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透かす不知火 偽物のカード

実家の母から荷物が届いた。自身が今パートで働いているスーパーで、いろいろ選んで買った模様。オイラももう一人暮らしをして長いので、別に荷物は送らなくて良いのだがとは思っている。でも、それは母に伝えないでいる。

母は買い物が好きだ。食料品をとにかく買う。実家にある「元オイラの部屋」は、今や母の食べ物倉庫になっている。子供部屋に冷蔵庫が2つか3つあるし、棚も押し入れもパンパンだ。実家には娯楽と呼べるものがTVくらいしか無く、あとは小さな暇つぶしが転がっているだけだ。だもんで買い物が、母の一番の楽しみになっているのだと思う。ここで「もうオイラもいい歳だし…」とは、口が裂けても言えないのだ。

荷物が無事に届いたと、母にTEL。「別にお礼なんていらない」と言われる。電話の向こうでは完全に真顔だ。相変わらずである。お互い風邪をひかないようにとか、納豆を食べるとコレステロールに良いけれど、芸能人の某が食べすぎて痛風なったらしいぞとか、そんな話をして電話は終わった。あ、今度は玉ねぎドレッシングを送るぞとも言われた。

 

実家からの荷物には、小ぶりで少し萎びた不知火が入っていた。柑橘類はオイラの好物だが、特にデコポンとか蜜柑とか、剥きやすいのが好きだ。グレープフルーツは味が好きだが中々に食べにくい。

キッチンに立ち、不知火を手でむく。めりめりとやると、中から少ししぼんだ果肉が出てきた。新鮮とは言えないが、ありがたいことだ。ひとつもいで、食べてみる。ほら美味い。しなびていても傷んでも美味いから、果物はすごい。

天気が良いので、眼の前の窓を開ける。青空に不知火のひとふさを透かしてから、口に入れる。種が入っているものをそのまま食べると、どうにも美味しくないもんで。窓の外の景色にすかしては、またひとつ頬張る。

果物は大抵、キッチンで立ったまま食べる。皮の処理も簡単だし、手が汚れたらすぐ洗える。果汁をこぼしても安心。あまり行儀はよろしくない。しかしなぁ、キッチンで丁寧に果物を剥いてから、皿に盛り付けてリビングに運び、それから食べるなんて、まどろっこしいじゃないか。グレープフルーツとキッチン立ち食いの相性は抜群だぜ。

それに、外を見ながら果物を食べるのは、結構気持ちがいいもんだ。清々しい気分になれる。数年前くらいから、気分がどんより落ち込んでいる時は、暑かろうと寒かろうと家の窓を全て開け、外気をガンガンに取り込みながら生活する。窓を開けた瞬間、外の空間と家の空間が繋がって、まるで物凄く大きな空間にいるような気分になる。

 

母が送ってくれた荷物の中に、わかめスープが入っていた。リケンのわかめスープなのだが、パッケージが紙でできている。プラスチックごみを減らすためなんだろう。しかし、昔のパッケージで見慣れているものだから、紙に印刷されたスープの写真やロゴを見ていると、ニセモノなんじゃないかという気持ちになってくる。

材質だけが違う、ただそれだけでホンモノっぽい、ニセモノっぽいなと感じる。まぁ確かに、有名な絵画が木の板に印刷されていたら、それは明らかに別物だなって感じるから、当たり前っちゃ当たり前なのだが。でも、紙でもプラでも使用するには問題ないのにも関わらず、真偽判定をしてしまうこの感覚が、なんだか面白いし懐かしい。

オイラが学生の頃、遊戯王カードが流行っていた。今はゲームでデジタルなカードゲームに昇華されているが、オイラの世代はバリバリに実物、つまり紙で遊んでいた。5枚で300円だったかな。大ブームになると、偽物が出回るのが世の常である。

地元の夏祭りの日、広場には出店がたくさん並んでいた。その中に、遊戯王カードのくじ引きがあった。1回500円で5枚。オイラはそのくじを引いた。確かエルフの剣士くらいのカード、つまりコモンカードばかりが当たったのだ。

