裏2本目失礼します!
この記事は、KMN裏 Advent Calendar 2025 - Adventar 6日目の記事です。Kumano dorm. Advent Calendar 2025 - Adventar 22日目の記事の、おまけにもなっています。
これらは、2025年に書いたけどブログに載せてなかった文章たちのまとめです。文体も内容も統一感/まとまりありませんが、興味ありそうな話があれば読んでいってください。そして私と友達になりましょう。泣
目次
1. 二人のサブパーソナリティについての記録
2. 愛着と不安と恋愛
3. 活動家になれないパート2/心理主義化する社会にイライラする/無害な推し語りこれ以上いらん/性的消費への飽くなき探究心
4. 退寮後、フェミニズム合宿に参加した時の話
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1. 二人のサブパーソナリティについての記録
何回同じことやれば気が済むんだ、自分って最悪すぎる。という気持ちで常に生きてるのに、私って明るい性格で最高♪ってかなり本気で思うし、実際のところ私はかなり明るい。
躁と鬱とか、表と裏とか、二重人格とか、そんな単純ではない形で、私は2人いる。というか私の中に私に準ずる存在が2人いて、そしてその2人の間に信頼関係は全くないのだが、結果的に協働している。人格というほど独立していないというか、私から業務委託を受けている人が2人いるみたいな感覚。サブパーソナリティという概念がかなりしっくりくる。
明るいほう:向こう見ずで、ただ走り、拡がり、悪行の限りを尽くし、目に入るもの全てを愛し、消費と破壊を楽しみ、そして決断という決断を一手に引き受ける。
暗いほう:もう1人の自分を、苦々しく思いながら黙って眺めたあと、結果を生きさせられ、そしてその責務を投げ出し続け、逃げ、倒れ、這い、寝腐る。
明るいところにいる私がせっかく決めたことでも、暗いところにいる私は一つも完遂しない。だから暗いやつは信用できない。
暗いところにいる私がいくら内省しても自責しても、明るいところにいる私は全く顧みない。だから明るいやつは信用できない。
ただ、明るいやつだけが私の人生を動かしてくれる。決断してくれる。走り出してくれる。そして、暗いやつが抑圧している全ての感情を代わりに噴き出させてくれる。
そして明るいやつは何も反省や学習をしないので、自分がせっかく切り開いた道を、暗いやつはろくに引き継ぎもしてくれないということさえ、何も気にしない。だから明るいやつは懲りずにまた現れる。私を未来に連れて行ってくれるのは明るいやつしかいないから、暗いやつはただそれを黙って見ている。
暗いやつは、完璧な計画を立てるのが好きだ。過去のことをくよくよ考えるのが好きだ。やらない理由を考えるのが好きだ。こいつにはいいところが特にないのだが、まあ基本的には安定していて、落ち着く。
暗いやつは暗いやつのままでいたがっている。1人になりたい。変わりたくない。明るいやつがいつも安寧を壊すから、正直いなくなってほしいと思っている。でも、明るいやつがいなければ私は何も決断することができないし、交友関係を広げることもできないし、とにかく横になって自己嫌悪もしくは空想を繰り広げることしかできない。
これがトラウマ由来の解離なのか、ADHDとASDの併存によって起きている問題なのか、なんなのかはよくわからない。とにかく私は2人に交互に体を使われていて、何がきっかけで入れ替わるのかも分からないし、自分の人生が自分のものであるという感覚を持って生きてくるのが難しかった。大体22歳くらいまで「自分が自分の人生を動かす主体である」という感覚は全くなかった。
最近では、「自分を信用できない」という感覚が「準わたしたち2人の間に信頼関係がない」で説明でき始めた。2人を真に協働させることができれば、私は私の人生を生きていけるという希望も見えてきた。
とはいえ暗い私は常に苦しんでいるし、どの私が前に出てきていたかとは関係なく「どっちかの自分が生きた昨日」が「ただ1人の自分の、ずっと続いてきた過去」の一部だとは到底感じられず、なんだか道のりは長そうだ。その一方で既に「私って明るい♪」と思えてはいるの、不思議〜。
2. 愛着と不安と恋愛
①夏に書いたもの。今読み返すと、かなり躁の気配を感じる!
