前回、前々回とこのブログでリチャード・ブローティガンの「風に吹きはらわれてしまわないように」の出版告知の記事を書いている。
『風に吹きはらわれてしまわないように』リチャード・ブローティガン | 筑摩書房
この小説と私のかかわりはおよそ40年前に遡る。そのときに担当してくれた当時晶文社の編集者が秋吉信夫さんだ*1。秋吉さんにはその後も長くお世話になり、独立されてからも、ご結婚を経て姓を改められてからもなにかと気にかけてくださった。十数年前までは年賀状のご挨拶ぐらいは続けていたのだけれど、私が年賀状をやめてしまったこともあり*2、その後、ご消息を知ることもなくなった。今回の出版にあたって何かと思い出すことも多かった。姓を改められてからもお世話になっているので、ふだんはそちらのお名前が出てくるのだけれど、あの時代の記憶の中では「秋吉さん」だ。そんな思い出を記しておきたい。風に吹きはらわれてしまわないように。
とはいえ、実は、私は秋吉さんのことを何も知らない。それが私にとっての秋吉さんだった。年齢不詳の謎の人。どんなふうにして編集者になったのかを一度話してくれたこともあったけれど、なんだか謎すぎて私にはどうもうまく受け止められなかった。だからもう何も覚えていない。小柄な体をツイードのジャケットに包み、その下からはいつも黒いタートルネックがのぞいていた(もちろん夏にはそうでなかったと思うのだけど、私にはジャケットの下からのぞく黒いタートルネック以外の姿が浮かばない)。後年、スティーブ・ジョブズの写真を見たときに、「あ、秋吉さんだ」と思ったものだ。もっとも、黒のタートルネック以外で共通するところといえば眼鏡ぐらいだった。それでも、着飾るという意味ではおしゃれではないのに品の良さを感じさせるという意味ではとてもおしゃれな人だと思った。そういうところが連想につながったのかもしれない。
どこの大学を出たかとかどこの育ちだとか家族がどうだとか、そういう話はほとんどしなかった。これは、秋吉さん自身もしなかったし、私にも尋ねられなかったということでもある。もちろん、いわゆる世間話のようなものもお互いに積極的にはやらない。なので、話題は私が訳したばかりのブローティガンの話や、それに関連する文学の話にならざるを得なかった。
ただ、かなしいかな、私にはろくろく文学の話なんかできなかった。小学生の頃からの本好きで、中学生の頃には友人と競うように小説を読み漁り、高校、大学とそれなりに本を読んできたつもりの私だったけれど、世間標準でいえば「読書家」というにはあまりにも読書量が少なかった。大海に出て己の小ささを知る喩えのとおりだ。翻訳にあたってはブローティガンの作品は全部読んでやろうと思ってがんばったのだけれど、図書館で借りることができなかった何冊かはついに未読のままだった。あえて書店で買ってまで読もうとしない程度の浅いファンだったともいえる。なので、ブローティガンのエピソードを秋吉さんが語るのを私が「すごいなあ」という顔で聞くばかりだった。
仕事ぶりに関しては、「ていねいな人だな」という印象に尽きる。ただ、私が出会った編集者はほとんどがていねいな仕事をしていた。そういう職種なのだろう。あまりていねいな人間ではない私が編集者としてやがて行き詰まるようになったのは、ある意味、当然かもしれない。なので、仕事の打ち合わせのことで思い出すことがないわけではないが(「ここ、抜けてませんか?」みたいな指摘とか)、まあ特に記すようなことでもないだろう。そういうところに関しては、どの編集者にも共通するからだ。仕事に関して他の人と特に際立っていたところといえば、字がきれいだったことぐらいだろうか。きれいというのともちがう、独特の読みやすい書体だった。
パーソナルな情報端末のない時代だったから、連絡はいつも電話だった。私はこのブローティガンの著書、晶文社版の題名では「ハンバーガー殺人事件」の翻訳から2年ほどして会社を辞めているのだけれど、それまでは自宅に電話もなかった。だから、いつも連絡は会社の電話にくれていた。社長ひとり、従業員は私ひとりの小さな編集プロダクションだったから、たいていは私が電話をとった。なので、気兼ねすることもなかったのだけれど、何度かは事務所に戻ると社長から「晶文社の秋吉さんって人から電話あったぞ」みたいに言われることもあった。ちなみに、受ける方は特に遠慮はしなかったけれど、こちらからかけるときには外の公衆電話からコインを入れてかけていたような気がする。
「ハンバーガー殺人事件」が書店に並んだ頃、秋吉さんから「出版記念に打ち上げに行きましょう」とお誘いがあった。世間知らずの私だったけれど、世の中に「出版記念パーティー」みたいなものがあることは聞いていた。けれど、そういうものではなく、ささやかな打ち上げだ。秋吉さんは、ファミレスより少しだけ上等なところで飯を食わせてくれた。特にお酒を飲めとも言われなかったし、秋吉さんも積極的に飲もうともしなかった。乾杯のビールぐらいは飲んだように記憶している。体育会系の山岳部というところの出身で、そしてビール愛好家の社長のもとで数年働いていた私は、何かというと酒は飲むものだ、みたいな文化の中にいた。ただ、私自身は、別に酒が好きでもない。飲めと言われれば飲むけれど、ひとりで酒を飲むことは基本的にありえない。飲みたいと思ったことがない人だから、特に酒を勧めない秋吉さんはある意味、新鮮だった。