そのカードを触ると、通常のものより明らかに、薄い。半分くらいの薄さしかない。頭上に持ち上げると、光が透けて見えるほどだ。

それに印刷がぼやけているし、印刷されたイラストも中心からほんの少しだけ左下にズレている。ここでオイラは偽物であることに気がついた。

が、オイラとしてはどうでも良かった。引いた5枚のカードには、今まで所持していなかったものも含まれていたし、カードには1枚ずつ丁寧にフィルムに入れられていた。出店のオッチャンの優しさを感じ、感謝すら覚えたほどだ。

次の日、それらのカードをデッキ(カードの束)に入れて、友人たちとカードバトルをした。彼らからは「お前それ偽物だろ」「ダサっ」と笑われた。オイラには、なぜ笑われるのかが分からなかった。だってこのカードは、カードバトルするための道具、トランプの札みたいなものだ。バトルさえ出来れば役目は果たせるのに、なぜダサいなどと言われなければいけないのだろう。

他人からバカにされて惨めな気持ちになり、遊戯王カードから足を洗った……となってくれていれば、無駄金を使わずに済んだのだが。オイラが気にせずニセモノのカードを使い続け、むしろそれをオイラがネタにするものだから、周りもあまり気にしなくなった。それからも本物のカードを買ってはデッキを組み、バトルし続けた。おかげで随分金を使った。バカだよなぁ。

 

このリケンの紙パッケージを見ていたら、このニセモノのカードのことを思い出した。偽物でも良いって思える時と、思えない時ってあるよな。リケンの紙パッケージは、手で破きやすいし、最近横浜市はプラごみと燃えるゴミを分ける取り組みをしているので、手間がかからずありがたい。

ちなみにカードバトルの腕前はからっきしだった。

よく見ると情報が多い。わかめは美味しそう。

ぼんやり捉える0307

今日は家でゴロゴロダラダラすることが多かった。布団の上で横になり、最近買ったゲームをプレイして、飽きたら起きてPCの前に行き、SNSを眺め、また戻って本を読む。

こういうことばかりしていると、夜になって「こんな一日で良かったのだろうか」としょんぼりする。何も成さなくていいのだろうか…と不安になる。

そういう時のために、このブログはあるのだ!一日を振り返ると、洋服のアイロンがけもしたし、皿洗いだって、靴洗いだってしたぞ。おにぎりを作って冷凍するという、未来のオイラへのギフトも用意できた。すばらしいじゃないか。成した日である。

今タイマーが鳴った。あ、すみません。今この文章の1行目から、この行まででピッタリ5分かかったらしい。タイマーで測ってみたのだ。オイラは5分で250文字くらい書くのか。1000文字書くだけでも20~30分くらいはかかるんだな。ブログって、読む時は一瞬なのになぁ。儚い。儚くないか、しばらくはこのインターネット上に残るわけだしな。

 

そういえば今日は、他人のブログをいくつか読んだな。每日何件かオススメに上がってくるじゃんね、それを読んでた。その中で 趣味は人間観察 みたいなタイトルのブログがあった。少しブログを読んでみたけど、ああいうタイプの人は苦手だなぁ。

なんで苦手なのかはあんまり考えていない。よく分からないけどモヤモヤするので、あまり近寄らないようにしている。

このブログを書く前に、夜の散歩に行ってきたんだよ。その時にぼんやり考えていたんだけど。オイラは他人に対する悪口というか、誹謗中傷する……語彙?が、とても少ない気がする。悪い点を名前で呼べないというか。

誰かを嫌いになったり、苦手意識を持ったりしても「なんかイヤだな」「モヤモヤするな」くらいにしか捉えられない。

嫌だと思う気持ちがないのではない。むしろオイラは気難しい人間なので、すぐに「コイツなんかイヤだな」って思っちゃう。でも「なんか」でしかないのだ。

 

