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— 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」日曜夜8時 (@berabou_nhk) December 21, 2025
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総集編の放送は29(月)📺
明日からも愛すべき懐かしのべらぼうたちのクランクアップ写真の投稿は続きます。お付き合いいただければ幸いです。#横浜流星 pic.twitter.com/UAyDPJNM3X
大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」
「総集編 巻之一」
初回放送日NHK総合テレビジョン12月29日(月)午後0:15
蔦屋重三郎(横浜流星)の波乱万丈の生涯を描いた、大河ドラマ「べらぼう」総集編。巻之一から巻之五まで全5回の放送。物語の語りを担当するのは、宿屋飯盛(又吉直樹)
📺「総集編 巻之二」12/29(月)[総合/BSP4K]後1:05~
📺「総集編 巻之三」12/29(月)[総合/BSP4K]後1:48~
📺「総集編 巻之四」12/29(月)[総合/BSP4K]後2:31~
📺「総集編 巻之五」12/29(月)[総合/BSP4K]後3:20~
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ところでおいら、ドラマ本編が始まる前から「松平定信、その虚像と実像」というか、「松平定信像の変遷」…というか、そこに注目して、従来のイメージを変える「シン・松平定信論」とか語っちゃっていました。
今回、ドラマと並行しながら、一般啓蒙書なども読んでみました。それを以下のようにまとめたいと思います。
※ただ、ひさびさに音声入力を主に使ったので誤字がひどい。まずアップしてから徐々に直していきます。
松平定信に関する雑感
「べらぼう」は松平定信が大河ドラマに参加する初の作品となりました.
結構この人物についてはそれなりに読み知っているつもりでしたが、実際にドラマになってみるとこんな部分があったのかとか,確かにこの視点から見なければこの事件は真相が分からないな…と思うような、いくつもの気づきがありました。
箇条書き的にまとめたいと思います。
風雲児たち史観 発展継承の契機として。
まず大前提としなければいけないのは、「田沼意次が汚職まみれの腐敗政治家で、それを清廉な政治で正し、いくつかの失敗があったが大成功したのが松平定信の寛政の改革だ」という講談的な俗説が100年200年の規模でデンと岩盤のように存在していた、と。そして、それに反駁する形で「いや田沼意次の政策は開明的で自由であり、定信はそれを覆した反動である」という話が専門家の研究の中から出てきて…、それが例えばみなもと太郎「風雲児たち」にエンターテイメントの形で結実したということです。
そしてだが、みなもと太郎本人は「自分の漫画は学術書並み(に発行部数が少ない)」と自虐しておったけど、なに、日本最大の巨大組織がバックの潮出版社から出ていた雑誌(コミックトム)に連載され、その後は時代劇雑誌として50万部だったか?トップクラスの「乱」に移籍して、昭和平成令和の3元号にわたって描き続けた、手塚治虫文化賞受賞作品である。
目に見えるところで影響力はあまりにも大きく、そしてそれは「司馬遼太郎史観」「塩野七生史観」のように……「風雲児たち史観」も、客観的にはかなりの巨大勢力になっているということです。
それが生む弊害も司馬遼太郎史観と同じなわけで。
そこから等身大の松平定信をもう一度再構築しなければいけないところ。
それをフィクションたる「べらぼう」に依存するわけにもいかないが、ただきっかけとしては格好だと思う。
そこで自分も一般啓蒙書…具体的に言えば吉川弘文館と中公新書を読んで、そこでの知見をシェアしたいと思った、それが今回の記事。
江戸城内の権力闘争は暗闘に見えて、結構資料がたくさん残っている。
これがびっくりしたんだけど、誰が老中になるとか、誰が失脚するとかはものすごい暗闘があったんだろうけど「そんなもの調べようとしてもわかるわけがないんじゃんか…だから江戸城の権力闘争などというのは存在したとしても、細部はほとんどが想像、フィクションなんだろう」と思っていたのですが、これが案外資料の裏付けがあったんですよ。べらぼうも含めて…

なんだかんだと言って老中に推挙したい人間がまずその下の地位と言える「溜の間詰」に昇格するとか、そういうのはほとんど文書によって討議され、検討される。
それはすでに公文書だし、またそれを推薦するような、そういう私的な手紙も、だいたいは「えらい方から頂いた手紙」として残されているんだね。だから案外、トレースできるんだ。
松平定信が、まず出世コースである「溜の間詰」に昇格した時……「べらぼう」ではそこで既に、元気な”野党”として田沼と渡り合った描写があったけど、
すくなくともそこに就任するためには、内心はどうか知らぬが、田沼意次に対しても「銀の花活」に、梅の花を添えて
「いとと猶 あそふ小蝶も 行く末を たのむ木かけや 梅の下風」と、露骨に昇進を願うような歌を送ったのだそうだ(笑)

