大学の授業で四則演算を教えることの是非について、最近よく議論を見かける。これは文部科学省が「それってどうなのよ」と指摘したことに端を発して、「そんなことを大学で教えるべきではない」「いや、高校までの教育でそれができていないのならどこかで補う場所が与えられるべきなのは当然だ」的な論争から、さらにはもっと大学の本質とは何かとか、算数的な基礎がいかに重要であるかとか、さまざまな議論に発展している。
そういう議論が起こるのはいいことだ。ただ、現実に四則演算の指導を日常に行っている家庭教師としては、「なんかズレてるよなあ」という感覚が拭えない。そこでこのエントリになるわけなのだけれど、大仰なタイトルを掲げた割に、中身はたいしたことはない。あるいは、大仰なタイトルに一言で答えると、こんなふうになるだろう。
コンピュータが活用できるこの時代、四則演算の実行能力そのものを人間が備えようとすることに実用的な意味はほとんどない。よって、それを「鍛える」必要はまったくない。その一方で、四則演算について深く考えることは数学に要請された推論の能力や論理的な考察の能力を高めるので、それを学ぶ価値は高い。そして、そういう観点からの四則演算は、決して「小学生のやること」と軽んじるべきものではない。
これだけ書けばもう言いたいことは終わるのだけれど、もうちょっと具体的に、それが私の仕事の中でどのような位置を占めているのかとか、実際にそれがどのような面で役立つのかとか、そういったことをいくつか書いていこうと思う。
数学のスタートは四則演算から
これは以前にも書いていること(こことかここ)なのだけれど、私は小学生はもちろん、中学生、高校生の指導も(数学を教えない場合や緊急のニーズがある場合など特殊な場合を除き)全て「小学1年生の算数の復習」からスタートする。大学生を教えることは滅多にないが、教職免許を目指して基礎教育を学び直したいという学生を教えたときには、やっぱり「小学1年生の算数」からスタートした。何をやるのかといえば、十進法の基礎から四則演算までだ。小学校で扱う範囲とはいえ、図形や比率には踏み込まない。そういうのは必要に応じて中学や高校の範囲内でも扱える。ただ、四則演算だけは独立してやっておかないと、他で片手間に扱うことが難しい。といって、それほど難しいことをやるわけではない。この授業は、だいたいは90分かける。それ以上になる場合もあるし、60分ぐらいで終わる場合もけっこうある。最近、やたらと理解の早い生徒がいて30分で終わったときには驚いた。
「小学校四則演算の復習」というと計算ドリルとか解かせるのかと思うかもしれないが、そういうことは一切しない。まず私たちが「ふつうに」計算している基礎が十進法にあることを意識させる。これは明示的に小学1年生で教えているわけではないのだけれど、「十までの数」とか「いくつといくつで10」みたいな学習内容の組み立ては、まさに十進法が計算の基礎であることを表している。そこで、特に高校生以上には明示的に、それ以下ではエピソードトークなんかも交えて軽く、十進法と位取り記法について説明する。その上で足し算の繰り上がり、引き算の繰り下がりの概念について説明する。「繰り上がり」「繰り下がり」に関しては、筆算の用語であると誤解している生徒がけっこう多いので、これは位取り記法で桁を上げたり下げたりするときの概念であることを改めて意識させる。次に乗法を加法を発展させた累加という概念で整理し直す。余裕があれば分配法則から改めて筆算の原理を再確認する。除法では、複数の定義により概念が変化することを「余りのある割り算」と「分数による解」の比較から意識させる。そのまま分数計算に進み通分の概念を図形的に把握させ、逆数の導入によって乗除の計算を整理する。
こんなふうにざっと書いただけでは、何やってるのかよくわからないと思う。実際に授業すると、ほとんどの生徒が食いついてくる。「つかみ」としてはベストだし、そしてここで確認したことが先々の授業で活きてくるので、初っ端でやらない手はない。と、言われても、「そうなのか?」と疑ってしまうだろう。ここは実際に授業を受けてもらえば納得してもらえるのだけれど、それをここで再現するのは難しい。なにしろ、家庭教師の授業は一対一のジャム・セッションのようなものだ。その場の空気感がなければ、言葉だけ並べても伝わらないだろう。
