千駄木、藪下通りから西に入り、
何やら新旧綯交ぜになった階段を登り、


その左を、これまた趣のある古い石段を下っていくと・・・

「千駄木ふれあいの杜」という公園に辿り着きます。


ここは江戸時代、太田摂津守の屋敷であったところで、廃藩後は材木が散在し「太田の原」と呼ばれていたところ。

夏目漱石(慶応3.1.5(陰暦)~大正5.12.9 小説家)が住み、「吾輩は猫である」(明治38.1~39.8 『ホトトギス』)を執筆した千駄木の家(通称猫の家)からもほど近く、「猫伝」の冒頭で吾輩が捨てられていたところでもありました。
ふと気が付いて見ると書生は居ない。沢山居つた兄弟が一疋も見えぬ。肝心の母親さへ姿を隠して仕舞つた。其上今迄の所とは違つて無暗に明るい。眼を明いて居られぬ位だ。果てな何でも容子が可笑しいとのそのそ這い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ棄てられたのである。
漸くの思ひで笹原を這い出すと向ふに大きな池がある。余は池の前に坐つてどうしたらよからうと考えて見た。(一)

とあります。昭和の頃までは池があったらしいのですが、今はなくそれらしい跡が見えるばかりです↑。

吾輩君はこの後、太田の原を抜け苦沙弥先生の家に潜り込み、ここから「吾輩は猫である」のお話が繰り広げられていくことになります。
本当にこの太田の原を西に抜けると、すぐそこは苦沙弥先生宅のモデルになった漱石の千駄木の家。捨て猫となった吾輩君が、ふらふらと彷徨い歩いた様子を目に見えるように辿ることができます。
(夏目漱石)
またこの家は漱石の前には、漱石と並び称されるもう一人の明治大文豪森鷗外(文久2.1.19(陰暦)~大正11.7.9 医師・小説家)が住んでいたところでもあり、鷗外の男女の問答形式による小品「團子坂」(明治42.9.1『東亞之光』)にも、
女。あなたはどこかへ越してさへしまへば、わたくしが行かなくなると思つて入らつしやるの。越すと云つたつて、どうせ大學に近い處なんでせう。わたくし尋ねて行くわ。(間。)あら。眞直ぐに行つておしまひなさるの。
男。(黙りて跡戻りして太田の原へ曲がる。間。)それでは僕が何と云つても聴かないのですね。
と、太田の原が描き込まれています。
太田の原は近くに画塾があったためか、鷗外の著書の装丁も手掛けた藤島武二(慶応3.9.18(陰暦)~昭和18.3.19 画家)や石井柏亭(明治15.3.28~昭和33.12.9 画家)、青木繫(明治15.7.13~44.3.25 画家)など、多くの画家がスケッチをしたところでもあったのだそうです。
荒涼としながらも、詩心絵心を誘われる風情のある原だったのでしょうか。
(藤島武二)
今では、新しく立派でモダンな住宅が多く立ち並ぶようになったこの地域に、ここだけ時が止まったかのように、ぽつんと突如現れる異空間のような太田の原。現在は「ふれあいの杜」ということになっていますが・・・果たして「ふれあい」の役に立っているのか...鬱蒼と草木が茂っており、奥の方までは女性ひとりで入っていくのが何だか憚られる風情・・・。変貌の激しい地において往時を偲ばせる貴重な杜ではありますが、ちょっと入り口だけで失礼することにいたしますw・・・。
太田の原(千駄木ふれあいの杜)
東京都文京区千駄木1-11
参考文献
『漱石全集 第一巻』夏目金之助 1993.12.9 岩波書店
『千駄木の鷗外と漱石~二人の交流と作品を歩く』展図録 2023.10.7 森鷗外記念館
ランキングに参加しています。ポチっとしていただけると嬉しいです。
ご覧いただきありがとうございました。