「あなたは小説が書けるかもしれない」
そう言われたのは、このときの食事が終わってコーヒーを頂いているときだったように思う。はっきり覚えているわけではないので別の機会だったかもしれないのだけれど、その口調と言葉は鮮明に記憶にある。私はもともと(多くの本好きがそうであるように)「こんな本が自分にもつくれたら嬉しいな」という思いがあり、それが無理だと思ったから翻訳者を志し、そしてそれが当面できないからと編集プロダクションでアルバイトをしていた若者だった。だから、そんなふうに言ってもらえてとても嬉しかった。けれど同時に、自分には書けないこともわかっていた。少なくとも「いまは」。なので、いつか書きたい、いつか書けるようになったらいいと、そんな気持ちを曖昧な表現でボソボソと返事したような気がする。
この言葉は、その後も、同じようなことを1回か2回、言われたように思う。ちなみに、そういう言葉があったからでもないのだけれど、何度か小説を書こうとしたことはある。その経験からいえば、やっぱり私は小説が書ける人ではないようだ。勢いをつけて書き始めても、途中で失速してしまう。子ども向けの「おはなし」ぐらいの長さならどうにかなるけれど、それを越えるとうまくいかない。絵描きさんになぞらえていうなら、デッサンの基礎がないのだと思ったりもする。編集者をやってきた端くれとしていい文章と悪い文章の判別ぐらいはつくし、どこをどう直せばいいのかもだいたいわかる。けれど、それを自分でやろうとすると失敗する。これはもう、職人として鍛錬している筋肉がちがうのだろう。
ともかくも、秋吉さんはいつも、「あなた」という二人称を使った。ふつう、二人称を使わないような「どう思いますか」みたいな問いかけでも、「あなたはどう思いますか」みたいに、「あなた」を入れてくることが多かった。これはちょっとカッコいいなと感じた。だから、私もその後は二人称に「あなた」を使うようになった。秋吉さんほど自然には出てこないけれど、いまでも生徒に対して「あなたはこういうところが優れている」みたいに使うことがある。
会社を辞めてフリーランスになってからは、翻訳の仕事のほか、ときどき校正の仕事をまわしてもらっていた。会社勤務時代の仕事が学習参考書(問題集)の編集だったからフリーになってからもその関係の仕事が多かったのだけれど、私はそれが嫌いだった。嫌いだけれど、「食うためにはしかたない」とか「オレが引き受けなければもっといい加減な連中がもっとひどいものをつくるに決まってるんだから」とか、いろいろと理由をつけては頼まれる仕事は断らなかった*3。そのなかで、秋吉さんの出してくれる仕事は面白くて、学参の仕事を友人に孫請けに回してでも、秋吉さんの仕事を優先することにしていた。
もちろん私は翻訳者になりたい人だったから、なんとか翻訳の仕事ももらいたいと思っていた。会社をやめる少し前に秋吉さんが写真関係のインタビュー集の翻訳をまわしてくれていたから、それが終わったあと、ロック関係のインタビュー集の企画を持ち込んだことがある。その見本原稿を見た秋吉さんは、
「でも、これって写真家の口調と同じじゃないですか」
と、口元に笑みを浮かべながら言った。私は自分が器用な書き手でないことをそのときに知った。ただ、この企画がポシャったのは、私が下手くそだからではない。そもそも著作権の関係とかで、企画そのものに無理があったのだと、秋吉さんは教えてくれた。その際だったと思う。
「翻訳者って、専門をもってるんですよね」
というようなことを、秋吉さんは教えてくれた。これはどういう言い方をされたのだか、さっぱり覚えていない。そういうニュアンスのことを言われたということでしか残っていないのだけれど、これはたしかにそうだと、だんだん私にもわかるようになっていた。「なんでもいいからヨコのものをタテに直しますよ」という翻訳者なんて世の中にはいない。外国語で書かれたものを日本に紹介したいという動機があって、その動機の先に翻訳という手段がある。それがふつうだ。学者なんてのは、だいたいがそうだ。だからそういう動機もなく、ただ「翻訳という作業が好きだから」で翻訳者になろうというのが間違っている。それはそうだろう*4。けれど、私には専門と呼べるものはない。なにかないかなと考えたら、一応、学生時代には航空工学科というところにいたことに思い至った。そこを中退した劣等生だけれど、もしかしたらこれかもしれないと思って宇宙開発に対する批判の原稿を書いて秋吉さんに読んでもらった。ややあって、困惑したような顔で原稿を返してもらった。やはり私には本を書けるほどの専門性はないことがよくわかった。
