頭でっかちな若者にありがちなように、かつての自分もいっちょ前に社会システムを批判していた。ただ、そのやり方はみんなで一致団結して社会を変えるというものではなく、自分個人の生き方の問題だった。資本主義システムを批判しながら、就職すれば資本主義の歯車となっていったかつての若者たち。生きるためには働くしかないのだから仕方ない。
自分の場合はそもそも就職しなかった、しなかったがゆえに頭でっかちのままだった。それで、技術を身につけるということは、より資本主義への自己隷属化をおしすすめていくことだと思っていたから、知識だけ増えていってより頭でっかちになっていった。でも、学生のときとは違った焦燥感に襲われ、それでもどうしていいか分からずもがいていた20代前半だった。
山が欲しくなり田舎に戻り、今もよく行く町のお世話になっているNPOの便利屋みたいなことをここ数年やっていたおかげで、結果的にいろんなことができるようになった。図らずも、自分がなりたかった自分にかなり近づいた。山も手に入り、一から自分でシステムを作りあげてみたいという実践もできている。
仕事の関係で、あったほうがいいなという資格も取得するようになって、食品衛生の資格をとり、今は第二種電気工事士の勉強をしている。簿記やフォークリフトの資格もとろうかなと考えている。
できることが増えてくると、知識が骨肉化し、頭でっかちだった知識が立体的に立ち上がる。世界をより深く知ることができる。頭でっかちの知識って、学校で習ったことと同じで、頭のなかで完結して文字どおり腑に落ちていない。それは世界とコミットしていない知識で役に立たないから、こんなことやって何の意味があるのかと多くの人が問う。
でも知識が世界とコミットしてくると、あぁそういうことねと面白くなり、俄然好奇心が湧いてくる。今まで漫然と見えていた景色を意識的に見るようになる。
これまで電柱や電線は毎日見えているものだった。電気工事士の勉強を始めると、電柱や電線を見るようになった。これが変圧器だとか、ここから引き込んで、ケーブルを這わせて電力量計につないでるとか、見るようになった。こういったものはこれまで何十年と視界には入っていた。見えてはいた、しかし見てはいなかった。手近だった存在は、手許の存在として気遣われるようになった。
知識が頭の中だけで完結せず、世界とコミットしてくると、気遣うようになる。世界の現れ方が異なってくる。解像度がより上がる。
それはとても面白いのだけど、一方でシステムへの隷属化も進んでいる感覚になる。
頭でっかちだったころは、感覚として世界の外側からああだこうだ批判しているというものだった。今は、世界のなかに入って内側から見ている感覚。世界はシステムであり、資本主義システムなのだから、気遣われるものは資本主義システムの産物である。電柱にしろ、電力量計にしろ。
今は好奇心や必要性のもとにいろいろ勉強したり資格をとっている。まぁそれでいいと思いつつも、何となく、これは単に資本主義システムへの隷属化、都合のよい存在へと進んでいるだけではないかという気もしている。そして隷属化が進んで何か悪いことがあるのかという問いもある。分からない。