この前も、こういうことがあった。SNSで、とある人の投稿を見る度に、オイラはいつもモヤモヤしてしまっていた。別に過激なことを言っているわけでも、誹謗中傷しているわけでもないのにナゼ……?と。疑問に思って、友人にその とある人 の投稿を見てもらった。モヤモヤする理由を知りたかったからだ。

投稿をいくつか眺めた友人が一言。「コイツ、カッコつけてるねー。ミュートしといたら?」

カッコつけてる…カッコつけてる?とある人は(おそらく)成人しているんだが、大人もカッコつけるの?というか、カッコつけてる っていう、人間の様子を表す言葉、中学生以来だな聞いたの。

オイラは軽くショックを受けて、友人に沢山質問をしてしまった。なぜカッコつけてると思うのかとか、どういう状態をカッコつけてると言うのか、とか色々。

そいで、友人から聞いてなんとか理解できたのは ①世の中には大人になってもカッコつける奴がいる ②大抵それはバレるし、バレなくても人から嫌がられる ③カッコつけている奴を好きな人間も一定層いる ということだった。

色々質問したが、やはりオイラが一番びっくりしたのは友人が「カッコつけてる」と言ったことだった。正直に言うと、友人のそのジャッジが正しいかどうかは、オイラには分からない。もしかしたら本当は、もっと正確にその人の様子を表す言葉があるかも知れないし。

でもその正確性や成否はともかくとして、他人に対しての「なんかイヤ」に名前をつけたこと、それが驚きであった。*1いいのか、そんな簡単に他人を評価して。

 

そういうことがあったのが先週の話だ。それから每日「カッコつけ」ってなんだろうとか、他人に対して評価し烙印を押すことについてとか、色々考えていた。その中で、少なくとも今のオイラは、他人を評価したり烙印を押すことが不得意であるな、ということが分かった。

観察という言葉の意味は「ありのままの姿を注意深く見ること」だそうだ。*2しかし人間観察は、先程記した 観察 以上の意味があるだろ。人間観察には、見た後に推察したり、それを記録に残したりすることも含まれている。人間観察を趣味に持っている人の場合、観察して得た情報を何かに利用する。人付き合いであったり、ブログのネタであったり、評価であったり。

そういう点から考えるに、オイラは人間観察に向いていない。なんか好きだなとか、なんかイヤだなとか、そういう抽象的な評価しかしない。人を見る目がないとも言えるかもしれないな。ぼんやりとしか他人を捉えていないんだから。

ただ、自分をフォローするようでアレなんだが、オイラはぼんやりと見つめるのが好きである。フォローになってないか。他人に興味がないわけではないんだよな。

 

例え話として適切かどうか分からないんだが……電車の中で、自分の向かいに座っている人がいるとして、その人の背中には窓がある。窓の景色はびゅんびゅん変わっていく。トンネルを通って真っ暗になることもあれば、青空であることも、ビルが見えることも、色々ある。

その景色によって、その人の雰囲気って変わらないだろうか。そりゃあギャンギャンにタトゥー入れてて目鼻にピアスしてる人が向かいに座ってたら、どんな景色でも怖いし、もうそっちをジロジロ見ることも出来ないだろうけど。でもそういう人の背景が、桜並木だったら、ちょっと見え方が違う。

それは、その人の境界線の外側が変わるからってのもあるけれど、自分の気持ちも変わるからなんじゃないか。好きな景色、嫌いな景色、色々な背景によって自分の心持ちが変わり、それによって他人を見つめる眼差しも変わるんじゃなかろうか。

自分の状態によっても、見つめる対象以外の要素によっても、対象を捉えた時の感覚は大きく変わる。そしたらオイラにとってその観察はもはや、意味のない行為になるなぁと、そう思うのだ。評価も呼び名も、コロコロ変わっちゃうだろうから。

その人とその人の周りごと、ぼやぼや~っと見ることで得られるものがあって、オイラはそれを得たい、のかもしれない。どれだけ整った顔立ちの人間でも、まじまじと見ていると気持ち悪くなるしなぁ。細かければいいってもんでもないし。

 