人を好きになることが、私の生存戦略だった。生の実感を得るために、そして現実から飛び降りてしまわないように、私の人生には常に恋が必要だった。私は恋という名の欲望にすがることで、世界を生き直してきたのだ。この行為は何度も私をリスポーンさせると同時に、恋の相手である男たちをすり減らした。しかし、これは青く歪んだ恋の失敗談であるだけでなく、「他者を通して自分を見出したい」という、人間の根本的な欲望の形でもあった。
巨大な恋愛妄想(の、逆)に何度も自分をうずめてきた私が、最も没頭すべき代替行動は何だろうか。代替行動とは、ざっくり言えば、何かへの依存をやめるために代わりに取る行動のこと。私にとって、それは「たった一人の読者に見つけてもらうために書く」ということになりそうだ。
始まりはいつも、ささやかで突発的だった。「話したことないけど、かわいい人かも」小さなときめきが、やがて私を支配してしまう。思考は加速して、彼の姿が頭の中を埋め尽くし、他のことは何も考えられない。この恋が叶わなかったら生きていく意味がないし、でも私は可愛くなくて、話も面白くなくて、彼に好きになってもらう方法なんか分からない。まっとうに嫌われるのは怖いから、叶うことを夢見るのは怖いから、今すぐ嫌われて安心したい。
こうした白黒思考は、恋愛に限らず私の思考様式のほとんどを汚染している。そして大抵の場合、私は酒なり市販薬なり処方薬なりの力で理性のスイッチを切る。そして何をするかといえば、長文のLINEを送りつけるか、あるいは突然電話をかけ、デートに誘ったりする。自分という人間の仕様書を詳細に語ってきかせ、関係を築いていく価値のある人間だと思わせようとする。それなのに、いつの間にか私は、自分の欠点ばかりを彼に語り始める。彼が自分に惹かれ始めているのだとしたら、それは熱にうかされているだけだ、と説得するのだ。やがて私の難儀な性格は「性欲由来の優しさ」によって受け入れられたとして、私は少しずつ私を納得させる。浮かれることを自分に許す。やっと私たちは恋人になる。
付き合い始めると、私は「私という面倒な彼女との会話における正しい返答」を教え込むようになる。彼の私に返す言葉が少しでも自分の想定と違えば、長文LINEを連投して謝罪を求める、といった形で。恋人であるならば、ふたりはぴったり寄り添った形でなければならないからだ。そして私という嵐は彼の生活と言葉を侵食し、もっと豊かだったはずの思考や応答を矯正してしまう。そんな理不尽な訓練の先に、やがて安寧の日々が訪れる。日常に起きた出来事を報告し合い、小さな達成を一つずつ褒め合い、なんでもない会話をして、ある日私の恋は終わる。あれほど渇望していた安心に、全く飽きてしまう。
世で「愛着」と呼ばれるような、生きていくために必要な安心感を私は持っていないらしい。ぺらぺらの人格は、まるで強風に吹き飛ばされる紙みたいに、アッパーとダウナーの間を頻繁に行き来してきた。どうせきっとこの先もそうだ。わざわざ言い切るのもなんだが、こんな精神状態で社会生活を送ることには無理がある。だから私は「文鎮」としての恋人を必要とした。重しがなければ、他に足をつけていられない。「世界のすべてが自分ごと」な躁病的世界観と、「この世の何ひとつとして自分には関係ない」鬱屈とした日々。その二極を何度も何度も往復する私にとって、恋愛は生活の中にひとすじの因果を走らせてくれる唯一の「物語」だった。恋愛でもしていなければ、全くランダムに気分が変わってしまう。そんなのは、本当に、理解不能で、居心地が悪くて、不愉快だ。けれど、好きな人の一言で視界が変わってしまうのなら、それは幸せなことだと強烈に思い込める。彼が私と同じ気持ちになってくれれば、世界はたちまち自分のものになった。彼が私の期待に応えないとき、世界は私を置いてどこかに去り、目に入るすべての人は敵だった。こうして私の極端な世界に理由や意味が生まれると、私は心底「落ち着い」たのだった。
