものはかなり難しいということが分かってくる。なぜなら、恋愛話について感情移入させるためには、話者のキャラクターを認識してもらう必要があるのだが、限られた4分程度では、かなり難易度が高い。かつ、年齢に合っていないといけないなどその他にも色々とクリアしないといけないハードルが多い。また、昨今の、他者の恋愛というコンテンツ自体が、恋愛リアリティーショーにおけるドラスティックな展開を望む視聴者と、恋愛に興味がないと言われている若者などの視聴者という、恋愛における価値観の二極化が指摘されている状態にあるため、もはや万人受けする素材ではなくなっているとも考えられる。
実は、恋愛ネタは、タイムパフォーマンスも、コストパフォーマンスもかなり悪くなっているのではないか。封印すべきは、歌ネタではなく、恋愛ネタである。
最後に、めぞんの漫才の技術はとんでもないので、本当に、次こそはインフルエンサーの脱税くらい色めくネタによって、捲土重来を期す。
好きなくだりは、紹介VTRにおけるエントリーNo.953時代の吉野のルックからのエレファントカシマシの宮本風を経ての若い頃の町田康みたいな現在、「女として見てないから」に対する「出た最悪な言葉!女として見てない、女と思ってない、いやいや、お前が女と思ってるか関係なく、その子は女の子だから、神様でさえ人の性別を決められないこの時代に、人の性別を勝手に決めるなよ」、漫才終わりお辞儀もせず逃げるようにハケていく吉野、「歌とかで終わるの、今後やめようと思います」。
3組目:カナメストーン(敗者復活組)
「あぁー、それはかなり、ダサいんじゃないかなぁーっと。」、「みんなと仲良くやるんだよ、カナメストーンのメンバーだったらぁー」、「イィーア」、「ねぇ、やめてよ、時をかける少女でバカにしてくるの」、「そりゃ出るだろ、オレの中の仲間由紀恵も」、「やめて、その一番興奮した時に出る音」、「なんでお前のお手製の回転扉味合わせたら、機嫌直ると思ったんだ」。
何周も繰り返されたやり取りの中で産まれてきたようなカナメストーンの笑いからは、東京のライブシーンの良くない匂いがする。そりゃあ、このアクの強さは、ちょっと正攻法では、ここには上がってこれないよと、訳知り顔で苦笑せずにはいられない。とはいえ、捩じ込まれたのだから、こっちのもんである。カナメストーンの漫才は、漫才の現在地を示す今大会にとって必要だったのだろう。少なくとも、敗者復活戦の審査員たちは、異次元レベルの漫才を披露していたミキよりも、乱数としてのカナメストーンを決勝の舞台に押し出した。
ネタの話に戻ろう。
カナメストーンの漫才は、基本的には、山口が零士をおちょくっているという構図になっている。「ダーツの旅のロケに行った時、村人と仲良くなれる自信がない」という本当はそんなこと思っていないだろうという設定も、山口が零士を熱くさせておいて失敗を誘うためにやっていると措定した場合、そこでまず、嘘が無くなる。その後も、どれだけリアリティのない展開が繰り広げられても、あくまで山口が零士をいじって楽しんでいるという、中学からのやり取りの延長線上に位置することになる。中川家の礼二が言う、「設定、なんでもいける」というのはそう言うことではないだろうか。この、嘘が絶対存在しないというシステムは、漫才として無敵なんですよね。からかい上手の山口さん。違約金払いの永野さん。
また、博多華丸の博多大吉は「内容のグロテスクさ」と、「にも関わらず笑える」と講評していたが、これもまた、敗者復活戦でのネコニスズの「ママはいずれ死ぬ」のような観客に、あえて嫌な気持ちにさせるものとは違って、山口が零士の失敗を誘うためだけに向けられたものであることに起因しているからだろう。加えて、感覚的なことを言えば、どこまで言っても、二人の漫才は、ピュアネスに由来するコロコロコミック連載のギャグ漫画チックであり、ずっと、部室の、教室の端っこのノリが続いている。だからずっと、カナメストーンはYOU ARE (NOT) ALONEであり、だからこそ、ツカミに敗者復活戦のメンバーを連れてきて、ネタ中に観客とともに零士を攻め立てた。カナメストーンの漫才を見ることは、鹿嶋市立鹿島中学校のサッカー部に入部することと同義なのかもしれない。