計算ドリルのようなものをやらないのは、実際のところ、ほとんどの生徒が飽きるほど学校でそれをやらされているからだ。もちろん、そこで躓いている生徒には、立ち止まって練習をやる。過去には、小学3年生で足し算の繰り上がり、引き算の繰り下がりから練習して掛け算までしっかりたどり着けた生徒もいた。中学生で分数の計算に躓いていたのをこの「小学校の復習」で発見し、ドリル的な練習でそこを修復した生徒もいた。けれど、そういうのは(私に関しては)数年に1回発生する特殊なケースだ。ほとんどの生徒は、練習量は十分だ。
それでもこの「小学校の復習」をやるのは、そうやって半ば無意識に手を動かすだけでも計算できるぐらいに訓練されている生徒の多くが、「実際に自分は何をやっているのか」を意識できていないことを家庭教師としての指導を通じて痛感してきたからだ。いくら正解が出ても、それが何を意味するのかが理解できていなければ先につながらない。計算式の意味がわからなければ、そもそも立式ができない。「ここでその数値を使うんだよ」というのが見えなくなって、問題が解けなくなる。結果、点数が下がる。
四則演算の理解は重要だ。だから学校では(そしてその補完とされる学習産業では)さかんに反復練習を課す。だが、それは「理解」を理解していない。たとえば「筆算がきちんと理解できているとはどういうことですか」と学校の教師に(あるいは学習塾の講師に)尋ねたら、多くの場合、「それはきちんと桁を揃えて書けること、きちんと繰り上がりや繰り下がりができることでしょうね」という答えが返ってくるだろう。それを実現するために最も有効な方法がドリルによる反復練習であることは自明だ。だからそういう課題が子どもに出される。けれど、私から見れば(そして学習指導要領を素心で読めば)、そんなものは「理解」でもなんでもない。筆算の理解とは、まずは筆算がどのような原理で成立しているのかを理解することだ。その際に、加法の原則から容易に導かれる交換法則、結合法則、分配法則が(その正式な配当は3年生であるにせよ)基礎としてなければならない。そして、それらの法則の理解の根本には十進法にもとづいた位取り記法の理解がなければならない。そういった理解からまっすぐに筆算の原理を導くことは容易だし、実際、教科書の進め方はそうなっている。何なら上記のような教師だって、「そこはちゃんと指導要領どおりにやっていますよ」と胸を張るだろう。けれど、そこに重きを置くなら、あれほどの反復練習は必要がない。もちろんある程度の練習は必要になるだろう。だが、練習したら、ちゃんと元に戻って、「難しい計算を筆算で解くことにはどんな意味があるのか」を振り返らなければならない。なぜなら、そうすることによって、さらに「筆算よりもっと合理的に解く方法はないだろうか」と発展が見込めるからだ。
そういった発展につなげてこそ、算数・数学の教科目標に近づけるのではないだろうか。ドリル一辺倒の算数指導は、そこを阻害している。数学で最も重要な概念の1つ、「あらゆる定理は基礎的な定義から演繹的に導くことができる」という信念を身につけることができるのが、四則演算の本質的な「理解」なのだと思う。そのぐらいにこのあたりの教科書の記述は洗練されている。なぜそういった本質を無視してドリルばっかりやらせるのか、私にはどうにも解せない。
人間の頭は計算が苦手
だいぶ以前、家庭教師を数年やった頃に気がついたのだけれど、そもそも人間の頭は計算には全く向いていない。おおまかな傾向として、こういうことがいえる。
加減乗(除法はいったん除く)算において、1桁の数と1桁の数の計算は、ふつうは間違えない。1桁の数と2桁の数の計算は、少し注意すれば間違えない。2桁の数と2桁の数の計算は、注意しないと容易に間違える。3桁の以上の数が関わる計算は、よっぽど注意深い人でもいつかどこかで間違える。
