最近、拙ブログを「読者」登録していただくことが多くありがてえことです。登録してくださった先方を訪ねさせてもろたりするんですが、日々の生活について記しておられる方が多く、いろんな地域のいろんな年代の、家庭があったりなかったり、お子があったりなかったり、いろんな自分とは異なる日常を見ながらぽんよりとして、あ~~インターネットの好きなとこってこういうとこだったよ、と思い出しております。
短文型SNSが出てきたときは、それぞれの人がそれぞれの素朴な所感をリアルタイムで思い思いに発信できる、こりゃあいいぜ、と思ったもんでしたが今やそれらは、発信するやいなや(as soon as:~するやいなや)文脈無視の野暮ツッコミ(世にいうクソリプ)が飛んでくる相互野暮ツッコミ装置になってしまい、こんなに「随想」に適したツールであるのに私たちは「随想」が不可能になってしまったよ、ということを最近よく考えています。 (もちろん人の「素朴な所感」ってやつの中には、大いに問題のある偏見的所感や差別的所感も含まれるからには、この事態は或る程度仕方ないのかもしれません。)
しかし独りきりの想の巡らせを表現できるのが文章の醍醐味であり、想はそうして巡らされるうちに無防備状態から育ってゆくものであるのに、巡らしきらないうちにツッコミが飛んでくることが予想されれば、いつしか想を巡らすのをやめ外的防備だけを築くようになっちまい、そんなのあんまりつまんない。そんな騒がしさの中で、紙媒体であったり個人の日記であったりは、独り独りがじっくり思索の王様になれる、やはり比較的に想の巡らしに適した媒体であるんかな。
なんか前置きが長うなりましたが、昨年に読んだ日記をもとにした本を二冊紹介するです。ぜんぜん関係ない二冊ですが、どちらも孤独な想の巡らしの本でした。
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■ 品田遊『納税、のち、ヘラクレスメス――のべつ考える日々』(朝日新聞出版、2024)
前回紹介した『本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む』に続き、オモコロライターによる書。ダ・ヴィンチ・恐山の名で知られる著者の品田遊名義のエッセイです。
表紙のピンクかわいい(※ベイトソンは同時に買うたやつ)

帯をめくると……
ヘラジカがーーー!!!

前作『キリンに雷が落ちてどうする――少し考える日々』(2022)も読みましたんでこちらも一緒に紹介します。いずれもnoteの日記(ウロマガ)をもとにしたエッセイ集で、毎日の日記をテーマ別に再編集した構成になっています。 twitterで有名になった著者ですが(カフカの眼の人)、『キリン』のあとがきにて(SNSとは別に)日記を続ける理由について、書いたことが即座に「いいね」され拡散されるSNSのサイクルがテクストの内容にも影響を及ぼしている気がして、ということが書かれています。
理知的オモロをやる人で時代の寵児っぽい人、というのが現在の著者のパブリックイメージであろうと思われますが、これらの本は(日々ネットに触れているとついつい用いてしまう)「時代の構文」や「時代の語彙」みたいなやつ(雑な表現だが……)の澱から離れたところで書かれた文章だと感じました。とりわけ最初に感銘を受けたのは、「頻出ツイート100選」にまつわる顛末と所感が書かれた節。
ここが、決定的に私の感覚のズレているところなのだろう。誰もバカにしていないつもりでいて、人間に対する根深い憎悪がある。この世界を憎んで嗤ってやろうとすると、人を嗤ってしまう。気が狂いそうだ。誰もバカにしたくない。(『ヘラクレスメス』p.187)
或いは、二冊中で最も好きだと思った一節。
私は大好きなんですよ。あなたのことも、あなたのことも、あなたのことも。ひとりひとりに心から感謝している。ただそれをまとめて「お前ら」と認識すると途端に「殺してやる」と思ってしまう。なんかずっと昔からこうだ。どうしたらいいんだ。(同 p.184)
なんと清潔な文章を書く人やと驚きました、というか、これ読んで初心に返るような気持ちになった。
● 〈子ども〉のための日記
