幼少期、塩原昌之助・やす夫妻の養子として育てられた夏目漱石(慶応3.1.5(陰暦)~大正5.12.9 小説家)は、内藤新宿・大宗寺前に寄宿していた時期がありました。
漱石の養父塩原昌之助は、漱石の実父夏目小兵衛直克から四谷大宗寺門前名主の株を買ってもらい名主を務めていましたが、その後浅草41番組添年寄となって浅草三間町に移転。その後添年寄を免ぜられて、また新宿に戻るということになり、明治5年から大宗寺前にあった「大きな四角な家」に住むことになっていたのでした。漱石の小説「道草」(大正4.6.3~9.14 『朝日新聞』)には、
さうして其行き詰まりには、大きな四角な家が建つてゐた。家には梯子段のついた二階があつた。其二階の上も下も、健三の眼には同じやうに見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角であつた。(三十八)
とあります。二階に上がる幅の広い階段、回廊状の廊下、同じような部屋が並ぶ間取り。これは典型的な遊女屋の構造で、新宿に戻った塩原家が寄宿したこの「大きな四角な家」は、「伊豆橋」という元妓楼であった建物だったのです。

「伊豆橋」は、漱石の実母千枝の父福田庄兵衛が、借金の抵当として入手した物件で、千枝の姉婿に経営させていた遊女屋でしたが、明治5年に出された娼妓解放令により廃業。空き家になっていたところを、塩原昌之助が夏目家の縁を頼り、建物の管理人の名目で仮住まいすることになっていたのでした。
不思議な事に、其広い家には人が誰も住んでゐなかつた。それを淋しいとも思はずにゐられる程の幼い彼には、まだ家といふものゝ経験と理解が欠けてゐた。
彼は幾つとなく続いてゐる部屋だの、遠く迄真直ぐに見える廊下だのを、恰も天井の付いた町のやうに考へた。さうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中駆け廻つた。
人気のないがらんとした大きな家に、並ぶ部屋部屋を覗きながら、長い廊下を駆け回りる幼少期の「道草」の主人公健三。幼い漱石もおそらく健三のように、遊女屋らしく華やかでそして退廃的で独特な装飾が施されていたであろう建物の中を町に見たて、夢幻的な時を過ごしていたことが想像されます。
文豪夏目漱石が幼少期を妓楼で過ごしていたなんてとても意外な事実ですが、この不思議な「大きな四角な家」で養子として育った経験は、漱石の人格形成に少なからぬ影響を与えていたのだろうことが伺えるように思えます。
品川・千住・板橋とともに、江戸四宿のひとつとして栄えた内藤新宿。宿場町だけあって妓楼も多くあり、最盛期は29軒の遊女屋と375人の遊女を抱え繁盛していましたが、娼妓解放令が出されたあとは、火の消えたように静まり返っていたのだそうです。内藤新宿に再び多くの人が行き来するようになるのは、鉄道が開通する明治中期以降。かつてのように繁華街として再び賑わうようになるのは関東大震災後。東京西郊が発展し、新宿駅が私鉄の大ターミナルとなるのを待たねばなりませんでした。
漱石が内藤新宿で過ごしたのは、ちょうどこの繁華街新宿が静まり返った、エアポケットのような時期だったということになります。

かつて妓楼「伊豆橋」があったおおよその場所は、現在新宿1丁目西の交差点、「新宿セブンビル」という雑居ビル辺りと考えられています。このすぐ裏手が、健三が(そしておそらく幼い塩原金之助こと夏目漱石が)登って遊んだ、「大きな唐金の仏像」のある大宗寺です。
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参考文献
『漱石全集 第十巻』夏目金之助 1994.10.7 岩波書店
『漱石と歩く、明治の東京』広岡祐 2012.4.20 祥伝社
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