あくまで経験則だけれど、多くの生徒の計算過程を見てきて、ほぼこの傾向はあてはまる。つまり、ごくかんたんな1桁の数と1桁の数の加減乗算を除けば、人間、必ず何らかの計算間違いをする。それは確率的に発生するのであって、その発生を防ぐ方法は原理的に存在しない。
これが本当に真の命題であるかどうかは、かなり疑わしい。ただし、実用的には、これが正しいという前提で算数・数学を考えるほうがよっぽど合理的だ。なぜなら、計算ミスはどれほど反復練習を積もうが、必ず発生する。確かに練習を重ねれば発生頻度を減らせる部分はあるが、やがてそれもどこかで飽和する。ところが、数学の解答は、1箇所の計算ミスですべての点を失う可能性を常に秘めている。学校のテスト問題だけの話ではない。実社会でも、1つの計算ミスが大きな損失につながるケースはいくらでもある。なので、計算ミスは絶対にあってはならない。
確率論的に必ずミスが発生するのが自然の与えた条件であり、100%ミスがあってはならないのが人為の要請であるとき、どう対処すればいいのか。答えは案外とかんたんで、
ミスが発生することを前提として、
- ミスの発生を早期に検知してエラーを訂正する
- ミスの発生が致命的な損失につながらないようなシステムを構築する
- 検証によってミスの存在を明らかにして訂正する
といった、工学的手法によって、「必ず発生する計算ミス」が「ミスによる機能不全」につながらないようにしておくことができる。これが人類の知恵であり、科学技術による発展の基礎となってきたことは歴史を振り返るまでもなく明らかなことだろう。
具体的には、計算を行ったら、必ず計算過程に齟齬がないことをチェックすること、計算結果を問題全体の意味に照らして吟味すること、解が得られたら問題の意味に沿って順に整合性がとれていることを確認していくことといった、ありきたりの手順を遵守することだ。だが、これが一筋縄ではいかない。
計算の苦手な生徒に「確かめ、しときなさいよ」と言ったらどうするか。さっきやったのと同じ計算を同じような手順でやり始める。それはほとんど意味がない。倍の時間を費やすだけでなく、もし計算ミスがあったとしても、同じところで同じミスをやらかす可能性が高いからだ。人間の頭は計算に向いていないだけでなく、同じことをすると同じパターンを繰り返そうとする傾向がある。なので、間違えたところは同じように間違えるわけだ。だから同じ計算を何回やってもたいした意味はない。
じゃあどうすればいいのかといえば、別の道筋で計算を確認することだ。このときに、計算の原理がきちんと身についていることが重要になる。なぜなら、原理をおろそかにして身体的な訓練だけで身につけた計算力は、その方法以外の方法を受け付けない。筆算なら筆算でしか掛け算ができないことになる。
こういうことを指導するとき、私は「好きな数を2つ言ってください。かたっぽうは3桁、もう片方は2桁とか、大きな数の掛け算をやってみましょう」みたいにいう。たとえばいま、時計を見ると14時32分36秒だから、
1432×36
を計算してみよう。もちろん、最初はストレートに筆算でやればいい。けれど、その「確かめ」をするときに、同じ手を使うことは厳禁だ。だったらどう計算するのか。
筆算の原理は分配法則だ。つまり
1432×36=(1000+400+30+2)×(30+6)
=2×6+30×6+400×6+1000×6+2×30+30×30+400×30+1000×30
と分解して計算することだ。つまり、基本的に計算ミスのない「1桁の数と1桁の数の計算」に還元しているわけだ。だったら、これは別の方法で分解しても構わないと気づく。たとば、
1432×36=(1400+32)×36
=1400×36+32×36
