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【12/18】『極東ネクロマンス』とはなんだったのか?

 タイトル詐欺してしまった。この文章は中立性や包括性をほとんど備えていません。
 週刊少年ジャンプ2024年21号から同年40号まで連載された那波歩才『極東ネクロマンス』(以下略す際は「極東」)。毎週の楽しみだったし、いま「今年の漫画で好きなのは?」と聞かれたら2番目か3番目にこの作品を挙げると思う。分別のついたキャラクターによる他にはない温度感の掛け合いといった長所だけでなく、絶妙に足りないバトル描写、やたらチャレンジングな画面構成[例:うにょうにょ〜……スパッ!など]、もはやオシャレかどうか判断しかねるセリフ選び[例:Beef or Chicken? など]その他もろもろ……短所(になりかねない部分)も愛嬌とみなせるくらいには好きな漫画だ。たまにTwitterとかで検索をかけて、ネットのみんなの感想(そのほとんどはくだらなかった*1)を見るのも楽しかった。このようにそこそこの思い入れがあるので、ここで自分にとっての「極東」の読み方と価値を、既読者向けに、しかし現実に読まれることは想定しないくらいのラフさで書いてみたい。もちろん、文章を公開する以上、自分の読み方が誰かにとっての読み方になることも期待していなければならないのだが。

 「極東」でもっとも重要な回は、間違いなく2話だ。というのも、この作品においてなにが問題なのかがそこで規定されるからである。祖母に憑いた死霊を祓った耀司のもとで死霊術師になることに決めた薫は、最初の仕事として、見知らぬ一般人に憑いた死霊を駆除することになる。しかし、そこで薫は「知らないおっさんのために熱くなれるのか?」と躊躇してしまう。

 「極東」が今後なにを描くのか、そしてなにを描かなければならないのかを決定した重要な場面がここだ。たしかに私たち(のほとんど)は、たとえ自分がリスクを負うかもしれないとしても、可能ならば(見知らぬ人であっても)他人を助けるべきだと考えているし、実際に助けることもよくあることだ。しかしながら、そういった事実があるからといって、「自分にとってはリスキーだが、なんらかの意味で他人のためになる行為をなすよう動機づけられる」事態がどのようにして成立しているのか、そこでどのようなことが起こっているのか、といったことを説明しなくてよくなるわけではない。往々にして少年漫画のキャラクターはこの溝を飛び越えてしまう*2が、「極東」はそこで待ったをかける。私たちが上記の行為(とりあえず利他行為と呼んでもかまわないと思う)をなす気になったり、実際になしたりすることはどのようにして可能になっているのか? 作中での言い回しを用いるなら、私たちが精神(こころ)を動かす*3ことはどのようにして可能になっているのか? 「極東」はここで、そのような問題を立てることのできる次元を開いている*4
 このポイントに深く関連するテーマとして、「愛」にも触れておかなければならない。最終話で唐突に明示されたそのテーマは、しかし確実に『極東ネクロマンス』という作品全体を貫いていた。薫の祖母への愛、龍の景子への愛、耀司の樹への愛、指輪を作った魔術師の長(覚えていないと思うので補足すると、チタリ2のこと)の宇埜家の男への愛……キャラクターたちを眺めると、その行動の根幹には常に愛があった。注目すべきなのは、各々の抱える愛が作中で明確に行動原理として描かれていると同時に、実行されるそれぞれの行為がじつに多様であることだ。言い換えると、「極東」においては、愛が行為一般を動機づけるのに一役買っているのである。ならばもちろん愛は、自分がコストを支払ってでも他人を助けるという行為の実現にも寄与することになる。事実、私たちが他人を助ける状況の多くにおいて、私たちはその相手を愛しているといえる*5
 ここからは、作中における「愛」が自分の観点とどう関係するのかをもう少しだけ踏み込んで説明し、そののちに2話の重要性を再度強調してみたい。最終話のタイトル「極東・死霊・愛」を目にしたとき、多くの(?)人が想起したのは、BUCK-TICK*6の楽曲“極東より愛を込めて”、あるいは“極東 I LOVE YOU”というアルバム全体だろう。自分は勝手に「極東」のインスピレーション元のひとつはこの曲(アルバム)だと考えているが*7 、作中で愛が行為を動機づけるのに貢献していることを考えれば、とりわけ重要になるのはその歌詞のうちでも「汝の敵を愛することが君にできるか」「悲哀の敵を愛することが俺にできるか」*8といった箇所になるはずだ。なぜなら、先に述べた「極東」において決定的なシーンでは、助ける対象は愛の対象ではないからだ(別におっさんは敵でもないが)。繰り返すが、愛は利他的な行為を動機づける。しかし、普通に考えて助けなければならない相手には、往々にして、いやほとんどの場合、愛するための思い入れがない。以上のことを踏まえると、先述した「極東」の問いに、行為の原理のひとつとしての愛を組み入れたものは次のようになる。「悲哀の敵」とは言わないまでも、ほとんど関心(愛)の対象でない他人を助けなければならないとき、私たちを望ましい行いに駆り立てうる仕組みがあるとすれば、それはどのようなものか*9? 私たちが愛の対象でない他人を助けることを現実に実践しているかぎり、これは価値のある問いであり続ける。
 薫はいま、相手を助けるために、今まで愛の対象でなかった他人をなんらかの意味で愛さなければならない。そうでなければ助けるという行為を遂行することが難しくなってしまうから。しかしどうやって? 彼がとった方法は、「いま相手を死霊から救うことが、愛する祖母を守るための力を得ることに繋がると考える」だった。