おそらく、今大会で、初めてカナメストーンを見た人は、あまりハマらなかった人の方が多いと直感的に思う。実際、熱心なカナメストーンのファンというわけではないため、そこまで多くは知らないが、「俺の中の仲間由紀恵が」、「時をかける少女」、「観客を味方につける」、回転ドアというカナメストーンによる独自のくだりは、もっと面白いものがあるということが容易に想像がつく。そこまで熱心なカナメストーンの漫才を見ているわけではない自分でも、絶対にもっといいネタがあるだろうとは思わずにはいられなかった。実際、敗者復活で見せていた最高傑作の「手のM-1」だけはどうしても決勝の舞台に持ってきてほしかった。「手のTHE SECOND」が楽しみだ。
好きなくだりは、テレビで見たことないことを指摘されて泣いてしまう零士、村人にクワが刺さったことに対する「事故だったんだよ」というやけにリアルな弁明、3回見た時のワイプの所ジョージがVTRを見ずに恐らくスタジオにいる若手芸人のじゃない方扱いされがちな方にアメカジをプレゼントしてているところ、フットボールアワー後藤がリリースした「高低差ありすぎて耳キーンなるわ」の新作「声高すぎて日本中のイルカこっち向いた」を聞いた零士の「やばっ」と爆笑して、ハイスクールマンザイの出演コンビがテレビで見ている面白い人にいじられた時ぐらいに、はしゃいでいたところ。
余談だが、個人的に一番、頭の中で綺麗に絵が描けたのは、「海辺からこっちを見ているイルカ」だった。
さて、敗者復活組ということは、多分、恒例となったあのコーナーにまいりましょう。
もはや本家で無くなった文化、敗者復活の3組、誰に入れたかスクショを載せよ~のコーナーです。今年、選んだ三組は、イチゴ、生姜猫、豆鉄砲でした。まず、イチゴ、「こいつ声でけーかも」で心を掴まれて、めちゃくちゃ笑いました。徹頭徹尾、意味が不明。生姜猫は、「チェンソーマンの映画を見た」という話題から入って、という予想していない方向へと持っていってくれるという、技術の拙さもまだまだ微笑ましくパンクバンドの如く、沁みました。豆鉄砲は、あの出立ちで、割と理屈的な漫才を見せてくるんですが、東のあのカクカクとした動き含めて、見れば見るほど好きになっていきます。
20世紀、「今日から俺がムーニーマン」というツカミ、最高でした。あと、木本のスタイリング、スーツと特に革靴が
そして、新コーナー。うちの子ちゃんグランプリでは、TCクラクションが、今のところ優勝です。今の所というのは、子ども過ぎるため、少しずつしか見ていないためなのですが、ゴリラが元々好きなうちの子は、ひっくり返って笑っていましたので、これが覆ることはなさそうなので、今年はTCクラクションが優勝です。順調に育っていて何よりです。
ちなみに期待されていたネコ二スズですが、フリの「ママはいずれ死ぬ」というワードにより、我が家では検閲されてしまいました。
本題に戻ります。
4組目:エバース
真面目に漫才を見ているので「人間に車の代わりになってくれ」って無理がすぎることと、さすがに脳みそが披露しかけていたタイミングで糖分が不足していたこともあって、乗り遅れてしまったまま、漫才が終わってしまったというのが本当の第一印象だった。
この文章を書くために、何度か見直してみての感想は、やっぱり見事なネタである。ただ、あんまり、心に踏み込んでくるようなネタではなく、もしかしたら、あまり好みのネタではないのかもしれないとも思っている。客席もめちゃくちゃウケており、笑いの量で言えば、冒頭からほぼ全てのくだりで、95点近く叩き出していると言っていいほどにウケている。審査員コメントも絶賛の嵐で、結果として870点という今大会一番の点数となった。ナイツ塙の「僕の師匠の内海桂子が、漫才は言葉で絵を描きなさいって教わったんです。今までの歴代チャンピオンはみんな絵が浮かぶんですよ、でも、本当に今日は絵がどんどん浮かんできて」というのは、とりあえず、エバースの漫才への講評で出てきた言葉だということは何かに使えると思うので記録しておこう。おばあちゃんのお葬式とか、坂元裕二に憧れたのが丸わかりの脚本とかに。