飽きてきたから今日はこの辺で終わろう。ブログってのは暇つぶしにピッタリだなー。書くのも読むのも。

あ、そうそう。カッコつけについて一人で考えてて唯一、オイラが分かったのは「カッコつけるとカッコ悪くなる」ということだ。恰好の 恰 とは、ちょうど良いという意味らしい。身の丈に合ってなかったら、そりゃカッコ悪いって思われるよな。

*1:流行りの言葉で言うと、言語化というのだろうか。「なんかイヤ」も言語なのだから、この言い方は間違っているような気がする。

*2:第八版三省堂国語辞典に書いてあった

温泉と本屋に寄った日0223

温泉に行く。スーパー銭湯と呼ばれるものと温泉というものの違いが分からず、大きい施設のものをすべて温泉と呼ぶことにしている。スーパー銭湯は、知らない。予の辞書にない。貴殿は温泉、貴様も温泉。ここは温泉の国である。

よく行く温泉は雰囲気がとても良い。露天風呂の方にTVが付いてるが、音声はoffになっているし、張り紙やポップも少ない。ご飯を食べられる休憩所(食堂か?)は広くて静かである。心が洗われた。

 

帰りにショッピングセンターに行き、掃除用のマイクロファイバー布巾を買う。今家にあるやつは5枚組の5枚目のやつで、買い替えずにずっと使っていたので。

別にその布巾が丈夫だったというわけではなく、単に5枚目になってから取り替えずに使っていただけである。布巾のコスパはオイラの怠惰によって成長したと言える。精神論というか、気分に左右されないか、コスパってやつは。あまり意識せずにぼんやり生きているので、コスパもタイパもぼやぼやさせている。

 

布巾を買ったあとに、本屋にも寄った。子供の本コーナーに、戦争の話をインタビューし纏めた本があり、結構驚く。パンどろぼうシリーズの隣に、表紙が見えるように置くとは、中々派手なことをする。

それ以外でも、なんとなくだが、学びにつながる本が多く紹介されている印象。社会であったり知恵であったり、教養であったりとか。

 

オイラが初めて触れた戦争にまつわる話は、ちいちゃんのかげおくりだったか。悲しい話のはずなんだが、オイラはかげおくりってスゴい!という感想を強く持っており、今この歳になってもかげおくりをして暇を潰すことがある。

あとはなんといってもはだしのゲン。戦争の悲惨さを学びたいから読んだ、というわけでは全くない。小学校の教室に置いてあったマンガがはだしのゲンシリーズしかなかったのだ。ホラー漫画や恋愛漫画と同列で、それを読んでいた。

出てくる言葉が面白い。怒っているのに「うわーい」と叫んだり、ギギギと苦しんだり。あだ名でクソ森はないだろとゲラゲラ笑ったり。主人公たちが頭蓋骨を売り歩く時に米兵に歌った歌が何故かテンポが良かったり。そういうことを覚えている。

もちろん、主人公の母親を火葬した時に母の骨が全く残らなかった話とか、ドングリがヒロポン漬けになったりとか、そういうことも覚えているけれど。あの漫画で広島弁を少しだけ覚えられた。おどりゃクソ森!

ただまぁ、どれだけ愉快な話でも悲惨なエピソードも、それは創作の可能性があるし、インタビューや自伝だとしても、いろんな立場のいろんな声のうちの一部を切り取ったものである。それを忘れてはいけない。

小さい声を大きく捉えても、でも小さく捉えすぎても良くないと思う。

 

本屋に寄ったあと、また別の本屋に寄った。すると、そこの子供向けの本コーナーは、ためにならない本ばかり並んでいた。その光景がオイラには、とても良かった。

図書館に行く前の日記0215

今日は休みなので、図書館に本を返しに行く予定。

なのだが今日の午前中に配達される荷物があるので、それを受け取るために自宅で待っている。この待っている時間は、例えば電車をホームで待つ時間のように、あと何分と決まっているわけではない。長いような短いような、少し不思議な感覚だ。