SNSではさまざまな概念がバズり、それらの概念の中にはときに、これまで目を向けられていなかった問題に名を与えたり抑圧されてきた者の主張を代弁するものとなったりする点で有益なものもあります。だが一方言葉の性質(代理するものであるという性質)上、個的な何かは必ず取りこぼされる。その取りこぼされた何かを拾い上げようとするのが本来の言葉のはずであったが、バズ概念の前ではそれがすべてを説明するように錯覚してしまう。以上は別にSNSに限ったことでなく概念とか言葉とかいうものはすべてそうだと思うんですが、即座の反応を要求されかつそれが増幅して返ってくる今日のネットの急流の中では、取りこぼしを改めて拾いゆくのは難しい。私はあるときから、他人の言葉の中に説明のツールばかり探そうとするような言葉との付き合い方が、急に嫌になりました。それはつまり、自分を、他人の言葉で説明される現象のひとつとして捉えることが嫌になって自分が神であったことを思い出したということだと思います。
『キリン』に「神のまま生きる」ことと「神の座を降りる」ことについて書かれた節があります(『キリン』pp.144-148)。どうしても自分を「世界の登場人物」「現実というゲームの一登場人物」として感じられない、という話。世界/私 のこの乖離傾向はADHD傾向と関連するのではという仮説が語られているのですが、私はそのくだりを読み、その乖離はそういえば書く行為の前提となるものであったよ、と思い出しました。
自身を他人の概念で、とりわけ流行の概念で、名付けられる位置に置くのでなく、予め取りこぼれたものとして自ら語りたい。そのとき私はいったん世界の一員であることをやめて特権的な筆に同一化する。という感覚が、そういえば書く行為にいつも付きまとうものでありました。しかしその特権感覚は(当事者/それ以外に二極化した認識においては)傲慢な「中立」ぶりっことか「冷笑」とかに誤認されがちであり、たしかにそういうものに接近しかねない危険性もなくはないのも承知しており、そんなこんなで長らく抑圧してしまっていた感覚でありました。しかしそもそも私にとってなんか書くとかいうことは、そこが出発点やった、そこ(自分が枠外の存在=神であるところ)から始めんとしょうがないんやった、とエンパワメントされた気がします。初心に返ったと述べた所以であります。
この節でちらりと永井均の名が挙げられているんですが、著者の文章を読んでいて私は、永井均の「哲学とは、他の人が上げ底など見ないところにそれを見てしまった者が、自分自身を納得させるためにそれを埋めていこうとする努力」(『〈子ども〉のための哲学』)というくだりを思い出したりしました。だから哲学ってのは「ふつうの人」より偉くなろうとする試みでなくて、「ふつうの人」が難なく達している地点にまで上げ底を埋めようとしていく営みなんだ、という。自分を枠外の神(ワクガイシン)の座に置くことは、一見傲慢あるいは超然であるように見えて、なんで私は私なの(私以外私じゃないの)的な原初の驚きに驚き続ける業のようなものなのでしょう。上に述べたように著者が(「ネットの人」でありながら)ネット的な語彙で語らないことに感嘆したのですが、それはそうした語彙が全人を枠内に並置されたプレイヤーととらえること(そのうえで他人をAと名指したり自分をそれに対するアンチAとして位置づけたりすること)を前提しており、一方でこの方の文章はそうできない驚きに立脚しているからなのかもしれません。
● 文字に戻る
なんか堅い本みたいな紹介になってしまいましたがそんなことはなくて、これらの本で一番よかったんは「ちょっとした話がめちゃ面白い」ところでした! (おもんない感想ですが……(太字にするほどの感想でもないし……))
『へラクレスメス』で良かったのは、漢字の見間違いから桜の花の白さのへこみに気づく話。という要約ではまったく伝わらないと思いますが。『キリン』では台風の中を空港へ行く話。それだけの話なのに異常におもろい。また、何気ない一節が美しいな~。「徹夜すると、夜のあとに朝がくることに『おお』と思ったりする。夜に寝て、その間に朝をロードしているわけではなかったんだな」(『キリン』p.78)。
ところで前回紹介したかまど&みくのしん本は、読みながら著者たちの対話の声が聞こえてくるようなところが魅力であって、「音読」の良さを思い出させてもくれましたが(前回参照)、今回の本は逆に、読んでいるうちにだんだん無音になる感覚がよかったです。昨今オモコロチャンネルも愛視聴しておるため(好きな動画:(1)動物の苗字 (2)最速キャンプ (3)ウンコビエニア など)、読み始めは文章がご本人の声で再生されたのですが、読んでいるうちに次第に静かな文字列になり、数多書きつけられてきた「心に移りゆくよしなしごと」たち史に連なってゆく。本書に限ったことでなく友人の本を読むときなどにも起こることですが、これも読の快楽であるなあ、と思いました。
● なぜ私は山芋チーズ焼きをつくるはずが白菜うま煮のもとを買って帰ってきたか