エバースの漫才は、佐々木による町田へのロジカルな追い込みが軸となる。
「町田に車をやらせる」と設定されたスタートに対して、そのゴールは「町田が車になる」、「町田が車にならない」のいずれかとなるが、基本的に観客は「町田が車になる」というルートが選択されることを望み、想定する。そのため、ネタの展開は「どう町田が追い込まれていくか」に限定されてしまうため、佐々木が町田の逃げ道を塞いでいく方法までは流石に予想出来ないにしても、「町田が徐々に納得させられていく」過程が繰り広げられるということが、設定を提示された時点が決められることになる。これは、カナメストーンのネタの構図とは真逆にあると言ってよく、自由が入り込む余地が失われているのである。これは、エバースのネタが雑談なのかという問いにも通じてくる。雑談というのは、道中の余白もゴールもないからこそ、雑談なのである。本当の雑談は雑談を目指しているのかということは哲学的な問いにもなるが、個人的にエバースの漫才にハマりきれない理由を強いてあげるとすれば、それと同様に、論理の動線の不自由さにあるのかもしれない。いや、真面目に漫才を見過ぎだろう。
そうこう考えているうちに気がついたことが一つある。それは、エバースはブラックマヨネーズの系譜にあるのではないか、ということだ。ブラックマヨネーズのネタがあまりに完璧すぎるため、少しでも論理のぶつけ合い/攻めぎあいが始まると、ブラックマヨネーズを想起してしまう。少なくとも、復活後のM-1グランプリにおいては、いかにブラックマヨネーズの漫才のフォーマットを換骨奪胎するかが水面下で繰り広げられていた。つまり、ブラックマヨネーズじゃないですよという顔をしつつ二人で言い合いをするかということは、意識の有無を問わず、20年代の漫才における裏試練となっていた。
吉田からのいかなる相談も「皮膚科の先生に相談をする」としてしまうというゴールが決まっているため、徒労に終わることを知りながらも小杉は、吉田の主張に代替案を提示する。吉田も「最終的には皮膚科の先生に相談すればいい」と思っているにも関わらず、小杉の代替案の穴を指摘する。そんなブラックマヨネーズが敷いたレールを、いつの間にかエバースは爆走しかけているのではないか。少なくとも、エバースとブラックマヨネーズの類似性が指摘されているのを見たことはない。
この見立てが正しければ、誰かが言っていた、『LEON』のゲイリー・オールドマンの悪役を、あらゆる日本の若手俳優が模倣をするも、模倣にとどまっていたところ、『十三人の刺客』にて稲垣吾郎が到達したと話していたが、それに似た感動を感じる。
エバースのネタが、本当に雑談となった時、とんでもないことになるのではないか。
好きなくだりは、神奈川県民が言う「えのすい」、「車の免許持ってたらレンタカー借りるだろ」への町田の本気でキレかけているように聞こえる「あ?」が『アナザーストーリー』で放送されていたかなりピリついていた演技指導の賜物だとわかるくだり、「思われねーよ、実際は」、町田からジープへのアハ体験、「人として後ろに下がってんのよ」。
注意しないといけないくだりは、レンタカーを借りた場合「わ」ナンバーとなってしまうためその時点で車を所持していないことがバレてしまうことと、「なぜならこいつを裁く法律はまだないから」と町田は言うけれど、警察は、明確に違反している法律がない不審者を逮捕する時、とりあえず、一般的に考えられる目的とは異なる目的でその場にいたとして、住居不法侵入や建造物侵入で逮捕するらしいというところ。
5組目:真空ジェシカ
「もう一個上の階かと思ってた」
ヤーレンズ評でも確認したように「舞台を大きく使う」ということは、漫才のテクニックであるが、上手側、下手側、観客側ではなく、上方にまで舞台を拡張した例は寡聞にして把握していない。ツカミ一つとっても、このクオリティであるため、もう、ボケの面白さや、真空ジェシカがどう進化しているのかは、もうここで語ることは諦めていますので悪しからず。