と計算しても構わないわけだ。「かえってややこしいじゃないか」と思うかもしれないが、先ほど書いたように、2桁の数と2桁の数の計算は、3桁の以上の数が絡む計算に比べれば計算ミスの頻度が下がる。1400をかけるのは実質的に14をかけるのと同じだから、14×36だと、人間の脳でもそれほど大きな負担ではない。おまけに14のように2で割ると1桁の数になる掛け算は、まず半分を計算してから2倍すると暗算でもできる。つまり、36×7をやっておいて(これは252だと容易に計算できる)その2倍をすれば(すなわち504)、結局、前半部分が50400だというのは実は下手な筆算なんかやるよりも素早く計算できる。後半部分も同様に工夫すれば、1152とかんたんに出るだろう。この2数を合計すれば、(これも広義でいえば筆算のうちなのだが、伝統的な意味での)筆算を回避して、51552という計算結果を得ることができる。これを筆算の答えと照合すればいい。
もちろん、分配法則はさまざまに使えるのであって、例えば
1432×36=(1500-68)×(40-4)
=60000-2720-6000+272
と計算してもいい。この場合、68×4だけ計算しにくいが(70×4-2×4で計算するのが楽だ)、同じ計算が2回出てくるから手間は省ける。いずれにせよ、「筆算は分配法則」と理解できていれば(「分配法則」という用語は知らなくても「別々に分けて計算して最後に合わせる」という理解で十分)、「別の道筋で計算をする」ことが容易になる。
もちろん、さらに結合法則がしっかり理解できていれば、「36をかける」のは「9をかけてから4をかける」と同じだと気がつく。ちなみに、少しだけ訓練すれば「2倍にする、半分にする」はどんな数であっても容易に計算できるようになるので、「4倍する」は「2倍しておいてから2倍する」で、大体は片付く。「9をかける」は「10倍してその数を引く」でだいじょうぶだから、
1432×36=(14320-1432)×4
=12888×2×2
=25776×2
=51552
と計算することもたやすい。このように実例をあげると長くなるが、要は、計算の原理を理解していれば、「いまやったのと別の道筋で計算をして確かめをしなさい」という要請に応えるのは何ら難しくないということである。
計算をするたびに検算をしてミスの発生を早期に検知してエラーを訂正するのは、不完全な生物的頭脳を持った人間がおよそ向いていない計算に頭を使うときに、ぜひやらねばならないことだ。だが、それでもミスは発生する。そのミスを検知する方法として、「答えの吟味」という過程がある。これは多くの教師が軽視したり無視するプロセスだが、特に重要だ。ちなみに私が高校のときの数学の教師が「計算ができた人は得意顔で自分のノートを鑑賞してください」と言ってたのだけど、ひょっとしたらこのことだったのかもしれないと、年をくってから思い至っている。
たとえば、奇数と奇数の加減算では答えは偶数になる。奇数と奇数の乗算では答えは奇数になる。これは誰でも知っている知識だが、計算結果を見て「ああ、偶数だな」「なるほど奇数だな」みたいに吟味することに使っている生徒はあまり見ない。もったいないことだ。一の位の数が5の乗算なら、答えの一の位は5か0のはずだ。こういう基礎的な知識は、吟味に使える。
それ以上に答えの吟味で重要なのは、概算だ。これもまた学習指導要領にちゃんと入っているのだが、それを本来の意味で活用していると思われる事例にはあまり巡り合わない。どういうことかといえば、たとえば上記の例だと
1432×36≒1400×40=56000
と見積もりをつけられるから、これと答えを比較することで「だいたいあってるかな」というのがチェックできる。「だいたいあってる」なんてネットミームかと思ってしまうかもしれないが、実は工学部的に言わせてもらえれば最も重要なことだ。機械設計なんかだったら、どうせ安全係数かけるんだから、細かい数字は比較的どうでもいい。ただ、オーダーが間違ってたら機械は壊れる。なので、概算で押さえておくことはこの上ない意味をもつ。そして、小中高生の計算でも、最も多いミスは桁の間違いだから、計算ミスの発見にも十分に意味がある。
なお、概算では発見できないミスが多発するのが、実は筆算の繰り上がりミスだったりする。こういうのは10とか100だけ狂うので、概算では発見できない。ただし、概算でおよその値があっていると確認できていたら、近いところまで数値は出るので、問題によってはそこから類推して正解にたどり着くことができる場合もある。このあたりは相当に慣れた生徒でないとできないけれど、数学のセンスとは実はそういった非論理的な部分を論理に無理やり組み込んでいく力技にもあらわれるのではないかとも思う。
