知り合いが中古の家を購入したので改修を手伝っている。その知り合いが、仕事で関わっている空き家のベランダなどを引き取りにいくということで、その空き家に昨日行った。
作業は無事終わった。空き家はうっそうとした木々に覆われた薄暗い家で、畳のある部屋は土台が腐っているせいかぶよぶよで足が抜けそうだった。なんとなく、映画『呪怨』の舞台になった家に似ていた。
家を後にして帰路に向かうさなか、その知り合いが「なんかいたなぁ」と言っていた。何がいたんですかと聞くと「おばあさんのようなもやっとしたもの」。知り合いは、見える人で、ぶよぶよした畳のある部屋におばあさんはいたのだという。自分は見えない人だから、普通にその部屋を素通りしていた。関連があるか分からないが、その部屋は特に日当たりが悪く、どんよりと暗かった。
自分は今度東京に行くのだが、契約した物件が心理的瑕疵物件になっていた。心理的瑕疵物件って何ですかとその知り合いに聞くと、「その部屋で人が亡くなったりすると心理的瑕疵物件になったりする」と言っていた。「だから不動産屋はだいたい数珠とか御守りとか持ってるよ。お清めの塩とかやっておいたほうがいいかもね」。聞くところによると、塩とか御守りというのはちゃんと効果があって、そこに結界のようなものができるのだという。
一番興味深かったのは、霊というのは、いわゆるパラレルワールドみたいなところのものらしく、たとえばここは今令和8年の世界だけど、そこはまだ昭和の世界だったりする。その昭和の世界のものが、令和8年のこの世界に現れ、見える人にはそれが見えている。霊というのは、次元の違うところにいると知り合いは言っていた。
自分は、霊とかそういった類のものは、まぁ普通に、いるだろうと思っている。よく科学者とかが、霊はいないとか声高に叫んでいたりするが、この態度はおかしいと思っている。それはあくまで「科学」というメガネ、物語を通してみているからであって、それを外せば、そこに霊は存在しているかもしれないからだ。いるかどうかは分からないがその存在は否定できない、というのがまともな態度だと思う。
霊の存在について、量子物理学で考えてみると、分かりやすいのではないかと思う。つまり、令和8年の世界と昭和の世界は重なっていて、その重なりが、見える人には見えている。有名なたとえを出せば、見える人には、生きている猫と死んだ猫、両方の世界線の猫が見える。
べつの知り合いに、見える母を持つ人がいて、笹子トンネルのことを予見していたらしい。あそこに近づいてはいけないと事故前に言われていたそうだ。過去の世界だけではなく、未来の世界もおそらく重なっているのだろう。というか、物理学には「時間」がないから、そもそも過去も未来もないのだ。
今年の7月に大災害が起こるという予言が話題になっていた。『私が見た未来』というマンガ。著者を擁護するわけではないけれど、著者にはそういう世界が見えていたから、そのようにマンガで描いたのだろう。実際にはそういう世界線もありえたが、現実はそのような世界線をたどらなかった。重なり合う世界は無数にあるわけで、運良く作者が見た世界を日本はたどらなかった。デマといえばデマだけど、大きな枠組みでとらえるとデマではないかもしれない。
そういえば、知り合いは霊というのは影みたいなものと言っていた。もしかしたら今この記事を書いている自分も影であって、べつの世界では霊として現れているかもしれない。なぜなら昨日の家にいたおばあさんの霊は、べつの世界では霊ではないかもしれないからだ。今この記事を書いている自分はこの世界では生きているけど、べつの世界では死んでいる者として現れているかもしれない。シュレディンガーの猫はそういうことであるのだから。プラトン哲学的には、われわれが見ているのは洞窟の壁に映し出される影である。その影を見ているわれわれさえも影であって、死後、身体という牢獄を抜けて魂はイデアの世界に行く。一見、これはスピリチュアル的な感じがするが、あながち間違いではないかもしれない。
霊というものがいるのかいないのか自分には分からないけど、自身の見ているもの、感じているものがすべてではないという考え方を持っていたほうが、視野が拡がるし、物事の捉え方としては正しいと思う。