「過去5年間で、初めてと言っていいくらいのツカミでのミスをしてしまっている」とスマホのメモ書きにも残していたが、2回目を見た時に、全体的にテンポは悪くなく、よく言えば、例年より伸び伸び漫才をやっていることで、前半が冗長に映っていたのかもしれない。博多華丸の博多大吉が、ネタ時間の長さを指摘していたことと、1点差で最終決戦を逃してしまったこともあって、あー、やっぱりそうか、と引っ張られてしまったのだけれど、笑い飯の哲夫が91点と一番低いんですが、コメントが振られていないので、どう思っての点数なのかが気になる。
「負けに不思議の負けは無し」と言われるぐらいなので、ツカミから「ワクワクしてきたぁ」までの前半にある弛みとそのことでギアが入るのが遅くなっていたなど、気になった部分はいくつか挙げることができるが、そこも割愛しよう。そのくらい、真空ジェシカが好きなので。
好きなくだりは、「車椅子テニスの選手が2連続で車のネタ引いたっ」というガクのアドリブを受けた川北が「名門のペーパードライバー講習には一流のペーパードライバーたちが集まるらしいから」と説明する間の普段なら見せないようなニヤつきを堪えている川北の顔、「栄光?」、転売疑惑への予防線を張る中川シャー子、「いや、初めましての時以外もお願いしなくてはならない」、「走るボタンを押せ」、ファントムに対して思い出が一個しかないところ、何回見てもどう考えても何にもかかっていない青しんごだったというオチのオチてなさ。
真空ジェシカについては、優勝しても、このくらいの分量になりそうな気がします。
6組目:ヨネダ2000
ヨネダ2000もまた、真空ジェシカの漫才と同じで、特に語ることはない。なぜなら面白すぎるし、やっていることは素人目においては、その進化や凄さが分からないからだ。でも楽しい、それだけで本当にすごい。そのため、アンタッチャブル柴田の「100万円、ドリブルで稼ぎましょうって設定で入って、あややが邪魔しにきて、でも、二人であやややっちゃって、最終的にあややがダンクしたんで、10万円もらえるってネタ」という説明以上でも以下でもない、というしかない。
ただ、めぞんの項目で、漫才とその中に出てくるBPMとの違いから生じる、テンポのズレについて話したこともあるので、ヨネダ2000における音楽について考えてみたい。結論からいうと、ヨネダ2000は、漫才の大半に歌を組み込むということで、ある一つの偉業を達成している。
ちなみに、AIをネギでひっぱたいてみると、松浦亜弥の「桃色片想い」のBPMは、公式情報として明確な記載は少ないですが、楽譜情報やカラオケのテンポ設定からおおよそ150BPM前後、またはそれよりやや速い150~160BPM程度と推測され、明るく軽快なJ-POPらしいテンポ感です、ということを教えてくれた。
つまり、ヨネダ2000の漫才は、ほぼ、明るく軽快なJ-POPであるわけだが、ネタに音楽を取り込むことを飛び越えて、音楽にネタを組み込むレベルまで持っていくことで、、関東の女性二人が無理しているように見えることなく、関西の男性二人の、つまりは正統であり始祖とされている漫才のテンポにまで肩を並べているということだ。男性二人がこのBPMの漫才をする場合、得てして、言い合いが生じる刺々しいものとなってしまうが、ヨネダ2000の場合は、ハッピーなものとなっている。
つまり、ヨネダ2000は、関東の女性コンビでありながら、関西の男性漫才コンビに比肩するほどの、テンポを獲得していることになる。当たり前だが、ヨネダ2000は、音楽にフリーライドしているわけではない。「桃色片想い」のBPMを体に叩き込むこと、ネタが音楽に飲み込まれないために練られて随所に配置された数々の笑いどころなど、そこには、どこまでもネタであろうとする強い意志に溢れている。新しいフェミニズムかと問わざるを得ない。
構成力の高さも見逃せない。「ルールの説明と実践というチュートリアル」、「応用」、「愛が本気になる」という、三幕構成が用いられている上に、それぞれのが長さも絶妙だ。
