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泥障塚古墳群(前編) 茨城県小美玉市納場

前回までの大阪編でブログネタ(古墳)のストックが無くなってしまったので、12月20日(土)に、茨城県の霞ケ浦北あたりの古墳をいくつか巡ってきました。

 

まずは目的地エリアの最北に選んだ、泥障塚(でいしょうづか)古墳群へ。

北浦へと流れる巴川の右岸で、北西5㎞には常磐線岩間駅のそばの御前塚古墳群(3年前の訪問)がある、という立地。

 

小美玉市納場(おみたまし のうば)の住宅地の東隣の林の中にグーグルマップのピンが立っていました。

 

入ったすぐ正面の杉林。

 

墳丘は残っているのか…

 

南東方向へ少し移動すると、木々の先に斜面が。


墳丘らしい墳丘が、急に目の前に。喜び溢れます。

 

説明板も完備。

 

泥障塚(でいしょうづか)古墳群には前方後円墳が2基、円墳が5基残っています。

小美玉市指定文化財
泥障塚古墳群と古代官道跡
昭和51年3月25日指定 大字納字泥障塚847番地
この古墳は巴川右岸中流の微高台地上にあり、山林内に前方後円墳2基、円墳4基が分布している。隣接地は昭和40年代、住宅地域として開発されたが、北浦敷地内の円墳1基は緑地帯として保存され今にその姿を伝えている。前方後円墳は大きい方で全長約40m、高さ約3m、他の1基は全長約28m、高さ約1.7mを測り、古墳時代の後期(6世紀)頃この地方を支配した豪族の墳墓と推定される。
この古墳についての出土品については明らかでないが、言い伝えによれば源義家が奥州征伐のおり5万騎を従え、この塚に馬の障泥(あおり:鞍飾)を埋葬したことからといい、別名あおり塚と称されている。
古墳群が築かれた6世紀と義家が奥州征伐をした時代では、かなりの隔たりはあるが、北浦団地と古墳群の所在する山林を遮断するかのように古代の官道跡(約224m、北の巴川に向かって浅い堀状の傾斜をなし、木炭片の入った路面の一部が露出)が残されている。義家伝説は県内でも古代官道跡周辺に多く残されており、その数は百近くを数えている。
平成11年3月 小美玉市教育委員会

 

付近のマップもあって、見学する身にはとても助かるのですが…

上記では説明板は「円墳」の前に立っています。

 

後で訪ねた3号墳(住宅街の中)前の、新しい説明板(令和6年3月版)のマップと較べると、前方後円墳の位置が入れ替わっているところがありました。

 

それがまさに目の前にある立派な墳丘の表記で、上記の新しいマップの第2号墳。こちらでは「前方後円墳」

 

説明板の横から見上げたその墳丘。手前側に前方部?

 

墳頂の石棺材。薄い板石の組合せ。

 

そこから説明板の方向を。


説明板と逆方向。もう一基の大きい方の前方後円墳があるはずですが、ここからは判らず。


南東方向には円墳の連なりが判りました。右に5号墳ですね。

 

微かな高まりの5号墳。


その先に6号墳(左の、林手前)

 

6号墳も微かな高まり。

 

その先の7号墳。

 

7号墳はしっかりわかるマウントでした。

 

その奥の様子。

 

7号墳からの6号墳。

 

6号墳からの5号墳(左)と2号墳(右奥)

 

2号墳の高さが目立ちますね。

 

3号墳へ行って2号墳が前方後円墳であったと知り、再び戻ってきた時の2号墳。説明板のあたりが前方部先端でしょうか。

 

古墳の森に射しこむ、朝の光。

つづく。

2025年12月下旬訪問




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