https://news.yahoo.co.jp/articles/11c67fc5a770f9df4720adf5fcb0d134a883d513
音楽家ヒャダインさんが体育の専門誌に綴った体育や体育教師が大嫌いだという内容のエッセイ。
この記事を読んで、自分も思い出した。自分も恥をかいたことが何度もあったし、みんなの前で笑われたことも思い出した。体育って公開処刑に近い。なぜかみんなの前でやらされるし。
記事にもあるが、体育教師は運動が得意だった人間が体育教師になるから、運動が苦手な人間の気持ちは分からない。これはもうどうしようももなくて、たとえば自分はアトピーで子どものときは痒くて辛かった。アトピーでない人間に、痒みというものがどれほど耐え難いものなのか分かるはずがないように、体育教師に運動が苦手な子どもの気持ちなど分からないだろう。
あと、村上春樹のエッセイも思い出した。彼もまた体育が嫌いだったが、小説家になって走るようになってから身体を動かす楽しさを知ったという。そして、自分は運動が嫌いなのではなくて、体育が嫌いだったのだと気づく。
これ、体育に限らず学校教育の問題で、体育も他の科目もすべて、点数や偏差値によって序列をつけるから、どうしても下位の子どもが生まれ、苦手=嫌いになってしまう。体育の場合はとりわけ、もとが軍隊育成の目的でおこなわれていたから、集団主義的な圧力のせいで嫌いになる人も多いだろう。
たしかニクラス・ルーマンという社会学者が言ってたが、学校は、教育の場だけであるのではなく、国家の要請に従って選別の場にもなっているから、どうしても序列をつける必要がある。受験というシステムによって優等な歯車と不良品を選別し、社会に出荷していかなければならないからだ。希望するすべての子を医学部に入れて医者にさせるわけにはいかないし、当然といえば当然である。
体育に限らないが「じゃあ二人組つくってー」というのも嫌だったなー。こういうのも公開処刑だよなー。
音楽も嫌いだったなー。小学校のとき、担任がやたら合唱に力を入れてて、一人ずつカメラの前で歌わせていた。歌うのが苦手だったからすごく緊張した。カラオケは嫌いだし、苦手である。
小説とかマンガを読んでいると、作者が割と教室の隅っこで目立たないようにしてたというエピソードをわりと読むことがある。『君の膵臓をたべたい』の作者だったと思うけど、教室の隅っこにいるような子のほうが創造性があると言ってたような気がする。うろおぼえだけど。
これは学校で抑圧されてたからだと思うんだよな。学校での嫌な経験とか記憶は、社会とかシステムへの怒りとして抑圧され、そうしたエネルギーが創造性へと昇華されるのだと思う。もちろん、すべての子が創造性へと昇華させられるわけではないのだけど。だからなんというか、学校のこうした逆機能?はある種の必要悪だともいえる。
とはいえ、村上春樹が学校のせいで運動が嫌いだと思い込んでしまっていたように、学校が序列化を行うことで、学ぶことを嫌いだと思い込んでしまう子はたくさんいるだろう。もちろん、学校のおかけで学ぶことが楽しいと気づく子もいるけど。
この多様性の時代に、すべての子を全く同じ教育システムに放り込むことが果たして良いことなのか考える必要がある。