専門性のない人間は雑多な半端仕事をするしかない。ただ、それが私にはずいぶんと楽しかった。秋吉さんがまわしてくれる仕事はさまざまなバラエティに富んでいて、飽きることがなかった。その中でも特に規模的に大きかったのは、ある私小説作家の全集の校正だった。これについて書き出すと長いし、また、書き残しておくべきこととも思わないので端折るのだけれど、一作家の生涯の作品を追い続けた2年ほどの歳月は私にとって貴重なものだった。最終巻だけは私の個人的な都合で関与できなかったのだけれど、そういった作業を通じて、私は専門性はないくせに、平気な顔で専門家の意見にコメントを入れるような図々しさを身につけた。これは後の人生において私の大きな武器になった。
インターネット以前の時代だったから、校正紙の受け渡しには出版社まで出向くのが常だった。後に地方に移転して仕事をするようになってからは宅急便を使うのがふつうになったけれど、都心部にそう遠くない文京区にいたそのころは、電話一本ですぐにとんでいった。なにしろ不安定な収入のフリーランスだったから、現金は一円でも惜しい。なので、160円だかの電車代をケチって1時間以上の道のりを歩いて御茶ノ水と秋葉原の間にある晶文社まで行った。古い社屋は狭くて、顔を出すと秋吉さんは近くの喫茶店に招いてくれた。「ここのコーヒーはちょっといけるんですよ」みたいに言ってくれたが、私はコーヒーの味があまりわからない人だった。それでもたしかに、華やかな香りがしたのは覚えている。
その狭い社屋の二階に通されたこともある。会議室のような場所だったが、壁面いっぱいが書棚になっていた。
「いま整理中なんですけど、好きなのがあったら持ってってもいいですよ」
出版社だから、過去に出した本は基本的にいつでも参照できるように書架においてある。ただ、重版のたびに見本本が加わるなどの関係で、重複が多くなる。それを一気に整理しようということらしかった。私から見たら宝の山だ。けれど、遠慮が先にたって、3冊ほどだけ、「これ、いいですか?」ともらうことにした。音楽関係の本ばかりで、1冊はブルース・ポロックのだった。図書館で読んで気に入った本で、何度も借り直していた。なので、もらえたのがとても嬉しかった。ちなみにこの本、息子が高校生のとき、その先輩が遊びに来て借りていった。何ヶ月かして返却時に非常に気に入った様子だったので、「じゃ、あげるよ」と、改めて彼にもらってもらった。いい本は、こんなふうにしてどんどんと受け継がれていってほしい。少なくとも、私はそんなふうにして本に出会ってきたのだから。
思い出はまだまだあるのだけれど、振り返ってみて、やっぱり絶対量としてはそう多くないなとも思う。あくまで仕事の上での関係だったし、少なくともその時代には個人的なかかわりはほぼなかった。けれど、私にとっては初めての担当編集者であり、なにかと目をかけてくれた人でもあって、またあこがれの人でもあった。なので、エピソードと呼べるほどのものがほとんどないにも関わらず、なにかにつけて思い出す。いまの私は40年前の若者ではない。それでも、思い出の中の秋吉さんの前では、私は相変わらず頼りない若造で、そして秋吉さんはそれを導いてくれる人だ。
今回、ブローティガンの「風に吹きはらわれてしまわないように」が出版されて、いくつか読者の感想も目にした。インターネットの時代だ、書名で検索すると、それなりに「買った」とか「読んだ」みたいなポストを目にすることもできる。その中に、「昔のほうがよかった」という、ちょっと身も蓋もない感想も見つけた。せっかく苦労して、筑摩書房の担当の人とああでもないこうでもないとがんばった成果がこれだ。けれど、私はちょっと嬉しかった。いまの自分を評価されるのも嬉しいが、過去の自分を褒められるのはもっと嬉しい。そして、秋吉さんの少しだけ笑みを口元に含んだ顔を思い出す。
「ああいうのが好きな人もいるんだよなあ」
それを的確に見出してくれたから、私はいま、ここにいる。
*1:既にこのブログの過去記事で「Oさん」として登場している。
*2:やめたきっかけは東北の大震災だった。あの震災があった次の正月を前にして、私はどうしても「おめでとう」を言う気になれなかった。私の身近にはあの大災害で亡くなった人はいなかったけれど、それでも多くの人が喪に服するその時期に年賀でもなかろうという気がしていた。そんな中、「生存確認の意味だけでも年賀状ってだいじだよね」みたいな話も聞き、それはそうだよねとも思ったのだけれど、「生きてることを知らせることに意味はあるのだろうか」「だいたいが生きてることそのものに意味はあるのだろうか」みたいに悩みはじめて、収拾がつかなくなった。最終的に、仕事関係の年賀状以外はやめてしまい、数年のうちには仕事関係の年賀状もやめてしまった。あの震災が私に与えた影響は、案外と大きい。
*3:なんのかんのいって、それなりに好きだったのかもしれない、といまになれば思わなくもない。
*4:余談になるが、後に看護学の本を翻訳したときに仕事をくれたプロダクションの人が、「この仕事は安いけど、これひとつやったらあとは食うに困らないから」みたいなことを言ってた。それは単価が低いことへの言い訳であったのだけれど、実際、そこで「看護学の専門家です」と称してあちこちに売り込みをかけていくというのが一般的なやり方だったのだろうと、いまにして思う。