今日、竹やぶの間伐をしてて、人生が退屈になるのは、死が遠ざかってしまったからなのかもしれないと思った。
今日は、この半年間の竹やぶの間伐の中で、もっとも危険な作業をした。自分の整備している竹やぶは急斜面で、その斜面の上のほうから2本の竹が、巨大な土の塊を抱いたまま倒れ、下に生えている竹にかかり木状態になっていた。




土の塊は、竹がかかり木状態になっているおかげで転がり落ちてこないが、竹を切ったらもちろん転がり落ちる。この土の塊の重さなど知る由もないが、こんなものが上から落ちて直撃すれば、たぶん死ぬだろう。だがもちろん、竹を切らないと間伐が終わらないので、どうやって2本の竹を切りながら、なおかつ土の塊が転がり落ちてこないようにするか、何日も前からずっと考えていた。
まず、かかり木状態を解消して、2本の竹を地面に倒すことにした。かかっている竹を一本一本切って取り除いていき、最後の一本を切ったらざざーんと音を立てて落ちてきた。
続いて、土の塊のすぐ下に生えている竹に、間伐した竹をひっかけていってバリケードにした。これで、土の塊を受け止める。バリケードを作ったら、土の塊を抱いている2本の竹を少しずつ切っていった。ある程度切って竹を揺すったら、土の塊が斜面から落ちてきてバリケードで止まった。


ふー良かった。すべてがうまくいった。
今日は寒かったが、汗だくになって、2時間くらい休憩することなく集中してやりきった。普段はスマホは車の中に置いたまま作業するのだが、土の塊に押しつぶされて身動きが取れなくなった時のためにスマホをポケットに入れて作業した。スマホを使うことなく終われて良かった。
一人で作業するのはいい、特に自分の場合は。自分で考えて、自分が動かなければ、物事は進んでいかないから、否応なしに頭がフル回転する。自分は、誰かといっしょだと、その人にまかせればいいやと頭が回転しなくなる。悪い癖だが、どうしようもない。
一人だと、頭がフル回転してアイデアが湧いてくるし、やる作業が危険であるほど、死がより身近になるから、アドレナリンも湧いてくる。ワクワクしている自分に気づく。
無事に間伐が済んで呆けていると、現代は死が遠ざかってしまっているから、退屈になってしまうのだと不意に納得した。
現代ほど、娯楽が溢れている時代はない。それなのに、なぜ、人生が退屈だと感じるのか?実に逆説的な問である。
答はすでにある通り、現代は人類史上もっとも死が遠いからである。寿命だけでなく、あらゆる意味において。死というのは、本来自分のすぐ隣にあるはずなのに、なんだかすごく遠くに感じる。それと同時に、生もとても遠く感じる。
若い女の子がリストカットするのは、自殺するためではなく、生きていることを実感するためという考察かなにかを読んだ記憶があるが、正しいと思う。生と死は文字通り、表裏一体なのだ。死が遠くなると、生も遠くなる。生きている実感がわかないから、退屈なのだ。
竹やぶ作業は町の補助金が出るが、作業の大変さや危険性を考慮すると、全く割に合わない。今日の作業ではケガしなかったが、この前竹にはじかれて尻もちついてからずっと尻の骨が痛いし、ファニーボーンに当たってずっと右肘が痺れていた。身体中があざや切り傷だらけになる。弁慶の泣き所が青く腫れ上がっている。サポーターをつけて作業していても、腰の筋肉がガチガチに凝る。
それでも、楽しいんだよな。自然の中で身体を動かすのは。一歩間違えば、大怪我するという危険のなかで、フルに頭を回転させ、段取りを考えて動くのは。
雪が降ったら作業できないし、年内には終わらせたい。