ただぼんやり待っていても仕方がないので、洗濯を回したり(洗濯物を洗濯機に入れて洗剤を入れてスイッチを押すことを、回す、って呼んでいるんだけど通じるのだろうか)、あとで掃除機をかけるために部屋を少し片付けたり、水を飲んでブログを書いたりしている。

今日は本を4冊返す。2冊読みきった、あと2冊は図書館に行く道中で読むことにしている。歩いては通えないが、それがかえって気分転換になってよい。昔、千葉の富里に住んでいた頃は、近くに大きくてきれいな図書館があった。オイラが本を読むようになったキッカケの図書館だったな。

 

読んだ2冊は「もしニーチェがイッカクだったなら?」「暮らしの図鑑 パン」。

イッカクの方は「人間は動物よりも知性で優れている、人間だけが特別な知性というものを持っている」という考えを否定し、更にその優れていると思っている知能で人類は苦しんでいる、人類は愚かだ、だから今からなんとかしていこう!という本。拙い説明だな。本は面白いぞ。

オイラは賢いとか情緒的だとか、深く物事を考えられることだとかを尊ぶ考え方に疑問を持っている。賢いということは、賢いという事実を明らかにしているだけに過ぎない。それをすごいと思うかどうかはまた別の話だと思うのだが、なぜかすごいという感想が肥大化し、すごいという こと になってしまっている。おかしいと思う。そういう考えを持つヒューマンなので、この本のサブタイトル「動物の知能から考えた人間の愚かさ」に惹かれた。

まず読みやすかったな。オイラはあまり翻訳のことは分からないのだが、オイラでもスイスイ読める。といってもオイラの場合、難しそうな言葉が沢山出てきたり、もったいぶった書き方だと感じる所は読み飛ばすので参考にはならないだろう。オイラはあまり本を大切にしないからな。自分本位というか。

内容は面白いけど納得はしにくかった。「人類は愚か」という点について、確かに頷ける所はあるのだが、それほど愚かかねぇ?と思った。例えばこの本では人類が倫理や道徳の名の下に差別行為をした事例を取り上げていて、確かにそれは愚かと言っても良いのだが、その差別行為や考え方を批判する人間、悔い改める人間、その出来事に心を痛める人間もまたいる中で、果たして「人類は愚か」とキッパリ言えるだろうかと疑問に思う。また、その倫理や道徳で人類が滅んでいくのであったとして、滅んでいくことが愚かかどうかもイマイチピンとこない。生きているだけでえらい!の逆みたいな話か。

動物にもこういう面がありますよ、という話の部分は面白かった。あとは後書きの一節が良い。これが筆者の言いたいことで良いんじゃなかろうか。

僕たちの心だけが何をおいても絶対的にすぐれてるとは言えないし、僕たちが自称する知的優越性は、動物たちの苦痛に無関心でいることの言い訳にはならない。

 

パンの方は、見開き1ページで基本的に完結するパンの話、というか図鑑。絵や写真が豊富でオシャレでいい。この本に限らず、最近はオシャレな小さめの図鑑のような本が沢山出ていて良いよな。焼き立てだけではなく「冷めたて」も美味しいだとか、御当地のかなりマイナーなパンだとかも紹介していたりして、読み応えがあった。

パンに塗るものを取り上げているページでは、例えばバターとかを紹介しているんだが、オイラが思っている適量よりも、ずっとずぅっと沢山のバターを塗りたくっていて、かなり引いてしまった。アレだけ塗ったらパンの味はもはやどうでもいいのではなかろうか。写真映えを気にしての行為なのだろうか、写真用にあれだけ塗ったということで良いんだよな、そうだよな。

あとは、この手のパンの紹介にはあまりない、フツーにスーパーとかで買えるような、ヤマザキパンやパスコの菓子パン・食パンの紹介もされていて、そこは嬉しかった。有名ベーカリーのパンはそりゃあ美味いのだろうけど、普段口にする機会が多いのはやはりスーパーのパンだよな。こういうパンで中高生のオイラは出来ているので、そういうものも同列に語られていて嬉しくなったのだった。さっき「有名ベーカリーのパンはそりゃあ美味いのだろう」と書いたが、実際は店によってバラバラで、大して美味しいと思わないもの、値段の割にコレか…と思うもの、色々だなと感じる。ああいう店のパンで合わなかったりすると、かなり落ち込むし、ずっと引きずる。