というか白河藩には、松平定信の幕政参加、出世を運動するための「田沼意次のもとに通ってロビイングを行う家臣」がいた。水野清左衛門というんだそうです。肩書は『権門法御内用勤め』。
ただ本人にとってはこういう工作も大事の前の小事…と、内心ではかなり怒りながらやっていた、というらしいが、どうなんかねえ。
ま、そんな形でなんとか国会での「議席」…幕府内の役職を得た後、ドラマに出てきた「ごまむすびの会(質素なおにぎりで会食する懇談会)」だったか、松平定信の質素倹約と、天明の大飢饉で死者を出さなかった白河藩の政策に共感する大名が集まって、自分たちの「党派」を結成するという話とか、いよいよ老中になろうとした時に「松平定信様は田安家から養子に入られたとはいえ、吉宗公のお孫様…将軍家につながるものはむしろ大老や老中にしてはいけないというのが決まりでござる」みたいな反対論、「大老になれないなら、年若い将軍様を補佐する後見役でどうか」みたいな駆け引きとか、その中での一橋治済の暗躍が…ほんとに記録として残ってるのよ。
また、法で定められてはいないのだろうけど「老中は御三家に頭を下げ、政策の承認を得なければならない」「だが逆に御三家からも賛同いただく、となれば、この上ない後ろ盾になり、その主張は通りやすい」「将軍は慣例的に口を出さないが、それでも最終的拒否権がある」といった機微も、やはり不文律としてあったようで、このへんが描かれたべらぼうには大いに啓蒙されたです。
定信の民政はどうだったか
これがいろいろ意見分かれるところだけど、
資料を読んで解釈する限り、おそらく田沼時代より「民の生活を『気にかけていた』」は間違いないんだと思う。天明の飢饉と、…飢饉は前例はあるが、それを契機にした江戸幕府的には前代未聞の「打ちこわし」を経験、それを契機に誕生した定信政権なのだから、そこを強化しないわけもないわけで。
都市を対象にした七分積み立て、全国的な『囲米』(倉庫へのコメ備蓄義務付け)とかも、負担の増える庶民というか有産階級の反発を受ける中でよくやったし、その結果として天保飢饉のときには、江戸で打ちこわしをほぼ無くしたほか、死者も少なかったとか。規模もそうだが、備えあればこその安心感=最後は蔵の積み立て、囲い米があるという安心感がパニックや暴動を防ぐと。

