日頃から落語を聞きに行っていると「授業の参考になるでしょ?」と言われることがままある。
これの答えは半分YESで半分NOだ。
というのも現代学校教育では、授業は「授業者のトーク」ではなく、「学習者の活動」が中心であるべきだとされるからだ。そのために国も保護者もタブレット端末にお金を注ぎ込んだのだ。
実際、授業者のトークの技術が上がれば上がるほど、生徒は「聞いているだけで楽しい」という雰囲気にはなる。しかし、それだと家に帰ってから何も残らない。
僕も若手の頃、授業のトークに様々なネタを盛り込んで工夫を詰め込み、盛り上げに盛り上げまくったつもりでいたら、授業アンケートで「授業はすごく面白いが、物理自体はよくわからない」という感想が書かれて返ってきた。
それでも落語の寄席と学校が似ているところはまあまあるな、と思っている
①持ち時間が決まっていて、出番の順に人が出てくる
寄席は分単位で持ち時間が決まっていて、秒レベルで終わらせるのに美学をもつ落語家も多いらしい。そして「中トリ」「食いつき」「ヒザ前」など、位置と出番に応じた盛り上げ方を演出する能力が求められるらしい。
当然これは先生も同じで、1時限目と4時限目のときでは雰囲気やメニューも少し変えるし、体育の前、音楽のあとなど、前後の関係によってもすこし内容を気にする。
これはちょっと寄席っぽい。
②教科書の内容(古典落語)でも自分なりに解釈し、芸として磨きあげる
授業の基本内容は教科書で規定されているが、教科書の内容をオーソドックスに喋るだけで授業になるかと言えばそうではなく、話す内容の何倍も知識もち、現場で教えた経験を積み、自分なりのストーリーと惹きつけ方を完成させていかないと、本当にいい授業にはならない。
古典落語もそうで、教わった古典を工夫もなくやっていても誰も見向きもしない。自分なりの解釈と演じ方で、その落語家の「型」ができて初めて客の耳が向くようになる。
これも落語に似ている。
③観客との相互作用が重要
授業でこう喋ったらこういう雰囲気になるはず、こう返ってくるはずと予測しながら僕らは喋っているけれど、そうならないときは即座に自己修正しながら、その日その日の教室に合わせていく必要がある。
喋り中心の授業の日でも、当然ながら、それは互いの呼吸を交換し合うようなリアルタイムの相互コミュニケーションだ。
これは寄席でもおそらく同じだと思う。客層に合わせたネタ選びなどもふくめて、その日の観客に寄り添うことが出来を左右する。
④観客を不安の中で置き去りにしないことも大事
神田伯山が「この話は25分ぐらい」と終わりの目安を先に言うことがあって、これを「旗を立てる」と呼んでいる。
これはとても有効で、50分は生徒にとって長いから「前半20分はコレ、後半30分はアレとソレ」とやる内容を先に言ってあげることが僕もよくある。すると生徒たちなりに自分の集中力の配分がしやすくなるように思える。
この先どうなるんだろう?という不安の中で想像力を使わされ続けるのは生徒も観客も意外と疲れるものだと思う。
⑤やっぱりライブに限る
コロナの頃、「オンライン授業」に頼らざるを得ない時期があったが、やっぱりあれはどうにもダメだった。僕自身が理科の担当なので、「実験が全くできない」というのもあるのだけれど、それ以外の科目でも「オンラインはあまり意味がない」という声は大きい。
落語も含めて演劇・ライブは何がいいのかと言えば、「演者と時間・空間を共有していること」、これに尽きると思う。もしかしたら演者が失敗するかもしれない、観客も電源オフでその空間から抜け出せたりしない、そういう共有感の中で見るから演劇は精神への迫力を放出することができる。
授業も同じで、教員や友人と時間・空間を共有しながら受けるから、力が宿るのであって、オンラインとか録画コンテンツでは実際の力の2割ぐらいしか受け取ることはできない。
やっぱりライブだな……、そう思いながら結局落語ファンはみんな寄席なりホールなりに通うのだと思う。