 このやりかたはいくらかアクロバティックだ。相手を直接愛するのではなく、愛の対象を守るために必要なただの経由地点として考えることで、あたかも相手を愛しているかのようにふるまえるのだから。そしてこの方法の発見は、作中で提起された「利他行為の動機づけはいかにして可能か?」という問題に、ほんの少し光を与えたように思われる。なぜなら、微々たるものではあるが、この描写は現実の私たちの実践を説明しうるからだ。2話の重要性はより高まった。そこでは作品の根底をなす問いが成立すると同時に、のちに明示されるモチーフである「愛」が行為に必要な要素であると示されている。さらには2話自体が問題となる説明の溝を埋める具体例でもあるのだ。
 『極東ネクロマンス』が自分にとって価値を持ったのはなぜか。それは、これまで述べたように、少年漫画がすぐに見過ごしてしまいがちな問題を一般的なかたちで浮き上がらせ、「愛」を軸にしてその問題を探究していこうという姿勢が多少見えたからだ。(自分勝手に)楽しめたわ。サンキュー那波っち。
 とはいえ、行為するための動機がいかに成立しているかを説明しないときに生じるギャップを「極東」が埋めようとしている、という自分の読み方に疑問を覚える読者もいるに違いない。事実、「極東」はいかにも少年漫画的な「思わず体/精神が動いてしまう」シーンも多く描いているからだ。ただ、まさにそのような描写で飽和していることが、この作品の不十分な、というよりはもったいない点だと自分は考えている。
 まず、「極東」において少年漫画的なありかたが価値を持っていると考えられている場面をいくつか抜き出してみよう。

耀司が薫のことを評価するシーン
幼稚園で子供を人質にとる死霊に対して精神が動くシーン
翠を傷つける死霊術師に憤るシーン
薫と耀司が車内で会話するシーン(4つのうちどれだけ覚えてたかな?)