「人返し」も、当時…まだ冷害に強い米「農林1号」も生まれず、ハーバーが空気窒素固定を開発する前の前近代的な農業において「故郷では食えないと都市にやってきた人間を(半強制的に)田舎に戻し、農村人口を増やす」ことを実行すれば、食糧生産はそれは増えるだろうし、換金作物栽培に制限を加えて主食だけに権力の力で農業力を振り分ければ、これまた食糧は増えるだろう。その人個人の幸せや自由、社会全体の「経済」とは別に。
「餓死者を出さない、それこそ最優先だ」という思考において、そういう政策の有効性はやはり否定できない。
また一部にはグラミン銀行じゃないが「最低限の資金や土地農具の基本資本があれば、故郷に喜んで戻りたい。そのきっかけを得られて感謝感謝」という人もいただろううし。
「人別帳」でこういう管理はされていたが、田沼時代に至るまでは、それが「緩やか」だったわけ。その結果として無宿人とか、山伏、出家とか、あるいはただ「江戸をうろつく」者たちが増えた。それを定信は「厳格化」して、管理を厳しくした。
ただ「足で投票する」とも「都市の空気は自由にする」とも言われたように、人々が都市を目指し移住し、その都市が浪費や貧富の差や過密に伴い諸問題を抱えつつも文化経済の発展になる…、というのも歴史の法則で、ここを止めてイノベーションが止まったら、「最低限の生活ができて餓死者は減ったのだから大成功じゃないか」となるかどうか。
それは治安や農村の生産力向上を促したかもしれないが、「都市の活気」をへらすのも間違いない。
(そう言えば世界中の歴史のなかでこの「みんなが都市に来たがる」というのってどう管理されてたんだろう?厳しかったのか、緩かったのか 管理するにしてもどうやってたのか)
そもそも、お天気だよりの江戸期は、「豊作で余裕ができる」こともあるわけ(どうも定信執政期間は天祐か偶然か豊作が多かったようです)で、その時政策を緩めるか?といえばそうではなかった。
「べらぼう」で定信をいさめる老中の「民は正しく生きたいのではなく、楽しく暮らしたいのです!」は、ドラマで上のような問いを語る、良い台詞でした。
そうそう、今回のドラマは「田沼時代も定信時代も老中は一人ではない、協力者もライバルもいる」というあたりまえのことをあらためて思い出させてくれた(風雲児たちではこういう名前はほぼ省略である)。
定信チルドレンの「名代官」
松平定信の功のひとつが、彼の下では「名奉行」「名代官」が多数輩出された、という点らしい(藤田覚氏の著書より)。いま事績が残る「名代官」は寛政の時代に多いという。
・早川正紀 美作、武蔵国久世
・寺西封元 陸奥塙、桑折
・竹垣直音 下野真岡、常陸上郷
・山口高品 下野吹上
・岸本就実 下野藤岡
・羽倉秘救 九州の幕府領
・岡田恕(寛政の三博士のひとり岡田寒泉) 常陸
どの代官の「善政」にも共通点があるとして、中公新書「松平定信」で藤田氏は寺西代官の事績を紹介。まず、彼らは子殺し(間引き)を悪習として根絶しようとしていた。死産の場合、遺体を見分するなどの民衆監視のほか、特筆すべきは「出産、育児」に1,2両ほどの金銭と、極貧層には籾を支給する支援を行ったのだ。今と同じだなぁ。
また「荒地返し」、という、農地面積の復活を意図して村を出ていったものを呼び戻すほか、「入り百姓」として移民を促した。越後から家族ごと、或いは子供を養子として迎えたほか、軽罪のものを伝馬町から入植させたり、遊女を入植者の妻として迎えたりしたのだそうだ。
その資金として、まず原資を幕府から五千両ほど借り…それをそのまま使ってしまっては返せないから、これを貸付金として、年利一割で大名や富裕層に貸し付けて、その利子で上のような事業を行ったのだそうだ。
とくに、子どもを間引いてはいけない、は恐らく儒学思想が根底にあるのだろう。
民にできるかぎり介入しない、というやり方と、民に儒学に基づく真善美を実行させる、というやり方には…ことに前近代政治では一長一短はあるが『間引きを減らせ』は後者のような発想が無いと出てこないのではないか。
それはやはり「定信チルドレン」が儒教をベースにして政治を行ったから、ではなかろうか。
皇室と松平定信~とくに同時代の「プレイヤー」としての光格天皇。
べらぼうと風雲児たち、両方で描いたり描かれなかったりしたものに光格天皇の扱いがある。実はこの人が歴代天皇の中でも有数の英雄的思考の持ち主で…。
ある意味、尊王攘夷はこの人によって最初のスイッチが入ったと言っていいらしい。

その後の尊号問題に関わるのだが、天皇の地位を得るまでには紆余曲折があり、誰もが認める即位ではなかった。
それだけに「我こそは天皇なり」という意識があったこと、そして極めて深い学問的知識と教養があったため、『天皇らしく』ということを色々な言動で証明しようとした。京都の大火事によって御所が焼けて、松平定信がそれを再建したという話は風雲児たちにも出てくるが、この時、古式ゆかしくせよとあれこれ幕府に注文と要望をつけて、前の御所よりよっぽど立派なものになったという。

その時、ケチケチ財政の定信とは、まず最初のバトルがあったのだ。
(それでも、一部はその「古式」に興味があったのか他人任せにせず、定信自分が総指揮をとって、結局、予算規模の大きなその「古式にのっとった御所」が生まれたという。風雲児たちではそのへんを「浪費」的に描写しているが…)また天明の飢饉の時には、その「天皇らしく」という意識から幕府に対して「民の窮状を救うように」という勅を下した。
これにまあまあ幕府も好意的だった。しかし…
風雲児たち幕末編では、阿部正弘に孝明天皇が下した命令を歴史の転換点としていた。
「別に害のない、いわば理念法とかスローガンみたいな話だから、はい、わかりましたと言っておけばいい」と幕府は判断した。しかしそれが天皇の権威強化になった、と。
その構図はちょっと似ている。
松平定信も朱子学的尊王論を学んだインテリだから、むしろ権威としてありがたがるし、自分のやりたいことの妨げになるかもしれない将軍…それも浪費癖がある人間を「天皇の権威によって制限する」という目論見もあった、この話もべらぼうにちょっと出てきましたね、大政委任論。