だからこそ、愛が100万円をゲットするために本気になる理由が欲しかった。冒頭で一言、愛が100万円を欲しがる理由を話すだけでも、ネタに奥行きがさらに出ていたと思われる。とはいえ、ヨネダ2000には、そのような理由づけがないことがヨネダ2000の魅力でもあるのでもどかしさはあるのだが。
好きなくだりは、あややにレスをもらって照れている愛、ふっ飛ばされる誠、少し考えて本気を出す愛、あややと愛の対決を別室で見ているわけではないという無意味な設定。
7組目:たくろう
たくろうの漫才のシステムを知った状態で、ツカミを見返してみる。
「メガネのパーマ、木村バンドと」
「裸眼のっ、化け物っ、赤木です」
木村バンドが喋り始めて7秒で、赤木は、木村に巻き込まれて、勝手に追い込まれて、ずれたことを言ってしまう人である、ということを説明していたことに気が付く。挨拶的な笑いを起こすためのものではなく、本当の意味でのツカミとなっている。反面、木村の「リングアナやりたい」という申し出に対して、「リングアナ?何がええのあんなして」から始まって、終始、赤木は木村に乗ろうとしない。結果、赤木がその設定に入るまで50秒以上の時間を使っている。そこまで溜めてから、木村がリングアナ風に「タイトルマッチを行いますっ」とアナウンスし、赤木を見つめる。そこで初めて赤木もリングアナ風の発声で「お願いしますっ」と乗りはじめる。
一度、緊張と緩和を経てからは、木村の発言の3文字の英語に反応して、赤木がリングアナっぽく喋っていくという、一見すると、単なる大喜利の羅列のような形式をとった漫才となっていくのだけれども、実は、木村から赤木への大喜利のお題が、明確には提示されていない。赤木は、木村の「リングアナを二人でやりたい」という申し出に巻き込まれ、何も分からないが、でも喋らないといけないというプレッシャーに負けて、勝手に大喜利を出されたものとして、空気を探りながら、都度都度答えていく。大喜利羅列系のネタは数あれど、ボケが迎えうつのではなく、ボケが追っかけるとしか言いようがないタイプの漫才は寡聞にしてすぐには思いつかない。
大喜利羅列系のネタは、基本的には、外しのテンポを入れることはあれど、後半に向かってグルーヴを生み出すために、直線的に、速度は増していくのが定石である。ただ、たくろうのこのネタは、「たくろうのネタを圧縮した名刺としてのツカミ」「なかなか入らない設定」「リングアナとして木村についていく赤木」「選手の名前を合わせられなかったことでテンポを乱していく赤木」という、超早い、遅い、早い、ちょっと早いという順になっていて、これまたよく分からない。
本当に、不思議なネタである。
不思議というか、深く考えれば考えるほど、構成、役割、形式すべてが、既存のネタとは何かが徹底的にずれており、不気味の谷の奥底から拾ってきたもののように思えてきて、怖くなってくる。たくろうの漫才を構成する要素一つ一つは、不協和音の原因なのだけれど、すべてを合わせると、調和しているように見えているだけのような気もしてくる。たとえば、自分が産まれてきてから撮影された写真を、何千枚、何万枚とAIに食べさせて生成させた、今の自分の写真を見た時に、遠目から見ると今の自分なのだけれど、じっくり見てみると、誰だこいつ、となることに気がついたものの、一緒に見ている知人たちは、めちゃくちゃ似てるね、と言い合っているような不気味さを持っている。
「ミッドサマー」の感想を書いているわけではないので、漫才の楽しさに戻ると、この微細に振動するそれぞれのズレが、漫才中盤以降の、深夜の大喜利で何を言っても爆ウケする状態を生み出しているのではないかとしか考察しようがない。
好きなくだりは、PCR5年連続陽性、BBQウインナー係、「なんで意地悪するの、意地悪線といて」からの「おじいさんちゃう、おさみさんは」、上戸彩の「まだまだ続きが見たくなりますねぇ」という思い出す限り上戸彩から発せられた中でも最上級の賛辞。
8組目:ドンデコルテ