ところで私は、恋愛によって愛着の欠如を補完したい、つまり私を愛してくれる人の存在によって、根本的で揺るぎない安心感を得たいと思っているはずだった。しかし実際には、倒錯した痛みへの欲望を抱えることになった。好きな人から傷つけられると、世界が色を変えるほど、私の精神は大きく揺れる。そして、私の感情の根拠を握ってくれる人のことが好きなのだと誤認した。心のぐらつきに理由が欲しくて、誰かに手綱を握られたい。そして自分はその人のことを確かに好きなのだと強く実感するために、コミュニケーション不全の痛みを感じたい。この欲望は、先述した”難儀な白黒思考”と相性がよかった。私はしばしば、私とのコミュニケーションにおいて期待通りの応答をしない人に対して、その発言に傷つき、痛みを恋とすることにした。そんな「恋」の相手に対して、自分を傷つけることを求め、何回振られても告白し続けたり、迷惑行為に及んだりもした。これは痛みへの欲望から発するものでもあり、「どうせ好かれないなら早く嫌われたい」という白黒思考に基づくものでもある、自傷と他害の行為だった。
恋愛とは、人を行動に駆り立てる欲望の最も身近な例であり、凶暴で凶悪なエネルギーだ。もちろんそれは自分を救う物語でもあり、誰かを支配する欲望の現れでもある。私は何度も他者を自傷行為に巻き込み、閉じた物語を描くことで自分一人だけを救済してきた。ある男が別れ話の中で私にぶつけた言葉の通り、私はいつも自分の痛みにはひどく敏感で、それでいて相手の傷つきにはきわめて鈍かった。鈍いどころか、見ようともしていなかった。私が見たかったのは、自分の傷と、それを手当してくれる彼の姿だけだ。
↑上の文章中では、まず好きな人がいて、そこに不安という傷をつけることで生の実感を得る、みたいな順序で自分のやりがちな失敗を捉えているけど、最近逆もあることに気づいた。つまり、コミュニケーション上で不安を感じた時、それを恋と誤認することが多々あるという意味です。下に載せるのは、今月書いていたもの。↓
②冬に書いたもの。少しふざけすぎ
・不安と好意の区別をつけられるようになりたいし、不安がりを治した上で他人に好意を持つことも経験したい。私は人に不安にさせられると、その人のことを好きなんだと思ってしまう。その対象が全然知らない奴であることもままある。よく知らない割に好意だけがありすぎているとき、よく知ることで辻褄を合わせるべきか、好意を消す(ほぼ不可能だが、より強い不安をくれる人に出会えば消える)べきか。友達はみんな好意を消そうとしてくれるし、そっちが正しいんだろう。
・よく知らないのに好意だけがある状態(いわば、事故)というのは、自然に仲良くなることができない相手だからこそ起こることなので、やっぱり「友達になれないやつと親しくなるための力技」こそが恋愛なんだ。許せないものを許すために性癖があるのだ、とも思っているし。
・まあ、私が今まで恋だと思ってきたものは全て不安だったという説もあります。
・ソマティックエクスペリエンシングとか、そういうトラウマ治療をいずれ受けていく必要があるな、とは感じているのだが、不安がりを治して神経系を正しく繋ぎ直した時、私は恋愛をしたいのだろうか?
