この前、家のトイレのスイッチが壊れた。用をたして、電気を消そうとスイッチを押しても消えない。シングルスイッチというスイッチで、押してもいつもと感覚が違う。
初めて、スイッチを外して中を見た。ネットでいろいろ調べて、部品を外していって見てみると、バネが破損していて、そこを取り替えればおそらく直る感じだった。
ホームセンターに行ってバネを探すもなく、家電量販店に行ってもバネはなかった。店員に聞いてもないとのことだった。ネットで検索すると、どうやらバネ単体は売っておらず、スイッチを買ってそこに着いているバネを使うとのことだった。大きなホームセンターに行ってようやく見つけ、無事修理できた。
病気になって健康の大切さを知るという言葉をよく聞く。逆にいえば、健康であるとき、健康であることの大切さは忘れている。身体に傷ができて初めて、そこに注意が向き、いろいろと考える。
スイッチも同じで、壊れて初めて、中を見てこういう構造になっているのかと知り、修理した。修理の過程で、ホームセンターの普段は行かない棚に行き、スイッチにもいろいろ種類があり、値段を知った。
この一件で、自分と世界のあいだに膜のようなものを感じた。幕と表現してもいいかもしれない。スイッチはそれまで、毎日見るあのスイッチしか見えず、その向こうの構造を自分は知らなかった。電気工事士でもしていないかぎりそうだろう。
構造は普段、幕におおわれていて見ることはない。もちろん見ようと思えば、見ることができる。けれど、べつに見ようとは思わない。だが、傷は、見ようというきっかけを生む。そこに、否応なしに注意を向けるからだ。
もちろん、スイッチが壊れても、自分で直そうとせずプロにまかせる人が多いから、金の力でその構造を知らないままに済ませる人もいる。
世界は複雑化していて、構造はその専門家しか知らない。世界全体そのものの構造は誰にも分からない。
傷はネガティブなものだから、傷と関わりたくない。だからそれは避けたいし、避けられるべきものだけど、その傷が契機となって世界に興味を抱くから面白い。この受動的な感じが面白い。
世の中は主体性が重視されていて、自分の意志によって、興味を持って、主体的に物事に関わるのがよしとされる。
でも、あまたある選択肢のなかから自分で何かを主体的に見つけるって大変で、だからこそ、偶然に傷と出会い、そこからその世界に入っていくという受動のほうがむしろ普通であるのかもしれない。
溝を塞ぐ側溝のコンクリート板を探してホームセンターを何軒かまわったのだが、見つからなくて、あぁ自分で作ってしまえばいいと思いついた。それで、整備している竹やぶの竹を使って竹筋コンクリートを作ろうと思いついた。
さっそく、竹筋コンクリートについて調べ、ガイアの夜明けの竹筋コンクリートの回を見たりしていろいろと勉強した。
で、いざ作ろうというとき、たまたまホームセンターに行ったら、普通に欲しかったサイズのコンクリート平板が売ってあった。しかもお手頃価格で。コンクリート生コン買って一から作るのと大して値段が違わないし、というか場合によっちゃ一から作ったほうが金がかかりそうだし、あーどうしようとけっこう悩んだ。結局、コンクリート平板一枚買って、もう一枚は竹筋コンクリートで作ってみることにした。
どうして前回ホームセンターに行ったときコンクリート平板が見つからなかっただろうと思ったが、見つかっていたら普通に買っておしまいで、竹筋コンクリートのことなど考えつかなかっただろう。こういう偶然は大切にしたい。
金の力で傷の恩恵が逸されてしまうということもよくある。
たとえば自分がビル・ゲイツだったら、トイレのスイッチを自分で直すよりも業者に任せてしまったほうが安上がりである。自分でいろいろ調べて直すよりも、その時間を仕事にまわして金を稼いで業者にまかせるほうが経済的だからである。
金がないから、業者に任せるより自分でやろうとなる。そして、いろいろ学ぶ。まあビル・ゲイツだって、自分でスイッチの修理はするかもしれないけど。
よく芸能人が、貧乏だった子どものころを話しているが、貧乏というのは嫌なことだけど、貧乏であるからこそ、反骨心が芽生えたり、努力したりするわけで、もし裕福だったら彼らは同じように成功できただろうかと考える。
もちろんなるべく傷つきたくない。傷というのは損失であってネガティブなものだから。だから、進んで傷つきにいくことはないし、偶然に傷と出会うことになるわけだけど、それが結果的に豊かさをもたらすことも多いという話。