だけどそれらがボディブローになって「将軍も天皇の臣下ではないか」という思想問題が生まれ、尊号一件となるわけですね。この事件の時に公家を幕府が処罰した時はそれを逆手に取り「武家も公家も天皇の臣下は同じ、そして我ら幕府は政治を『委任』されている。だから処罰可能なのじゃ」となったりと複雑なんだが。
ともあれ光格天皇はその死も「火葬」をやめ、それ以降がずっとムスリムのように?土葬になるなど、クセの強い、松平定信と五分にわたり合うつよつよ天皇でした、という点。
これもアップデートしたい知識。べらぼうにも「光格天皇」がちゃんと出てほしかった!出てたっけかな?
対外政策

ラクスマン来航と日本の防備強化…ここは風雲児たちがおそらく自分のドラマに合わせて定信像を切り取った一番大きな部分じゃないかと思います。それは大黒屋光太夫が、同作品では定信と五分の主役でありそちら側のドラマを描くためにも必要だったということもあるのだろうけど、ラクスマンをある程度「ぶらかし(曖昧な形で国交問題を保留する)」、長崎入港証でお茶を濁した、という流れは、その結果の評価はさておき(日露貿易に踏み切ってしまえばいいという意見も少なからずあった)、松平定信が意識的に主導し、自分たちではその”大成果”を誇っていたことも事実らしい。
また風雲児たちではドラマチックに「松平定信の伊豆や千葉の沿岸巡察は、ていのいい閑職に回されただけの、失脚劇の前触れであった」となっているのだけど、これはもうあえてのフィクションではなかろうか。少なくとも読んだ啓蒙書ではそういう構図でこの話を紹介した人はいなかった(どこかにその論者もいるんだろうか?)
というのは文字通り林子平の言うように「ロンドンから江戸まで境目なしの水路なり」だから、露のラクスマンたちがそもそも江戸を直撃するという可能性も定信は十分に認識していた(そして防備がほぼゼロでそれを見られたら激ヤバなことも)。

だから最初に防衛を強化するのは関東江戸周辺という考え方は普通ですし、松平定信もノリノリ。むしろ伊豆は見回ったけどまだ千葉方面が足りないと言ってそちらの施設を追加するぐらいだったし、たくさんの記録を残している、ぜんぶノリノリで。
また対外防衛強化についても、定信にはいろんなアイデアはあり……悪名高き「北海道は火よけの空き地」(タイロ防衛のためにむしろ北海道は未開拓のままにしておけという議論)にもコミットしてたけど、対外防衛に(当初から)危機感を持ち、それについての情報や技術に貪欲であったことも間違いない。
林子平の処罰はむしろ「俺もめちゃくちゃ気にしてること、その痛いところを突きやがってこの野郎」な意識の産物だったようです。

それが処罰理由なら、それはそれで器が小さい話、「倹約だから尻の穴も小さいのだろう」、というべらぼうにも出てきたセリフの通りなんだけど(笑)、風雲児たちで描かれた「松平定信は対外警戒心が全くなく、だから林平の言うことを理解できなかったから処罰した」ではなさそうなんだよね。
ただ後から…定信が隠居してから書かれたあれこれのエッセイは、ラクスマン事件という大変な衝撃を受けてから勉強した「後知恵」な部分もあるかもしれない。
蘭学への知識や興味もね。その辺は時系列の整理も必要かな(俺が)
定信は庶民文化や西洋文化(蘭学)をどう見ていたか。
そうそうそうそう、蘭学や外国知識技術に対する態度と、庶民文化や戯作、浮世絵、国学や陽明学などの「異学」に対する態度も風雲児たちで描かれた書き方は、意図的か無意識かは知らねどちょっと一面的であることは確実で、一方的な蔑視や軽視でなく、一言で言えばむしろ「愛憎」という言葉が一番ぴったりくるようだ。

興味津々だから、いちいち内容を気にする。
自分の気に入らない方向性の作品は糾弾する。オタクだからより介入したがる、ひとこと言いたがるって、あるあるじゃないですか(笑)
この話はべらぼうで詳しく描写されて、最終回でも老中を退いて白河藩に帰る松平定信が大量の本を蔦屋から買い込んで持ち帰り「隠居後の定信は立派なオタクになりました」とナレーションで言われちゃう(笑)。
前も書いたけど、松平定信は老中を退いた後の人生も長く、上記したように「エッセイ」もたくさん手掛けた(書名の一つが「宇下の人言」で、これは「定信」の字をばらしたというのだから、死ねを「タヒね」、とか書く人々の先駆けですな)
…など白河藩で多くの逸話を残している。ここに焦点を当てた、老中辞任後の彼も面白い話なのであります。誰かここを掘りさげる、「それからの定信」を描いていただく人がいることを期待します。