そして、計算ミスの被害を防ぐ最後の関門は、最終的な解答の検証になる。これは中学の数学では方程式の文章題で必ず「解が問題に適している」と記入することとしてまるで儀式のように指導されているのだけれど、問題の設定に合わせて論理的に整合がとれているかどうかを調べる手順として、具体的に、しつこくやらねばならない。何も方程式に限ったことではなく、たとえば一次関数や放物線の問題でグラフの略図を描いて座標平面上で辻褄が合うことを確認したり、図形問題で略図を描いて角度や長さが適切かどうかを考察するなんかも含めて、検証の段階だ。数学のような理詰めの世界では、検証を行うことによって数値計算に関してはほぼ正解か不正解の判断ができる。判断がつかないような数値を出してしまったときは、だいたいはなにか間違いがあると思ったほうがいいくらいだ。その間違いが計算ミスである場合には、ここで最終的に発見と訂正ができるだろう。
こうやって、根本的に計算に不適合な人間の頭でも、実用に十分耐える正確性でもって計算する方法が確保できる。重要なことは、こういったエラー訂正のためのプロセスは、いくらドリルで計算練習を反復しても身につかないということだ。あるいは、反復練習で身につけようと思うなら、まずはこれらのプロセスを意識的に実行する手順を学んでおかなければならない。それをしないでドリルばっかり解いて勉強した気になっているから、いつまでたっても計算ミスは減らない。算数・数学が苦手という生徒は、だいたいそういうところをウロウロしている。
改めて四則演算を学校で学ぶ意味
「読み書きソロバンはすべての基礎」みたいな意識は、基礎教育に対して長年抱かれてきた大前提だろう。けれどその本質は時代とともに大きく変わる。江戸時代から明治時代にかけての「読み書き」はなにより毛筆で書かれた文字を読み、毛筆で文字を書くことであって、「読解力」みたいなものは重視されていなかった。なんなら「素読百回自ずと意味通ず」ぐらい、とにかく読んでれば大丈夫、みたいに考えられていたわけだ。ところが時代が進むと活字を読むことが基本の位置を奪い、毛筆の崩し文字は読めなくて当然という風潮になった。書く方だって鉛筆や万年筆・ボールペンで楷書を書くのが当然とされるようになった。さらに現代では、スクリーンで文字を読み、タイピングやフリックで文字を入力する。学校教育はそれをまだ評価対象にまではしていないが、そのうちに変わってくるだろう。
「ソロバン」は、江戸時代には文字通り算盤だった。徐々にそ実際に算盤を使った計算は衰え、20世紀には筆算が計算の中心を占めるようになった。電卓の学校教育への導入は案外に古く、1980年代にはもう「電卓の一部使用可」が通達されている。けれど、それでも現在に至るまで、学校教育の現場では筆算を中心とする手計算が頑固に守られている。
それは、結局のところ、大学入試を最終関門とする学力テストに対応するためなのだろう。テストに電子製品の持ち込みは不正や不公平の原因になるし、それを排除する専用機器の導入はコストに見合わない。「テスト」を手っ取り早く実施するにはすべて手計算を原則とすることに統一するのが現実的だ。なので、電卓の教育現場への導入の初動以降40年がたっても、いまだに学校教育は伝統的な手計算を異様なほどに重視し、その技能を高めるための反復練習に著しく傾斜している。
しかし、何度も言うように、そもそも人間の頭は計算には全く向いていない。ことにコンピュータを内蔵した電子機器類には絶対にかなわない。であるならば、苦手な部分はコンピュータに任せ、人間はもっと自分の肉体的制限の中で適性のある方向に努力を向けるべきである。私は強くそう思う。
ただし、それでもって、小学校の算数で教えられる四則演算が不要になるとは思わない。むしろ逆だ。なぜなら、数学・算数の根本的な魅力は、身の回りの現象、世界の現象を数値の変化として把握し、それを演算という抽象的な操作で展開してくことにあるからだ。そのためには、四則演算の原理はしっかりと理解しなければならないし、その基礎的な操作も安定して行えなければならない。だから、ある程度の練習も必要になるだろう。
