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電脳の幻想に迷う時代

ひとつ前のエントリで、老母のことを書いた。認知症が進んで実際にやっていない行動(この場合は入院している人のお見舞い)を事実と誤認してしまうという、それだけとりあげればかなり悲惨な状況だ。ただ、本人に悲壮感はなく、また、虚構を事実と言い張ることで周囲を困らせるわけでもない。「不思議やねえ」と頭をひねるだけだ。そしてこちらも、同様に「まるで怪談でも読んでいるような気になる」と、夢幻の境地に至る。そんなことを書いた。

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残念なことに、兄のパートナーのお父さんは、その後に亡くなった。立派な人であったし、実際、私も晩年に兄が手伝ってまとめたという著書からいろいろと勉強になる経験を読ませていただいた。数えるほどしかあったことがないとはいえ、母の気持ちの上では大切な人でもあったのだろう。このときも、「お見舞い」に次いで「お悔やみに行った」との主張をしばらく繰り返していた。もちろん、90歳になろうかという老人を往復10時間もかかる遠方まで連れていくつもりは私にも兄にもない。なので、これは現実ではない。ただ、母の記憶の中では、「お悔やみに行ってご遺体を拝ませてもらった。忙しいのか〈兄のパートナー〉さんもお母さんも出てこなかったけど、イチロー(兄の名)は出てきて、がらんとした葬儀会場とかを案内してくれた」という事実が確定している。それはそれで別に「事実ではないかもしれないが、事実であったとしても何ら不都合のないこと」なので、「どうやって行ったかは知らんけど、年をとるといろんな超能力が使えるようになるんやな」と、あえて否定はしていない。肯定もしないけど、「不思議な話やなあ」で、それ以上は追求しない。

 

「お見舞い」の一件も「お悔やみ」の件も、そういうふうにしてだんだんと過去の記憶に整理されていき、だんだんと母の生活も落ち着きを取り戻してきた。そして今日のことだ。

イチローが帰ったの、いつやったかな」

と言う。前回記事で書いたように兄は月に1、2回は来てくれるので、こういう会話はふつうのことだ。ただ、前回は兄のパートナーのお父さんのお弔いの関係でこっちには来れなかった。なので、「1ヶ月ぐらい前になるかなあ」と言うと、

「そんな前になる? ヤスオカに連れてってもらったのは、ついこないだやろ」

と言う。ヤスオカというのは、母が小学生時代を過ごした場所で、母の「ふるさと」といっていい土地だ。もちろんそこには地縁も何もない。軍人であった祖父の赴任地であったので一般的な意味では故郷ではない。けれど、母はなにかにつけてその場所の思い出を語る。

「ついこないだって、もう十年以上も前やん。まだこの家に車があったとき、イチローが運転して連れてってくれたとかいう話をよくしてくれたな」

「いや、そんな前のことじゃなくて。こないだイチローが来たとき、連れてってくれたやん。あんたは知らんかもしれんけど」

このあたりで私は、これは母の偽の記憶なのだということに気づく。ただ、否定してなにか得ることがあるわけでもない。とはいえ、積極的に話を合わせるのも違うだろう。

イチローは、お葬式とかあったから1ヶ月は来てないで。あっちの方に行ったのは、トモコおばさん(母の兄嫁で母より少し高齢)のとこに行った去年の11月やね。けど、そのときはヤスオカには行ってない」

「去年にトモコさんとこに行ったのはおぼえてる。そのときではない。もっと最近に、ヤスオカに行ったんよ。ミキちゃんに会って。小学校のときの同級生ね」

「その人に会った話は、十年前だかに行ったときのことでいろいろ聞いてるよ」

「そんなむかしの話じゃなくて、10日ほど前かな、ミキちゃんに会ったのよ」

「いや、10日前はお葬式の直後で、兄貴は北海道に帰ってる」

「じゃあ、もう少し前かな」

「それはよけい無理や。亡くなる直前やから」

「じゃあ、あとか」

「その後は来ていない」

「じゃあ、もう少し前なんやろか」

ここで母は、おもむろにiPhoneに手を伸ばした。そしてカメラロールを開き、スワイプをはじめた。

「私のことやから、写真撮ってるはずや。写真見たら日付がわかる」

熱心に保存された写真をめくっていく。

「ミキちゃんね、しょっちゅう外国に行くんやって。ヤスオカの山の景色とか、坂のあたりとか、むかしとおんなじやった」

そして、スワイプを続け、やがて呆然とする。

「ないねえ。ということは夢を見てたんやろか」

 

ここまでなら、電子デバイス認知症の記憶補助に役立った話としてまとめられるのかもしれない。けれど、熱心にカメラロールを捜索する母の姿を見ていた私は、別のことを思っていた。AIだ。

もしも母がつぶやく思い出がプロンプトとなって、それをAIが自動処理するような時代が来れば(そしてそれはそう遠くない)、カメラロールを捜索する母が、いつかその画像を発見してしまう日が来るのではなかろうか。実際、母の日記には、既に「お見舞い」の件はいつの間にか書き込まれている。同様に、母の記憶を補強する写真が、母の願ったとおりに、いつの間にかスマホに保存されてしまう。そういう日が遠からず来るのではなかろうか。

そんなとき、私達が生きている現実とは、いったいどれほどの重みを持つのだろう。たしかにそこにあることと、たしかにそこにあると信じていることの間には、何ほどの違いがあるのだろう。私はおそれ、おののくばかりだ。




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