今から行こうと思っている図書館の、最寄り駅の駅ビル内にもパン屋さんがあるんだが、あそこのパン屋に人がたくさんいる理由がわからないでいる。あんなに高くてアレなのに、良いのかそれで!と、通りがかる度に思う。

そうだ図書館だ。コレを書いている間に荷物が届いたのだ。12時になるギリギリのタイミングで届けてくれた。ありがたいことである。

それじゃちょっと出かけてくる。

Spotifyでポッドキャストを聴いているんだけど

その中で少し困ったことがある。Spotifyには沢山の番組があるはずなんだが、オススメに上がってくる番組が偏っていて、あまりおもしろくない。

例えばオイラはロッチのロッチナイトZEROを聴いているんだが、その繋がりで別の芸人さんの番組がどんどん出てくる。でも、出てくるものはなぜかサムネイルがうるさい。全体の色使いと大きな文字、Youtubeのサムネと変わらない、いやもっと派手である。プロの方が作っているので、目立ち方がすごい。

芸人さんの番組で、リスナーからの悩み相談に答えているんだけど、サムネに書いてある文字(芸人さんの回答の一部だと思う)もタイトルも言葉が鋭いので、オイラは目に入るだけで疲れてしまう。Spotifyをスクロールして眺めていると夜の新宿三丁目を歩いているような、もしくはLINEニュースを見ている時のような気分になる。

あとは考察や本の要約系の番組、解説系の番組も避けている。基本的に、聞かれてもいないのに答えるような奴の話は信用したらいけない。と書くとブログなんてものはすべからく信用してはいけなくなるんだが、まぁ本当はそういうものだろ。ああいうのも圧が強いし、今はそういうもののブームだろう。だからオススメに上がってくるが、オイラは知らないことこそが宝だと思っているので、あまりにも価値観が合わない。

Spotifyは履歴を削除したり自分の好みをカスタマイズしたりすることが出来ない。ノットフォーミーな番組をミュートすることも出来ない。一時的に非表示にすることは出来るが、それだけだ。だもんで結構参る。

最近は、Spotifyを立ち上げたらすぐにポッドキャストのお気に入りのタブをタッチするようにしている。お気に入りのものしか見たくない、と言っているのではなく、一部の番組のアピールに辟易しているので、そそくさと逃げている。

 

 

ポッドキャストを聴いていて良いこともあった。元気にやっている年上の人たちを知れたのが良かった。

ポッドキャストで最初に聴いた芸能人さんの番組は、関根勤小堺一機の「コサキン ポッドキャストDEワァオ」だ。実にくだらないし同じ話ばかり喋っている。そして、大変に元気である。お二人とももう70代であるのに、あんな大きな声を出して喋り続けていられる体力がすごい。そして殆ど文句も嫌味も愚痴も言わず、ポジティブに笑い合っている。ああいう人間たちを見ていると元気になる。

 

で、先週ナインティナインのANNに清水ミチコさんがゲストとして登場したのだが、ミチコさんも素直で明るく喋っていた。もう65歳か。

ミチコさんの芸は時にたっぷり毒を含む場合もある。しかしそれは芸をしている時であって、人と話している時は元気ハツラツとしており、リスナーからのリクエストには素直に応え、丁寧に回答されていた。作りたてのモノマネを披露した際に、他人から褒められたミチコさんが「そうかな?ありがとう~」と言っていたのが特に印象に残っている。

お客さんの目がある場所だからこそ、あのように振る舞っているのだとすると、オイラは余計に、すごいなと尊敬する。

もはや大御所で、いくらでもふんぞり返っていても誰も文句は言わないのに。コンプラなんて無視したってどうとでもなるくらいの地位にいらっしゃるのに。ああいう態度はやはり、長年活動してきたからこそ染み付いたものなのか。