他に有難い点としては、われわれうっかり族にとっては「実用あるある集」的な側面があること。外出するときになぜか天気を確認しない話(『ヘラクレスメス』p.29)とか、急いでるときに限ってなぜか何か食べてしまう話(同 p.179)とか、分かるよ~~。後者の 「急げば海鮮丼を食べられる」が「海鮮丼を食べなければ」に変質してしまう謎のメカニズムも非常に分かる……! この種の「変質」は私にとってもうっかりの本質かも……! と理解が進みました。理解が進んだところで修正できるものでもないのですが、人がそれぞれの「なぜか××してしまう」を分析しているのを読むと、なんか元気づけられます。みんなが統一的な論理でなく、それぞれ固有のわけのわからん論理のもとに生きていることに希望を感じるからかも。なんの希望かよく分からないけど。そういえば『納税、のち、ヘラクレスメス』というふしぎな表題は、うっかりの先に小さな奇跡へ導かれるエピソードに由来するのでした。
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■ 車谷長吉『癲狂院日乗』(新書館、2024)
ここ数年、なぜか冬になると車谷長吉を読むというサイクルが続いています。夏に車谷長吉の日記が出ていたことを年末に知り、「わあああーー!!読まねば!」と買いました。かつて書かれたものの出版に至らなかったという『癲狂院日乗』。

本書は、『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞を受賞する前後、1998年4月から1999年4月にかけての日記です。『赤目四十八瀧心中未遂』は「聖地巡礼」に行くほど好きな作品なのですが、語ると長くなるのでまたの機会に(ちなみにナメリと「巡礼」に行った記録は昔のブログに書いてます)。どのような作家であるかについては、以前、高橋順子『夫・車谷長吉』の感想として別所に書きましたんでよかったらこちらを。
本書に書かれている話はほぼ、この本や本人の随筆等で知っていた話ではありましたがリアルタイムに書かれた日記として読むと改めて凄まじく、感想をひと言でいえば、「なんでここまで」。文学ってここまでせなあかんもん?
● 強迫と書くこと
まず本書は、車谷が苦しんだ強迫神経症(強迫症)の記録にもなっています。「これは私の病いだ」「これも私の病いだ」と繰り返される言葉とともにその症状が記録されています。人が歩く後ろに毒素が撒き散らされそれを全身に浴びてしまう気がする。人と歩調が合うと息苦しい。アロエが毒を撒き散らしている。家中を拭き清めないではいられない……。
その症状はどうも、小説を書くことと関連しているようです。「私が強迫神経症に罹ったのは、三年前の夏、『漂流物』が芥川賞に落ちたことが、相当に深く心の傷になって、つまり、あの事件によって完膚なき迄に打ちのめされたことが原因の一つになった」(p.101)。賞を逃して苦しみに陥る、というのは、(別に文学賞を目指したことのない者でも)想像はできます。しかし本書で繰り返し語られるのはそれだけでなくて、小説を書くこと自体の苦しみです。「おかしくなった」のは六年かけた『赤目四十八瀧心中未遂』を書き上げたときだとされています。「併し静かな達成感は少しもなかった。烈しい虚脱感を覚えた。すると、その夜からおかしくなった」(p.48)。履物が空を飛ぶ、死者の顔が壁に写る、家の中のものが皆汚れており拭いても拭いてもきれいにならない……。「本当はもう原稿など書きたくはないのだ。書くのは苦しいだけだ。この苦しみが私の強迫神経症の原因になっているのだ」(p.69)。
● 誰をも傷つけない倫理/全員傷つける倫理
彼の創作は、現実的な衝突をも引き起こしています。出版社との諸々。編集者との諸々。そして何よりモデル問題による衝突。これについても上述『夫・車谷長吉』感想でまとめたので繰り返しませんが、本日記ではとりわけ、「よ」氏に絶縁されたことについて何度も何度も何度も書かれておりそれが堪らない。著者は「よ」氏を作品内でモデルとして描いたことにより、生涯の友と思っていたはずのその人から絶縁状を受け取ります。その「よ」氏についての記述が、毎日毎日毎日……出てくる! それだけ大きな別離であったのでしょうが、その別離を嘆いたかと思いきや「よ」氏を心が弱いと貶し、同時に自身の罪を嘆き……。
文学作品とりわけ私小説におけるモデル問題についても上の文章で書いたので詳しくは繰り返しませんが、今日プライヴァシ―等や書かれる側の権利という観点からモデルのある創作物の視線は厳しくなっているし(ということを調べた日比嘉高『プライヴァシーの誕生――モデル小説のトラブル史』って本が面白かったです)、また今日とみに、書く側の特権性や暴力性、書く側と書かれる側の非対称性、書くことを通した他者の搾取が指摘されるようになりました。