けれど、重要なことは原理の理解であり、操作の習熟ではない。電子機器が未発達の時代には演算の操作に熟達することに価値はあったが、いまは煩雑な計算はコンピュータにさせたほうがよっぽど合理的だ。ただ、そういった計算ができること、そういった計算で何をどのように求めようとするのかを意識しないで意味のある活用はできない。コンピュータに何をどのようにさせるのかを指示できなければ、宝は持ち腐れとなる。だからこそ、四則演算に習熟することは重要になるし、それを柔軟に、さまざまな方法を工夫して実行する練習は積むべきだということになる。
そして、たとえ小学校程度の四則演算の計算問題1つにしたところで、王道の筆算で解くこともできれば、裏道の方法で解くこともできる、という体験をすることは、その先のもっと高度な数学的思考へと直接つながっていく。表から裏から、あらゆる方法を試し、それが等価であることを論理的に証明し、その先に展開していくという頭脳の働きは、高校数学には欠かせない。そのためには小学校の四則演算はしっかりと理解していなければならないし、その理解が浅ければ、改めて復習をして、小学校の教室では気づかなかった深い意味を改めて噛みしめるべきだ。
だから私は小中学生だけでなく、高校生が相手であっても小学校の四則演算の授業はするし、もしも大学生を相手に教える機会があったとしても同じように「小学1年生の算数のいちばんはじめには何を習いましたか?」から授業を始めるだろう。けれどそれは、「基礎教育がなってないから」ではない。だいたいが、大学に入ろうかというようなおとな(そう、18歳成人だから彼らは「おとな」なのだ)に対して、「大学教育を受ける基礎ができてないからやり直します」みたいな言説は失礼極まりないだろう。たとえ義務教育時代に落ちこぼれていたり、途中どこかで不登校になっていたりした人だとしても、そういう人々はそういう人なりの貴重な学びを経てきている。それは実際にそういった人々と接してみればすぐにわかることだ。そういった学びを基礎としてその上に専門性を乗せていくのが大学教育だ。筆算ができない人なら電卓を使わせればいいし、方程式が解けなければ方程式をとくプログラムをコンピュータ上で走らせればいい。そういった個別の技能の不足は、大学教育において何ら足枷にはならない。
そうではなく、大学教育で展開する学びのスタートとして、ある分野においては四則演算の振り返りはいい出発点になるだろう。そしてそこから、欠けていた何かが見えてくる人もいるだろう。それを意識することで、高い専門性につながるヒントが見つかる場合もあるだろう。そういった観点から「義務教育でやった算数や数学」を大学教育で再度取り上げるのなら、それは外部からとやかく言うことではないのではないか。
結局のところ、百数十年続いた義務教育の中で、私たちが無意識に教育課程に対して本来以上の文化的な意味合いを付け加えてしまっているのが問題なのではないだろうか。分数の割り算ができなくったって、べつに世の中で胸を張って生きていくことはできる。けれど、実用的な意味とは無関係に、「そのぐらいやっとかないと一人前じゃない」みたいな、通過儀礼的な意味をそこに付与してしまっているのではなかろうか。それは、学問本来の意味からいえば、ずいぶんとおかしなことだ。
学問は、身近にあるものから展開して、どんどん自分自身の視界を広げていくものだ。その身近にある出発点が小学校の四則演算であっても、それは何の不足もない。嘘だと思うなら、小学校算数の教科書を買ってきて、じっくり時間をかけて眺めてみてほしい。そこからいくつもの疑問が浮かび上がってくるだろう。そしてそれを解決するためにはなみなみならぬ思考力が必要だということがわかるはずだ。算数、決してバカにしてはならない。問題集の編集を20年、家庭教師を10年以上続けた私でさえ、未だに新たな発見があるぐらいなんだから。え? それは単純に能力が低いからだと…