 

みうらじゅん山田五郎の「みうら五郎」という番組も最近ずっと聴いている。一つのテーマに沿って2人がトークをするだけなのだが、その話が深くもなければ浅くもない、ためになるかと思えばそうでもない。脱線だけは必ずする。

ただ楽しそうに話して終わりである。二人とももうすっかり爺さんで、昔の思い出なんかもたっぷり話すのだが、その思い出もちっともカッコいいものじゃなく、いつも情けない。先程コサキンの話もしたが、彼らの思い出話も別にカッコよくないんだよな。そこもまた良い。

 

少し前まで「川沿い」という番組を聴いたり、DJみそしるとMCごはんの「深夜のおやつ」を聴いたりもしていたんだが、こっちはどんどんつまらなく感じていった。大抵の話が「こういうすごいことがあったよ」なのだ。旅行に行きました、人に会いました、美味しいものを食べました……いや、そういう体験も人生においては大切だろうけど、每日そんなわけがないし、旅行に行ったとて、楽しいことだけなわけがないだろう。インスタの音声版になってるぞ。そういう気持ちになっていったので、聴くのをやめた。そういう理由でお気に入り登録を外した番組も割とある。

更新されなくて淋しく思っている番組もある。「岸政彦の20分休み」は番組が終わってしまったし「秋田県人しか出ない」は全4回の投稿が終わったのでもう更新されることはない。あとはザ・ギース尾関高文とOCHA NORMA広本瑠璃の「年の差ラジオ」は広島のラジオ番組で後からポッドキャストに配信されるんだが、中々更新が開くので淋しい。あの二人のトークは浅くて緩くて面白い。

 

特にオチもないがここで終わる。基本的に元気で明るく真面目で、そして少し間抜けだったりすると良いな、オイラは。そういう人間に憧れがある。

投票に行った日0205

これはアプリ版ブルースカイの検索画面に出てくるバナーなんだけど、これの良いところは選挙に行くことそれだけを勧め、それを肯定しているところ。そしてイラストの作者のアカウントも載せているところだと思う。人をポジティブな気持ちにさせるイラストを使用するときに、転載や盗用ではイヤだもんなぁ。

オイラも選挙に行ってきた。期日前投票。市民ホールまで歩いて、建物内のエレベーターに乗り込んで、扉が開いたらたくさんの人。オイラは届いたハガキを持っていたので受付はスムーズだった。投票用紙を前にして、どの名前を書こうかかなり悩んだ。ええいと書き上げて、箱に紙を入れて終了。係の方から投票証明書というものを貰った。証明なんてされなくても良いけどな、と思ったが、どうやらそれを見せると味玉をオマケしてくれるラーメン屋があったりと、なんかお得らしい。なるほどねー。

その足でスーパーに立ち寄り、鱈の切り身を買って帰った。その日は鱈と白菜の蒸し煮、和風ナポリタンを作って食べた。

オイラは投票するのが結構好きだ。例えば学校の中で強制的に投票させられるのはイヤだが、自分の意志で時間と体力を消費することにして、わざわざ投票しに行くのが良いんだと思う。自分が投票するかどうかを自分で決めたい。

それに、そういう意志で(勿論友人に頼まれたり味玉に釣られたりと色々あると思うが)投票に来た人たちの輪?そういう人たちのいる空間に混じれるのは、なんとなく気分がいい。皆同じ投票先に投票するわけはなく、考えていることはバラバラだろう。そういう人間たちが、バラバラなのに同じ場所に集まり同じ行動をする、それこそ他者と共に生きるということの基礎ではあるまいか。排他的のカウンターとして排他的になってはいけない。少なくともオイラはオイラに対してそう思う。

暗くなってきたので帰ろう。この日記は散歩の帰り道にモスに寄って書いていたのでした。モス野菜ばかり食べてしまうなぁ。

出かけた日の日記0202

北海道から帰ってきて1週間ほど経った。新千歳から羽田空港に着いた日、自宅までの帰りの電車の中で気を失いそうになったな。薬の副作用でも起きたかというほどの眠気。脳味噌が真空になったようだった。意識が朦朧としたが、ここで気を失えば起きれないかもしれないと思い、足の指に力を込めながら眠気に耐えていた。