狂騒が明けてから、一部の人々に、読書家、けん玉の技術、人の良さ、革靴が趣味というあまりにも、あまりにもすぎるその人物像に、アラフォー界隈に初めて「メロつく」という感情を芽生えさせている渡辺銀次と、4つ下で宜野湾市出身だったら浦添市出身の40歳の筆者なら、友達の友達の弟くらいで繋がりそうな小橋共作。
全く想定外の展開を見せたという意味では、ドンデコルテは、間違いなく今大会で一番の衝撃度であった。
シックなブラウンのスリーピーススーツに、個性的な色使いのペイズリー柄のネクタイとポケットチーフを合わせて着こなしている、やけに清潔感がある男が、朗々と歌い上げるかのように、デジタルデトックスのメリットについて語っていく。その中で、自分はデジタルデトックスはやらないということを、さらりと挟んでいたことに気がついた小橋に、なぜ、やらないのかと問われると、男はこう答える。
「渡辺銀次、40歳独身。厚生労働省の定めた基準によると、貧困層に属します。国も認める低所得。私はこんな自分と向き合うのが怖いんです。スマートフォンを置いて、わざわざ意識をはっきりさせてこの現実を直視する勇気などないんです。」
ここでドカンと笑いが起きる。サンパチマイクの前に立って喋り始めてから1分かけて先述したセリフに入る。この溜めがしっかり効いていたから、本当にやられてしまった。たっぷりとした緊張からの緩和を皮切りに、後半に向けて畳み掛けていくという意味では、たくろうのネタと構成は似ている。また、ネタ全体を通した、「渡辺銀次」という男にまつわる情報の出し方も、文学的だ。最初に渡辺であることを名乗って、相方からはナベさんと呼ばれ、最後に自ら、渡辺銀次と名乗り、思想を開示していく。ものすごく、文章的なテクニックを感じる。というか、こんな感じのことを、小川哲の「言語化する小説思考」に書いていた気がする。
他にもテクニカルな部分がいくつもある。例えば「古い小銭がピカピカになる動画」、「年金とか保険料は税金なのに税金って言わない」など、ネタ中に出てくる、あるあるの精度も実は高い。また、「大体あの年金とか保険料ってなんで税金って言わねぇんだよ、味方みてぇな顔で近づいてきやがって。あんなのペテンだからな」と現実に向き合いかけた時の喋り方が、これまでと変わることで、現実と向き合っていない時間が虚構の姿であるということを分からせるなどの表現力もある。
このネタにおける、表現について、セミナーだ、教祖だと言われていたが、昨年の国民が茹だり切ったあの夏に多く見た政治系ショート動画の影響を受けている可能性が全く否定できないものであることは指摘せざるを得ない。見せ方もそこから持ってきているかもしれないし、ウケた理由も観客がそれらを見てあの独特の喋り方を受け入れる余地が出来たからかもしれない。にも関わらず、「自民党はありません」というくだりについて、イデオロギーの左右を問わずに、なぜこんなにも笑えるのかというと、政治の話をしているようでありながら、銀次が実は全く政治の話をしていないからだろう。銀次の主張をよくよく聞いてみると、ただただ、これは自分が現実から目を背けているという話しかしていない。銀次があまりに個人的な話をしているために、第二波フェミニズムのスローガンである「個人的なことは政治的なこと」への誤配が生じてしまっている。これは本来、業の肯定の話である。
好きなくだりは、銀次のスーツの着こなし、Vtuberが好きだというだけで現実に向き合っていないとも取られなかねない偏見、「自民党はありません」、「敵ではない」というオチから感じる優しさ、あまりにウチナーグチすぎる小橋の「もういいよ」。
銀次に期待することは、「アメトーーク」の「読書芸人」への加入、カゲヤマ益田の実家を出る前に居住区画をPOPEYEで特集、アルコ&ピース平子とのスーツ購入動画、「気分は上々」でウッチャンにチャーハンを振る舞う、『ONE PIECE』の好きなキャラを3人あげる、爆笑問題太田光に喫煙所でいじられながらも読書の話をしたという話をカーボーイで聞くこと。
9組目:豪快キャプテン
