タイミーのCMについてのネット記事を読んだ。
CMは、高校生くらいの娘を持つ会社員のお父さんがタイミーに行き、帰宅後、娘から「お父さんって人が好きなんだね」と言われ「かもなぁ」と返すという内容。ネット記事はこのCMについて、人が好きだから働いてるんじゃねえ、家計を支えるためにタイミーせざるを得ないんだと憤る内容だった。
この記事を読んだあと、テレビでタイミーのCMを観て、あぁネット記事のやつだ、確かにそのとおりだわと思った。
人が好きだからタイミーをやる人間なんて、100人のうち一人いるかどうかというレベルだろう。スキマ時間があるからお金を稼ぐ、家計を少しでも助けるというのが大半の理由で、それを「人が好きだからタイミーをやる」という、イメージのすり替えをしようという魂胆が透けて見える。
「おいしい牛乳」のような、量を減らすというネガティブな点を、女性や子どもが持ちやすいよう改善しましたと無理やりポジティブに受け取らせようとするのと同じ姑息さをタイミーに感じる。
ところで、このCM、タイミー批判のネット記事を読む前にも何回か観ていた。そのときはただぼぉーっと、特に何も思うことなく観ていた。ネット記事を読んで、なんだこの姑息なCMはと思った。
今回タイミー批判のネット記事をたまたま読んで、このCMが意識された。よくよく考えると、こうやって無意識のうちに何らかのイメージを、いろんな企業やメディア、政府、個人その他もろもろから植え付けられているんだなと恐ろしくなった。
毎日毎日、テレビやスマホ、新聞、人との会話あらゆるものから情報を受けている。そのいちいちに何らかの反応をしていれば、脳みそはオーバーワークしてしまうわけで、だからこそ右から左へ受け流す。それらは個々の興味に従って一部は意識にとどまり、その他は無意識の領域に追いやられる。無意識に追いやるからといってそれは消失するのではなく保存される。だから、タイミー批判の記事を読んだあとに、無意識から意識へと引き上げられる。
無意識に沈んでいるからといってそれは影響してこないわけではないはずで、もしネット記事を読むことなく、タイミーのCMを何回も観ていれば、タイミーが観る者に植え付けたいイメージをそのまま植え付けられていただろう。
このように考えてみると、自分があらゆるものに対して与えている価値観や考え方、感じ方が、果たして、自分が自分の意思なり、思考なり、価値観なりで与えたものなのか怪しくなってくる。たとえば、知り合いが、自分が会ったことのない人のことを「あの人、態度が悪いから近づかないほうがいいよ」と言う。そうすると、会ったこともないのに「あの人は態度が悪い」とアンカリングされてしまう。いったんそうやってインプットされてしまうと、その人に会ったときどうしてもそのイメージに引きずられてしまうことがある。
よく、自分の目で見て、自分の頭で考えて判断することが大切と言われる。たしかにそのとおりだ。でも、そもそも、自分の目で見るという最初のところで、これがどれだけ大変なのか。私たちのほとんどすべてがロシアとウクライナの戦争をこの目で見ているわけではない。メディアの与えてくる情報によって、なんかロシアが悪で、私たちはウクライナの側にいることになっている。それが正しいのか、そもそも判断できない。どうやってこの目で見て、自分の頭で判断するのか。
クマの件も、国分太一の件も、その他もろもろあらゆることがそうで、ほとんどすべての情報を私たちは直接受け取れない。クマなんて、そもそも受け取った時点で、自分が死んでいる可能性もある。あるいは、それすらメディアによる印象操作かもしれない。何が何なのか分からない。
情報格差、情弱とか言われるけど、これは情報に触れられるかどうかの問題ではなく、むしろ情報を与える側と与えられる側の格差の問題だと思われる。そういう意味で、私たちのほとんどすべてが情弱である。
ヤバいのは、スマホやらAIが普及したせいで、情報量が爆発的に増えてしまったことだ。脳みそは、オーバーワークになってしまうので、否応なしにほとんどすべての情報を受け取ってそのまま無意識に送り込む。でも、それらは無意識から自分の知らないうちに価値観を形成させてくる。こういう問題にどう対処したらよいのだろう?解決策がまったく分からない、というかもうないのだろう。自分たちは知らないうちに、いいように操られている。操られていることにさえ気づかない。疑うことが大切というけれど、疑うというのはものすごく負荷がかかる。一つくらいならいいよ、でも自分たちが日々受け取っている情報は無数なのだ、いちいち疑っていられない。
まぁ、解決策はないということで諦めるしかないのだろう。無知の知みたいな感じで、とりあえず現状を認識しておくくらいの、あまり効果のない策しかない。