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【12/8】身体が追いつかない復活

TOWERです
復活という話で言えば、確実に言えるのは、コロナの時期からずっと体内に居座っていたウイルスが見事に復活したということです。
(少し前まで39度の高熱を何日も抱えたまま耐えていたところに、教授が学位申請の締切最終日にどうしてもサインと判子を押すと言い出しました。学業も生活も事前に処理できないまま、大学からの電話で詰められつつデッドライン提出をしていた時、本気で次の瞬間ポックリいくと思いました。この記事を書く前日にようやく解熱しましたが、まだ完全にガラガラ声回復フェーズです。この年末は何もかも良い方向に転ばなさそうな予感しかしません。)

復活です、復活。
正直に言えば、復活とは本来「死んだものがまた生き返る」か、「消えたものが再び現れる」ことを指すはずです。
現代のインターネットが発達した時代では、何もかもがサイバー不死身みたいになっていて、「復活」という言葉を一対一で完全に体現できるものは想像しにくいです。本当は「復活したものが生前とはズレた姿を見せること」みたいな引用を挟もうと思いましたが、調べてみたら復活という言葉自体にすでにその意味が含まれていて、終わりました。学術カスが出てしまいました。

(「復活」という言葉の説明)


そもそも復活は完全にポジティブな言葉ではないと思います。嫌なものがまた出てくるという意味でも使えるはずです。(……正直、高熱で何日も焼かれていたせいで、物事に対する最低限の主観的判断力すら消えていて、どう説明すればいいのか全然思いつきませんでした。)……待ってください、今ひらめきました。


みなさん普段カートゥーンは観ますか。自分は日本の漫画というメディアには割とどっぷりハマる傾向がありますが、アニメに関してはどちらかと言えば欧米作品派です。最近、発熱でベッドに横たわりながら屍のように『アドベンチャー・タイム』のスピンオフ作品『Fionna and Cake』を観ていました。そこに出てくるキャラクターたちは、マルチバースという前提の中で、主体性を保つ限りどの世界も「ローグ的」であるという話を、わりとさらっとやっていました。

(Fionna and Cake)


では、このローグと復活はどう関係するのでしょうか(笑顔)。自分なりの理解では、『Fionna and Cake』で使われているローグは、ローグライトゲームにおける「ローグ」という概念の引用だと思います。ローグ系ゲームを雑に説明するとこうです。
プレイヤーは必ず死ぬキャラクターを操作します。死んでは復活するそのキャラクターを通じて、プレイヤーはゲームへの理解度を高め、最終的にクリアへ近づいていきます。しかし正直なところ、この手のゲームには明確な終わりがありません。キャラクターが死ぬという仕様そのものを使い、進行の仕方を何度も変え続けることで、ゲームは永遠に続けられてしまいます。ははは……(で、これが漫画と何の関係があるんだよって話です。ちなみに自分はローグ系ゲームが大好きです。誰も聞いていませんが。)

(The Binding of Isaac)


まあいいです。要するに、こういう構造を持つ漫画を見つければ、この文章も救済されるというわけです。うん、この思考回路はたぶん合っています。(……別に漫画じゃなくてもいい気がしてきましたが、ローグの概念やローグゲームについて語り始めると無限に駄弁れてしまうので、今回はやめておきます。)では、こういう物語や仕組みを持った漫画は何でしょうか。……うーん……(脳内に残った死にかけの細胞を漁ります)ありました!そういえば何度も読み返して、そのたびに違う感覚を得た漫画がありました!まさか脳内に浮かんだのが、『失恋ショコラティエ』の作者である水城せとな先生の放課後保健室でした。

放課後保健室


この漫画を読んだのは、たしか小学五年生の頃です。当時の感想は「え、主人公、女にも男にもなれるじゃん。やば、最高。つまりこの作品って実質BG+BL+GL全部盛りじゃないですか。神、うま、優勝」みたいなレベルでした。それが他人にとっての悩みであるという視点は一切なく、ただただ幼い自分に全力で自己投影していました。「もし自分にも性別を自由に選べたらいいのに」と本気で思っていました。(復活という言葉に戻りますが、はい、この作品はかなり当てはまります。)


主人公は雌雄同体の身体を持つ存在です。物語の冒頭では、男性として学校生活を送ることを選びます。しかし月経をはじめとする女性的特徴が現れ、自身の身体の「欠落」を繰り返し突きつけられます。ある偶然をきっかけに、主人公は放課後の保健室で行われる特別授業に参加することになります。そこでは主人公や、同じように「欠落」を抱えた生徒たちが、自分の内面を具象化した存在となり、卒業の鍵を得るため互いに殺し合います。鍵を得るまで、彼らは何度も放課後の保健室に集まり、極めて個人的な戦いを繰り返します。(この反復される精神の具現化としての死と復活のプロセスは、一種のローグとも言えるかもしれません。)最終的に主人公は鍵を手に入れ、自身の性別認識の迷いを解消し、別の世界に生まれ変わります。復活という言葉とこれ以上なく一致しています。完全な復活です。自己認識と外見認識が一致した状態で、主人公は復活します!(泣)


雌雄同体の人々は、多くの場合、最初に男性として生きることを強いられるという研究も存在します。これは性別二元論の話になるのでここでは深入りしませんが、この作品は幼い頃の自分にとって、性別認識の初期的なヒントを与えてくれたと思います。もちろん今読み返すと、少女漫画の文脈に寄せすぎた描写も多いです。それでも外見と自己認識の一致という社会的問題は、近年かなり注目されているテーマです。(久しぶりにまた読み返してみてもいいかもしれません。)


最近、日本の女性アイドルグループXGのメンバーであるCOCONAが、20歳の誕生日に自身をノンバイナリーだと公表し、すでにトップサージェリーを受けていると発表したというニュースも見ました。女性アイドルグループの一員でありながら、女性という呼称に違和感を抱く存在であることは、ネット上でもなかなかの議論を呼んでいました。もっとも、自分はそこまで気にしていません。他人の呼び方ひとつで揺らぐ性別認識なら、自分の意志が紙細工みたいに脆すぎると思うからです。


自分の周りにも性別違和を抱える友人は少なくありません。(正直「障害」という言い方はあまり好きではありません。)彼らと胸部切除や身体的特徴に関する手術について話すこともあります。それは理解できる話です。社会的性別と身体的性別の一致感覚は人によって違います。胸部手術に関しても同様です。出産の予定がない場合、あるいはあったとしても、胸の必要性は必ずしも絶対ではありません。胸があることで身体の線が整わないと感じる人もいれば、運動や日常動作の妨げになると感じる人もいます。


他人から見れば、些細なことや、不可逆な自己破壊に映るかもしれません。ですが本人にとっては、その行為こそが人生を再起動する鍵となり、復活や再生につながる場合もありますね。(……まさかちゃんとオチがつくとは思いませんでした、この記事。無理やり昇華しておきます。)

みなさんどうか身体を大切にして、健康な状態で新しい一年を迎えてください。
(ゴホッ、ゴホッ。)

やっと熱が下がったばかりですが、2ヶ月前にチケットを取っておいたBCNR(Black Country, New Road)の大阪ライブに、8日の夜は行くつもりです。この記事が公開される8日の朝、私はおそらくライブ前の微熱と戦っているでしょう…どうか私に幸運を。




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