・不安のピークが去って(複雑性PTSDのフジファブリック)、その人のことを偏執的に考えなくて済む程度のメロつきに収まっている状態で、普通にその人と仲良くなりたいと思ったときに、本当にただ仲良くなりたいのに、自分のメロつきを暴走させないために分厚い壁を作ってしまい、結果さらにうまく話せなくなる。人生単位で損している。
・ビッチじゃない浮気性って半端だから、ビッチでありたかった。ビッチへの憧れ、コンプレックスを抱えてキモい奴として生きていくしかないのか。トラウマ治療とかで神経系の反応に働きかければ普通に近づけるのか?不明。
・京都に来てからの6年で、自分の中で起きている間違った認知の仕方を、理屈では理解できるようになってきた。ここからはそれを身体感覚の次元でわかっていくことが課題。薬と内省の時代は終わり。カウンセリング、トラウマ治療が流行。
・変じゃなくなりたい、普通になりたいという気持ちと、変じゃない私ならどうやって面白がってもらえるのかという不安に挟まれるようになって数年経つが、やっぱりただ単純に、誰かに選ばれ続けたいだけかも。
・私が好きになる人って、話が合うとかじゃなくて、この人が私のこと好きになってくれたら自信になるなと思える人だ~。
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3. 活動家になれないパート2/心理主義化する社会にイライラする/無害な推し語りこれ以上いらん/性的消費への飽くなき探究心
・倫理的であろうとすることと欲望に向き合おうとすることをどっちもやめたくない、みんなもっと自分の欲望のために闘うべきだし他人のために生きるべき。こういうオタクが許せないとか、こういうオタクが幅を利かせてる界隈が許せないとか、そもそも社会が許せないとか、怒りを原動力にするとめっちゃ動けますよね。怒り続けるためのコツは、自分と同じことに怒ってる人と共にいることです。ちなみに私はこれが苦手すぎて活動家になれませんでした。私たちはどうせ活動家未満の弱い市民でいいから、せめてなるべく自分の立場を明らかにして生きような。しかし本当に信頼できるオタクはみんな活動家マインドを持っているということに、みなさんもお気づきだと思います。
・「精神衛生」「予後が悪い」「自分の機嫌は自分で取る」などの語彙が流行ることの気持ち悪さ。自立した個人という幻想に囚われて、人間の実存は関係性の中で形作られるものだということを忘れすぎているし、関係性の中で生じる欲望を漂白しようとする/病理化する流れが強すぎる。他人と生きるためにもっと自分の欲望に向き合え。結局欲望の話かい。
・「性的消費」について?欲望について語る視点は、それが持つ加害性にフォーカスしたものになりがちだが、たとえばアイドルに対する性的搾取といった問題を解決するためには、ただ加害性を持つ(とされる)欲望をアイドルとオタクの間から排除すればいいというわけでもない。そもそもそんなことは不可能だし。アイドルとオタクという関係性の中で渦巻く欲望がどのようなものなのか、それはアイドルというひとつの商業ジャンルの中でしか満たされないのか、またその発露はかならず性的消費を伴うのか?欲望の内実を明らかにしなければ「推す」という行動を変容させるための議論はできない。「アイドルを性的消費しているのではないか」という罪の意識から逃れるために、自分の欲望を覆い隠しても意味がない、人間のエシカル消費なんかありえないし。そもそも他者への欲望は人間的な創作活動の根源であり、個人の嗜好と社会正義を繋ぐ橋になるものだと思う。たとえ欲望そのものがいかに醜く、非倫理的なものであっても。わずかでも加害的な面を持つ欲望は存在することを許さない、他者に害を成し得ない欲求の存在しか認めない社会で、人間らしく生きることは不可能だろう。誰もが持つ他者への欲望を、善に向かう行動に繋げる方法を模索できないか。まずそのためには、欲望を見つめ受け止めることが「推し語り」の新しい形態として一般的になる必要がある、と思う。とはいえ、欲望の対象を当たり障りのない言葉で賛辞するだけの無害な「推し語り」もまたオタクの日常には必要なのだが。良識的で倫理的であることを自らに強いるのを、キーボードの前で時折やめてみる。そして無害さの一歩外へ出て、痛みと快楽について生身で考える時間がもっと必要だ。
・KMN48について、詳しくはKMN48不要説に書きました。なんていうか、私の原動力は結局、性的消費への飽くなき探究心です。寮に入らなければ危ういというか普通に100%危険だったし、入寮以降も常に60%くらい危険。寮に入って危うさが解決されたわけではなく、公共圏/親密圏の概念をインストールしただけというか、公共圏を指向する姿勢?みたいなものを多少身につけただけだし、他人に対してもそれを求めているだけっぽいなと最近考えている。アイドルそのものよりアイドル批評が好き、みたいなオタクと繋がり続けたいというか、空中戦して遊んでくれる友達しかいらない。でも生身の醜い部分がないと心を許せないというか、清潔なだけのオタクに価値はないと思っているため、苦しい。今後の人生、何を推して誰と繋がればいいですか?