審査員コメントで、ミルクボーイの駒場が、「聞いた方がええ話と、聞かんでええ話」「ほんまに聞かんでええ話を聞いてみたらめちゃくちゃおもろかった」と評していたとおり、本当に、聞いて何の意味もない会話であると同時に、一番、見れば見るほどこのネタの題材の良さ、嘘の無さ、成立している会話に、ドラミングのような大きめの音が叩かれ続けているようなテンポ、どれをとっても惚れ惚れとしてしまう。
「小さいカバンを買いに行こうと思っているし、相方である山下にも同様に小さなカバンをプレゼントする」という提案をベーやんが持ちかけると、「いや、いらんよ、俺はそんなんね。なんで俺の買ってくるの」と拒否をする。それでも小さなカバンは良いものだというベーやんに対して、「小さいカバンはいらん」と「大きければ大きいほどなんでもいいと思ってます」と、拒否し続ける。大は小を兼ねる論者である山下が、「簡単にいうたら、俺とお前やったらね、俺の方がええです」と自らの思想を提示することで笑いが起き、漫才が始まる。そこから、小さなカバンを持たずにコンビニに行く山下が、ポケットがパンパンであるということへと展開していく。
そこからの「ポケットパンパンな人とすれ違う」、「どこに何が入っているかはポケットの方が把握しやすい」、「ポケットパンパンな人への偏見とその訂正」
までは、見返せば見返すほどめちゃくちゃ面白い。
山下のキレっぷりもたまらないけれども、そのキレへの正当性を担保しているのは、ベーやんの表現力だ。山下のキレを無効化するかの如く、どこまでも飄々としているので、「ポケットパンパン同士でご飯を食べに行くことになる」、「ポケットパンパンだとお腹もパンパンか」という、ずれた反応も、ただただ本当にズレたことを言っている人であり、あんまり山下の話を聞いていない人になっている表現力も凄い良い。ここまで他人からの説教が体に入っていない人を演じている姿は、昔のバナナマン設楽の演技を彷彿とさせる。その反面、広島弁で、関西でも受け入れられるであろうテンポの漫才をしているところが凄い。
エバースが亜種としてのブラックマヨネーズからの系譜であるとすれば、豪快キャプテンは、正統な系譜と言ってもいいだろう。加えて、「どこに何が入っているかポケットの方が把握できますやん」からの財布、携帯、カードケースの位置を説明してからの「ポケットパンパンやん」に対しての「ポケットパンパンよ」を経ての、「そんなんいれよったらどこに何があるか把握できんじゃろ」からの「全部教えたやん」という痺れるくだりはミルクボーイ味もある。
ここで気がついたことがある。
山下は、べーやんが小さなカバンを購入する分には「勝手に買うたらよろしやん」だが自分の思想的には小さなカバンは不要であるというNOT FOR MEと、不要なプレゼントはいらないという自己決定権、短気が先であるという性格の受け入れ、ポケットがパンパンでも几帳面な人はいるというルッキズムの否定をしている。実は、山下の主張は、めちゃくちゃ令和の価値観じゃないかということに気がついてくる、山下の敬語も、トーンポリシング対策のように思えてくる。ドンデコルテの1本目のオチ「まっじっで凄い」にも通じる、この。数年前なら、ここから「女性が小さなカバンを持っている」という「あるある」が挟まれていたり、そこに展開するネタだとしても、決勝に上がっていた可能性はある。ただ、ウケているネタは、先述した通りに、自分は自分、他人は他人というバウンダリーについてである。そこにもこのネタには希望がある。素晴らしい。どうしよう、山下ギャンブルゴリラが、フィメールラッパーに見えてきた。
好きなくだりは、綺麗なダイノジ感のあるルック、ベーやんの広島弁を関西弁の漫才に全くの違和感なく落とし込んでいるところと広島弁であれば落とし込めるという発明、ポケットパンパンやん」に対しての「ポケットパンパンよ」を経ての、「そんなんいれよったらどこに何があるか把握できんじゃろ」からの「全部教えたやん」まで。
想定されるこのテキストへの批判と応答は、NOT FOR ME、自己決定権、ルッキズムの否定というのが、令和の価値観ではなく元々あったもの/あるべきものであったのであるみたいなやつに対して、あくまで人口に膾炙したという意味なので、うるせえ、文脈で察せられるだろ。