 明らかに、『極東ネクロマンス』が描きたいのはこういった素直な人間のありかただろう。しかるべき状況に直面すれば、「自然に」心が働き、望ましい行動へと結びつく、というありかた……。
 しかし、先ほど見たように、「極東」はたんに「自然に」精神が動く事実を記述するだけでなく、そのような事実が成立するための基盤はなにか? と問う側面も持っていた。実際、薫が祖母を死霊から助けるために考えるより先に体が動くのと、見知らぬ他人を前に逡巡したのち、愛する祖母のためにという条件つきで助けるのは、描写としてはまったく異なる。にもかかわらず、上の場面からわかるように、2話で確保したこの区別を「極東」は次第に手放していったように思う。死霊や死霊術師に薫が義憤の念を覚えるとき、そこでは「愛」の情を見出すことくらいはできるかもしれないが、「「愛」の原理はどのように作用していて、そしてなぜそれは正当化できるのか?」「なぜ「愛」の原理に身を委ねて精神を動かす(べきな)のか?」という漠とした疑問を前にした戸惑いは消失してしまっている*10。体/精神が自然に動き半自動的に行為をなせるケースは、この作品が2話で描き出した問いに対するごくごく部分的な答えにすぎない*11。“極東 I LOVE YOU”が9.11的な問題系のなかで生まれたアルバムであることを踏まえれば、露骨な悪を配置して自然に許せないと思える、そんな単純な話で済むわけがないのだ。
 さて、いい加減冗長な文章(と注)を驚異的にふわっとまとめよう。自分の読み方のもとでは、「極東」は(意図したかはともかく)ただ単純なだけでない領域を照射したものの、その領域の広さを見誤っていたと言わざるをえない。そして、自らが示した問題の重要性を明らかにできないまま終わってしまった。自分はそのことが残念でしょうがない。
 ただ、そもそもこれは打ち切り漫画だ。十分に物語を展開する余白がないまま連載を終えてしまった作品に対して、自分の興味に従うかぎりでの不足をあげつらうのは不当というものだろう*12。したがって、そこまで推敲もしていない文章を読者(いるの?)が少しでも理解してくれることを願ってはいるものの、もし理解してくれたとしてもこの漫画の魅力が減じられたことにはならないと思う。というか、そもそも読んでますか? こんなの読む前に買ってください。
www.shueisha.co.jp

おまけ 背景と近況

 どうも、なめしです。最近の漫トロピーには痛々しい背伸びが不足してるなぁと思いました*13。そこで自分が率先して実行してみるかと思い(4年目なのに!)、「なんか言うてるわ」系の文章を書いてみたよ。これ読んだ人は「テキトー言ってるなぁ、ぼく/わたし/漏れ/ミー/ボキならこんな下手なレビューしないよ」と感じて、自分でやっていってくれると嬉しいです。問題は会員がmantrogを読んでないことかな*14。俺も読んでないし。
 ここからが本題。最近『黒執事』を再読した。キッズの頃に母親が買ってたのを勝手に読んでいたのがそもそもの出会いだったが、俺の原体験となるにふさわしい漫画だった。作者の熱と欲が先行していて、キャラはやたらピーキーで、高頻度のギャグとクール()な演出は成功してんだかしてないんだかぜんっぜんわからない。それでも、これが俺をかたちづくるすべてだったんだ、と(改めて)認識するほかはなかった。マジで毎ページに全部があった。お前は俺にいろんなことを教えてくれたなぁ。いいストーリーとはなにか*15、カッコいいとはなにか*16、なんなら性欲をどこに向ければいいか*17まで……あの頃の自分にとってちょうどファントムハイヴ社のおもちゃくらいの魅力を持っていたのが『黒執事』だった。そしておもちゃは、大人になって触れても昔と同じくらい面白かったりするものなのだ*18。あれ、今年のテーマってなんだっけ……あぁ、「記憶」か……。
ではまた。

*1:もちろん悪い意味で。しかし、そのくだらなさも心地よかった。

*2:そのこと自体は責められるべきではない。もしすべての物語がこの種のことに説明を与えようとしなければならず、そして実際に与えようとしていたなら、一般に創作物は退屈なものになっていただろうし、自分は漫画など読まなかったに違いない。

*3:「精神を動かす」という言い回しには、17話の耀司と龍の会話に見られるように、この記事でのものと異なる、もしくはそれを包含したうえでより広い用法が存在する。とはいえ自分の解釈に致命的な欠陥を引き起こす気もしないので、ひとまず限定された意味のほうで使用する。

*4:このように考えると、画像2コマ目以降における耀司のセリフが帯びる必然性も理解できる。たしかに、仕事でなければ相手を助けるなんて気にはならないだろうという状況は多い。このことが示唆するのは、労働とは、それがなければ存在しなかったであろう利他行為、およびその動機づけを(奇妙なことに)可能にすることのできる制度だということだ。そして、その仕組みの探究には価値があると言えるだろう。「極東」が『ALIENS AREA』と同じくお仕事ものである理由はここにある。

*5:誤解されることはないと思うが、自分は「愛している」という語を、非常に多様なニュアンスを認めるようなきわめて広い意味でとっている。交際相手に対する親切な行為と、出かけた先で仲良くなった人に対するそれは、行為者のうちでそれぞれの行為を駆動する心的な力の質において明確に異なる。だからといって、両者を「愛」という言葉のもとで統一的に説明しようとする試みがただちに無謀になるわけでもないはずだ。那波もそのように考えていたからこそ、キャラクターごとに質の異なる感情的なファクターを用意したうえで、最後に「愛」というテーマを明示したのだろう。

*6:1987年にメジャーデビューした日本のバンド。最新作“スブロサ SUBROSA”は急激かつ強制的にバンド体制が変更されてから1年ほどで製作されたが、それにもかかわらず出色の出来だったので、みんな聴こう!

