昨日の記事で、至高性について考えた。
大人になると、何をするにもだいたい目的のために行為する。そこに至高性はない。子どもは、延々とありんこを眺めていたり、砂遊びをする。ありんこを眺めたいから眺める、砂遊びをしたいから砂遊びをする。そのものを楽しむために楽しむ、ただただ楽しむ。これが至高性。
資本主義は、子どもから至高性を奪う。学校からの帰り道、道草食って友達と遊ぶのを許さない。将来のために塾や習い事に向かわせる。
マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、資本主義が末期に達するとスポーツ選手のような末人が現れるみたいなことが書いてある。生活のすべてが労働のために行われる。至高性が排除された生活。アスリートの食事は、単なる食事ではなく、スポーツで結果を出すための食事である。筋肉をつけて身体を大きくするため、疲労を取るための食事。お菓子も、凡人はただ食べたいから食べる。しかしアスリートにとってのお菓子は、苦しい練習を耐えた自分へのご褒美、我慢してストレスを貯めるより食べることでストレスを発散させ、メンタルを保ち、パフォーマンスを上げる、そのためのお菓子。食事だけでなく、睡眠も何もかもがスポーツで結果を出すために行われる。
ビジネス誌が、仕事で成果を出すためにヨガをオススメする。スティーブ・ジョブズもヨガをしていた、それがアップル製品を創造する手助けとなったみたいなことが書いてある。こういう類のことがビジネス誌にはけっこう書いてある。成功者はこんなことをしていた、〜はこういう効果があるからやろう。
でも思うに、スティーブ・ジョブズはただヨガをしたいからヨガをしたのであって、ビジネスに役立てるためにヨガをしていたのではない。ヨガやカリグラフィーが結果的にビジネスに活きたのであって、その逆ではない。ビジネスに活きるからヨガやカリグラフィーをやっておこうなんて彼は恐らく考えていなかったはずだ。彼のヨガは至高性があり、ビジネスマンのヨガは目的のために行われる。
資本主義は、余暇を余暇として楽しむことを許さない。ヨガをヨガとして楽しむのではなく、成果を出すためのヨガを求める。余暇は単なる余暇ではなく、仕事のための準備期間である。マックス・ウェーバーが言うように、アスリートは末人なのである。
大谷翔平はアスリートの完成形であり、末人であると言える。彼は人生を野球に捧げている。藤井聡太も末人である。彼もまた人生を将棋に捧げている。
しかし奇妙なことに、大谷翔平も藤井聡太も人生そのものが至高性で満ちているようにみえる。だからこそ大谷は、まるで少年のように野球を楽しんでいるとよく言われるし、藤井聡太も少年のように、ただただ将棋そのものを楽しんでいるようにみえる。
この奇妙な逆転現象はなんだろう。とても興味深い。行き着くところまで行き着くと、すべてが至高性で満たされるようだ。余暇のすべてが労働である野球のためになると、論理的にはすべてが労働であり同時に余暇となるから、彼はすべての時間を働くと同時に休んでいるみたいな、論理破綻が起きる。絶対的な矛盾が自己同一にある状態。だから、大谷翔平も藤井聡太も圧倒的なんだろう。
こういう末人が野球や将棋だけでなく、いろんな分野で出始めているということが、資本主義の末期であるということを示しているようにみえる。時間のスケールの取り方にもよるが、資本主義はもうすぐ終わるだろう。少なくとも、資本主義というシステムが老体を迎えていることは間違いない。