家に帰ってから改めて職場に連絡をしたが、疲れているだろうからとりあえず明日も休んでおけとのこと。ありがたい。ひょっとして、やんわりとクビになったのではないかと焦り、ではいついつから出勤させて頂きますという話もまとめておいた。もし纏めなかったらオイラの席は無くなっていたのだろうか。いやいや。

そんな日から数日経過して、オイラはぼんやりと過ごしていた。2月1日は会社が休みだったので、久々に図書館に行こう、それもまだ行ったことのない所に行こうと決意して31日の夜は就寝。1日の朝に起きて急に「なんか今日は出かけたくないぞ」という気分に苛まれた。まぁ自分で決めたことだしと、支度をして出かけた。

 

結果として、お出かけは大失敗であった。

目的地までのルートを決めて電車に乗るも、電車があちこち遅延して中々着かず、また友人から、オイラが選んだルートは他の人間が選ぶであろうルートよりも随分遠回りをしていると教えられた。倍以上の差の距離を迂回して移動していたとのこと。なのに遅延て。

図書館の最寄り駅に着き、目的地まで歩き始めたが、GoogleMapを見ているのにも関わらず道に迷うわまたもや遠回りをするわ。普段ならこんなこと滅多にないのだが。更に家に財布を忘れたので、偶然見かけた美味そうな中華料理屋が現金払いのみの対応とのことで飲食叶わず。店を出て歩いていると、通りすがりの自転車乗りに肘をバシーンと当てられ痛い。

初めての図書館にようやく着いたが、子どもたちが歌うし走るしで元気が良すぎる。子供が元気なのは良いんだが、保護者の方がその様子を眺めているだけで、どうにも落ち着かない。良さそうな本を借りてそそくさと後にする。

友人から聞いたルートで帰ろうと思い歩くが、さすがに腹が減り駅前にある定食屋らしき店でオススメの丼ものを注文した。それがなんと全く口に合わない。オイラは大概のものは「美味いor超うまい」で判断するのだが、これはちょっと。1000円払ってこれを喰らったのかと、しょんぼりして電車に乗る。おそらく小旅行中の爺さん婆さんたちの集団がワイワイガヤガヤと話す電車に乗ってしまい、これはたまらないと次の駅で降りて各停を待ってまた乗った。

自宅の最寄りに着き「せめて何か1つ良いことを起こそう…」と、逆転を狙って最近見つけた雰囲気のいいカフェに足を運んだ。しかしタイミングが悪かったのか、店主さんと常連のお客さんが、かなり、不愉快な話をなさっていて、一人カウンターに通されたオイラは隅の方で聞こえないフリをしながら、借りてきた本を読んだ。あ、合わない…!内容が、多分書いている人間は相当腕がいいのだろうけど、如何せん自分には雰囲気というか書き味が合わない。

逆転ならず。しわしわになりながら家に帰った。

 

過去の自分ならここで不貞腐れて寝ていたが、今回は違った。「外がダメなら家だ!」と奮起し、家の中でしたいことをしたいだけした。と言っても布団をキレイに敷き直したり、部屋を整えたり洗濯をしたり。晩ご飯の支度を早々と始めて、好きなゲームをして活動報告用のブログを2本書き、自分で改めてコーヒーを淹れて飲む。良い。すっかり元気を取り戻した。

思えば朝起きた時の直感に従って、家にいたら良かったのだろうなと今は思う。が、家にいても同じようなことは起こったかもしれないし、外で色々な目に遭ったからこそ室内で快適に過ごそうと思えたのかもしれないし。それは分からない。

あの日、早々とカフェを出て一人とぼとぼと歩いている時に思ったのは「やはりオイラは北海道から脱出するときまでに運を使い果たしたんだな」ということと「ということは家に帰ってからは良いことがあるかもしれないな」ということだった。




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