*7:週刊少年ジャンプ2025年1号の巻末で、那波の担当編集者がBUCK-TICKのファンだと明らかになった。那波本人がどうかはともかく、完全に的外れな思い込みでもなさそうだ。

*8:この「愛」のあからさまにキリスト教的な面が作中でよく表現されているのは、耀司と龍の最後の会話だろう。舌足らずな説明になるが、死者蘇生をおこなうことが耀司の人生に憂鬱を植え付けるという龍の主張を、「憂鬱も人生を彩る要素だ」という別の認識で塗り替えるとき、耀司は龍の価値体系を包み込む愛の実践によって、龍を悲哀の者に「した」。

*9:「極東」では、ある状況が与えられたときになにが「望ましい行い」か(愛を以て他人を助けるのはいいが、なぜあのようにではなくこのように愛さなければならないか)とか、他人を「普通に考えて助けなければならない」かどうか(そもそも他人を愛するなんてことはしなきゃダメなのか)とかいったことはほぼ問題にされていない。こうしたことをいったん棚上げにしてからでないといま「極東」、というか自分が問題にしていることは問題にできない。というのも、どのような行為をするかが決まっていない状態では、特定の行為がどのように動機づけられるかという仕組みを調べることができないためだ。しかし、動機づけについての問題とその前提となる問題とは、ある程度切り分けられるからこそ両者を前提関係のもとで捉えられる以上、関連してはいるが別の話だ。さらに、取り組む課題を分割することは最初から否定されるべきではない。むしろ、すべてを一挙に取り扱おうとするのが蛮勇と評価されるべきだろう。よって、ほかに特別な理由がなければこの棚上げを咎める理由はない。通俗道徳をあまり気にかけない人や、逆に並外れてよく気にかける人はこうした点を気にするかもしれないので念のため。

*10:この消失の理由はおそらく、園児や翠、薫など、それが愛の対象であることが当たり前であるようなキャラクターばかりを扱っていたことによる(とはいっても、よくよく考えれば彼らを愛の対象とすることもまったく自明ではないのだが)。その意味でも、龍は要となりうるキャラクターだった(注12も参照)。また、より原理的な問題に言及するなら、「自然な」「しかるべき」(後者は自分の言葉だが、作品の意図を汲んだ表現ではあると思う)といった表現を使ってしまえば、行為が動機づけられるかどうかはトリビアルな問題になってしまうからだとも形容できる。上のような表現は、当の行為に導かれることが当然であることを含意するのだから。

*11:自分はこのケース自体が説明を要求するものであると感じるが、もしこの感覚が正しければ、これは部分的な答えですらないのかもしれない。

*12:「優れた悪役はキャラクターとしての強度を備えていなければならない」という創作実践上の制約に応えようとしただけかもしれないが、龍の描かれ方には期待できる面が多分にあった。間違いなく「悲哀の敵」であった彼の扱いを通じて、(利他)行為の動機づけがいかになされるかを描出する道筋があったのではないか。だからこそ、十分な紙幅が与えられなかったのが残念。いやまぁキツかったか。

*13:なぜかみんなして自分がどのようなコンテンツに触れてきたかを振り返ってお茶を濁している場合ではない。ボーイズビー背伸びシャス。

*14:「極東」も読んでない。が、これはしょうがない。

*15:6割くらいは反面教師として。

*16:7割くらいは反面教師として。

*17:ハーコートの失禁シーンから排泄要素を排除して同性への欲情を抽出するとは、昔の自分はなかなか器用だったらしい。

*18:でも最近(29巻〜)明らかにつまらないよね? なぁ枢、ツイステやめないか?




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