ちなみに僕は、陰獣のフクロウが好きなので、ポケットパンパンの人に重要な仕事を振りません。
10組目:ママタルト
少し、エキシビジョンマッチ感が出てしまっていた空気が、それは、ヤーレンズ同様、ママタルトの漫才が楽しいからに他ならない。ママタルトって、なんでこんなに季節に即したネタが合うのだろう。冒頭から少し失礼なことを言ってしまったので、今大会で一番好きなくだりは、「明けましておめでとう」からの「こんな鳥居のギリギリまでチャリで来んな」からの「チェーンでチャリと鳥居をくくるなよ」という肥満の肥満たるゆえんと二重の意味で体重が乗っかかっているくだりであることは、きちんと言っておこう。ここが一番、脳内で絵が描かれました。
問題点としては、やはり後半の失速と、舞台が初詣先の神社で完結してしまったところだろう。他のネタと比べると、舞台も小さく、ストーリーも単一動線的に思えてしまった。
好きなくだりは、チャリに鳥居をくくることを檜原に咎められた際に、不謹慎であることではなく、盗まれることを気にしている肥満、「ここの神様、だいぶ海外の絵本やん」、「なんで俺、鳥居くぐる時、TikTokの新入社員やねん」、「全然もうええわ」。
例年であれば、ファイナルラウンドまで感想を書いているが、今年はあまり書く気が起きない。それは家庭の都合で、子を寝かせつけてから自分が寝るまでの1時間で一本のネタを何回も見ながら、感想を書くということに疲れたからというわけではない。無論、手抜きでも、足コキでもない。今年の大会でかけられたネタの数々の感想を書くのは、本当に楽しかった。生活における余白時間が許されるのであれば、敗者復活戦に出た全組のネタについてまで書きたいくらいだ。イチゴについて書きながら、イチゴが一番好きだと言っていた、あののことを嫌がりたい。あなぜなら、それは、皆が言っているように、過去最高レベルの大会に匹敵する大会だったからに他ならない。
では、去年はどうだったかというと、個人的に、大会後は最悪な気持ちになっていた。これは、令和ロマンの漫才が好みではないからなのかと、一年ずっと塞ぎ込んでいたが、そうではないということに、今大会の感想を書いていて気がついた。昨年は、令和ロマンが二連覇する/阻止されるのかという、レースになっていたことに冷めてしまっていたのだ。令和ロマンの髙比良くるまは、『HUNTER×HUNTER』のパリストンであるということについては、王位継承戦編が完結したあたりでじっくり語ることにして、M-1グランプリを賞レースとして見ていないということに話を戻すと、じゃあ、何として見ているかというと、漫才の博覧会として、だ。
現時点での漫才を大きく10種類に分別し、その中での一番となった10組の漫才師がそれぞれのネタを披露する。M-1グランプリは、自分にとって、いつしかそういうイメージとなり、賞レース後のウイニングランのようなものだ。だから、順位も、点数も正直、来週には忘れていたりするので、そこへの語りに全く興味が湧かない。漫才の種類を見ることが出来ればそれでいいのである。だからこそ、今年は本当に見ていて満足だった。今年のM-1がめっちゃええ大会だった理由は、1つ。10種類の漫才を見ることができたから、に他ならない。
ここまで書いていきたことは、基本的には勝手な解釈を持って社会性を付与して、キャッキャキャッキャしているだけである。それが批評であると言われたら嬉しい限りなのだけれども、ここまで色々と書けるのは、それぞれの漫才師が自由にネタを作ってきた結果である。その自由さが、豊潤さにつながっている。だからこそ、2019年以来の満足度の高い大会だったと言われているのである。
あー、まっじっで楽しかったっ。
さて、本題に入ります。
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稟議ディンドンドン
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ニュートン!りんごが落ちたところでお時間です!(松尾アトム前派出所)