車谷長吉は数々のモデル問題を起こしながらもそれらに無自覚であったわけではなく、たとえば本書では、「書くことによって、私の方は世の中に名が出る。書かれる方は、それでは割りに合わないと思うのか」(p.161)と、書かれる側の非対称感を思っている記述があります。そして、こんなふうに言う。
「一人の友を失ったのだ。小説を書くことは罪深い。悪だ。私が悪をなしたのであるが、その悪に私自身も傷ついた。」(p.27)
「私は血みどろになればいいと思うた。小説を書くことは罪悪だ。死刑の判決が下ればいいと思うた」(p.84)
んも~~~!! と私たちは思ってしまう。小説を書くことは「罪」で「悪」として経験されていて、さらにそれにまつわること(文学賞の受賞)まで「罪」と「悪」として感じられていて、じゃあそうならないように、人を傷つけないように書けばいいじゃないですか! ほら、モデルのプライバシーに配慮して「フェイク」を入れるとか、ひとこと「お店に許可をいただいております」って書くとか、そういう炎上対策をさあ……!! と私たちは思ってしまう。しかし厄介であるのは、この書き手にとって、小説を書くことと傷つけること傷つくことは不可分であり、小説を書くからには誰か及び己を傷つけなくてはならないと感じられているらしいことです。
「文士は悪人である。悪(わる)である。悪であることの苦しみに堪える辛さを忍ばなければならない」(p.141)
「文学者というのは因業なものだ。因業に堪えうる人だけが、文学者として生きて行けるのだ」(p.142)
昨今「誰も傷つけない●●」ということがいわれますが、この人の書き方はまるでその真逆です。文士たるもの人を、自分を、傷つけなくてはならない。誰をも、万人を傷つける文学! それって今では倫理的にどうなの、と思ってしまいますが、しかしそれこそがこの方の倫理であったのだと思います。「誰かを傷つけねばならない」というのも一種の強迫のようなものなのでありましょうか、でも倫理ってそもそも強迫的なもの。倫理とは、大文字の何か、普遍的な存在からの命令であって、つまりその倫理は聳える「文学」という普遍に接続するためのものであったのでしょう。
……というような「文学」観も今や偏頗なものであるかもしれません。「文学はそんな生易しいものではない」(p.131)ってのも、結局ある種マッチョであるなあ、と思ったりもします。もっとしんどくない、もっと優しく健康的な「文学」のあり方があるならば、正直私もそっちのほうが有難い。と思う一方で、でもどうしてもそういう歪んだ倫理を抱いた人に惹かれてしまう自分もいて。
あーそっか、私の好きなんは「歪み」なんや。孤独な想の巡らしを読みたい云々というのは、つまりは個々の歪みを読みたいんや。認知の歪みと見なされたものが「カウンセリングに行きましょう」で処理される世界において、想の巡らし記って、個々の歪みが歪みのまま追求されるから好きなんだ。
● その他箇条書き感想
・自身の強迫神経症の症状について、上述のように本人は「小説を書くこと」という観点から考察を加えているのだけれど、本書後半では急にフロイト的な「性」という観点が加わる。上では省略したけれどこの変化も興味深かったです。
・妻がいないと独り言ばっかり言ってしまう……みたいな記述は相変わらずちょっと可愛くてずるい。でも「順子ちゃん」を「うんこちゃん」と呼ぶのはひどい。
・うんこといえば排泄記録も多い。何本出たとか。そういえば私も毎日日記書いてるんですが、排泄については記録したことないなあ。食べたものは記録してるのに。
・「豚電」の仇名がひどすぎる。文学は人を傷つけるもの、というと孤高の文士的な高尚な感じもあるけれど、「豚電」はだいぶ「ただの悪口」感があります。
・三島賞で自分を推してくれたからという理由で、石原慎太郎に投票してたところ笑っちゃった。
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以上「日記」ってだけでぜんぜんちがう二冊を一緒に紹介しましたが、むりやりカブトムシつながりで関係づけるなら、車谷長吉にはペットのカブトムシとの日々を書いた名エッセイ「武蔵丸」があるのですよ。
なお、例の私のうっかりによりうちの本棚には『武蔵丸』が二冊あります(別版も含めると三冊)。

『武蔵丸』は、カブトムシ・武蔵丸を観察する文章が素晴らしく、いじらしく儚い名篇です。今読み返したらこちらは、「税金逃れ会社、のち、武蔵丸」でした。