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4. 退寮後、フェミニズム合宿に参加した時の話。
・なんか、わたしは寮の中でしかフェミニズムの実践らしい実践をやったことがなく、つまり寮自治会として取るべき立場が明らかで、原則から導かれるひとつの正解があるような勉強会しか(やる側も参加する側も)経験してこなかったから、ハラスメント受けて嫌な思いしてもはっきりきっぱり言えない現実の中で、いかにマシなその場しのぎを繰り出すかみたいな、現実から飛躍しすぎていないワークをやって、私/全員に絶対これが必要なのに今まで足りてなかった!と感動した。
・めっちゃ使いやすくていいなと思ったワード「思ってること全部言っちゃうんですね」←「思ってないよ」「言ってないよ」とは言えない。自分が言ったことから逃さないでいられる。すごい。(何度も)聞き返すとか、水をこぼす(!)というのもあとで聞いた。水をこぼすくらいのことなら、できそう。その人のキャラクターによるかもしれないけどね
・私はこれがバイト先の飲み会とかだったら「聞こえてますよー!笑」みたいな、冗談風のことを言って次から行かないようにすることしかできないと思う。それすらできるか怪しい。寮ではハラスメントよくないという前提があるからまだ反論しやすいが、それでもその場で対処できることはめちゃめちゃ少なかったと思う、これは自分自身の経験でもそうだし、寄せられる相談の多くに「その場では何も言えなかったんですが」みたいな前置きがついていたから。社会を変える、相手に変革を迫る、団結のためにハラスメントをやめさせる、みたいな方針でいなきゃいけないのはわかるが、実際は社会が変わるのを待てないし、相手の人間性がそんなに短期間で変わることは期待しづらいし、まず驚いて何も言えないし、自分がきっぱり言えるようになるまで待てない。段階を踏んで強くなるしかないのに、ステップになるような訓練の場がない。社会にないし、寮にもない。その場ではっきり言おう/難しければ人権擁護部や窓口に言ってみんなで対処しようというのがスタンダードだが、実際は後者が選ばれることが多く、その場で何かできる人や場合は本当に少なくて、その場しのぎの「やらないよりマシ」くらいの反応さえ、訓練していないととてもできないものだ…。合宿でかなり感動というか、自分の訓練の足りなさを実感して、せめて私が手が届く範囲である熊野寮の中にくらいは、よりマシな「その場しのぎ」を訓練できる場があってほしいものだなと思い、そしてそれは窓口にぴったりの仕事だと思った。
・「マシな応答」「その場しのぎ」を教える勉強会となると、ただ改良主義的なだけのものになってしまい、自治会として後押ししづらい。自分が現場で実際に口にできたことの中で特にマシだった受け答えとか、聞こえてない/不快じゃないとは思わせないギリギリのリアクション、みたいな生活の中で積み上げてきた知見があるはず、みんなの中に蓄積されてるはずなのに、今のところはそれを個人的な会話の中で一人一人に手渡していくしかない。(中略)寮自治の文脈から離れすぎずそういうことをやるのって本当に難しいけどやる価値があると思う。
・まあ、正しいことを言い続けるのは絶対必要だけど、勉強会の中でだけ正しいことを聞いて話して、実際にハラスメントに直面した時に狼狽えて何もできなくて、自分を責めて、何かできるようになりたいと思ってまた勉強して架空のシチュエーションの中でだけ正しいことをやって…ただ理想と現実が乖離していくだけだと本当に虚しい。寮のコンパである程度尊重されながら過ごすことができても、バイト先に行けばリセットされる、そういうのも虚しいよ。
おわり!良いお年を!