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大山倍達はいかに参院選出馬を模索し、或る理由でそれが不可能だったか~(添野義二「極真鎮魂歌」)

泣いても笑っても本日が選挙戦最終日。すべての候補者の健闘を祈ります。


その一方で、参議院選挙に出たいと思いながら、諸般の事情で出馬がかなわない人もたくさんいる訳です。

その話をひとつ…

第七章「プロ空手」への渇望と挫折

一九七七年の暮れだったと思う。たしかこの年は、夏に参議院議員選挙が行なわれたはずだ。自民党が与党として十分な議席を確保したものの、野党第一党社会党もまた大きな勢力を維持していた。そして参院議員といえば、俗にいう「タレント議員」の宝庫である……当時の参院選には「全国区」という制度があり、簡単に言えば国民の人気投票感覚で政治家が選ばれた……現在でも「タレント議員」という言葉が生きているが、一九七〇年代は最盛期にあったといえる。
そんな時代の流れに乗ろうとしたのが大山館長だった。出馬すると言ったり、止めると言ったり.............どうやら今度は本気のように私には見えた…・・私は、芦原先輩にだけは内緒で教えた。芦原先輩は何の興味も示さず、ただぶっきらぼうに「立候補したら極真は潰れるけん」と言った。
(略)
「添野、私が国政に出るためにも頼みがある。君に政治団体を作って欲しいのよ。それをのちのち、政党にしてもいい。まずは私の応援団をね、極真会とは別組織として作ってほしいんた……私の応援団として政治団体を名乗ってくれればいいんだよ。人を集められるのは君しかいないんだから」……私は少年時代から漠然とではあるが「政治」という世界に興味を持っていた。
そんな経緯から、私は大山館長の命を受ける形で「私設応援団」を立ち上げた。組織の名称は、「義」を本義とするという意味で、また私の名前「義二」から取って「義」、そして極真会館の「真」、それを合わせて「義真同士会」……最盛期で約二百人が会員になった。大山館長の国政進出時の実働部隊であり、そのためにも私たちは森井義孝先生(添野道場理事長)……この「義真同士会」がのちのウィリー対猪木の試合や梶原先生の逮捕などに絡んで、警察や世間から誤解されることになる。


さて大山館長の政界進出だが、私は当然のように自民党からの出馬だと信じて疑わなかった。ところが、ある日館長はこんなことを言い出した。
共産党不破哲三)書記局長はすごく頭がいいんたよ。彼のような政治家とならばうまくやれるんたが・・・・・・」
(略)…また突然、「私は日比谷公会堂で非業の死を遂げた社会党浅沼稲次郎先生が好きたったのよ。人間機関車などと呼ばれて一生懸命、国民のために働いた政治家たからね。いまの社会党は分裂して大変たが、数年後は自民党を上回って与党になるかもしれないよ」と言ったり、挙げ句に「自民党みたいな完全な右派ではない、社会党共産党みたいな左翼じゃない、中道路線を進む民社党が本当の国民政党じゃないかね」などと言い出す……結局、大山館長に政治信条などというものは何もなかった。私もそうだが、子どもの頃に夢見た政治家への憧れが全てだった。それが私の結論だった。

大山館長はどうやら、一九八〇年に予定されている参議院議員選挙への出馬を目指しているようだった。そのためには二年しか猶予がない。総本部には自民党だか社会党だか分からないが、政治家の秘書みたいな人たちが頻繁に訪れるようになった。館長がいくら内密にことを運ぼうとしても当然、梶原先生や毛利先生の耳に入るのは時間の問題だった。

(略)
大山館長が出馬すれば、笹川良一全空連少林寺拳法などを総動員して妨害運動をするだろう。それは私が最も危惧するところだった。だが梶原先生は「問題はそれだけではない」と言った。
「柳川のオジキが来てはっきり言ったよ。アンタの半生はデタラメだらけだって。(略)本当は朝鮮生まれというのも知っていたが.....。何といっても、志願兵で特攻隊員だったという嘘はヤバいんだよ。特攻隊員の生き残りという嘘は命取りになるって柳川のオジキが言い始めると、やっと毛利先生もそうだそうだと言い出した。毛利先生も調子がいいよ、政治家はみんなそうだがな。どうやら大山先生は柳川のオジキの説得で怯んじまったようだよ」


梶原先生が話したように、柳川先生の言葉が館長の出馬意欲を完全に削いだ。結局、館長の命令で立ち上げた義真同士会は宙に浮いた形になってしまった。それよりも、私は梶原先生が語った大山館長の「真実」に大きな衝撃を受けた。腑抜けのようになり、一週間くらい立ち直れなかったことを覚えている。だからしばらくの間、総本部に顔を出すのを止めた。…(略)少なからぬ失望を大山館長に覚えたのは事実である。
こうして大山館長の参院選出馬の夢は断たれることになる。その理由のほとんどが、柳川先生の言葉のなかにあったのも間違いない。


この話、前回参院選の時に書こうとしてたが、急な事件で別のテーマに変更したんだっけ。
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この、添野義二氏の一人称での記述のあとに「解説」として小島氏が語っている。




小島氏解説

大山倍達が本気で政治家になりたがっていたのは間違いない。
・生前の大山は幾度となく、「私は本来、こんな空手家ではなく政治家になるのが夢だった」と語っていた。
・生前の大山はあるとき、怒りを露わに言った。「毛利先生には随分お世話になったが、先生が死んだ今も許せないことが二つだけある」(略)「一つ目は、全空連参加や日本武道館の使用問題について、何ひとつ汗を流してくれなかった。笹川の前では何も言えない頼りなさに、私は腹が立ってならなかった。そしてもう一つ、参議院議員選挙に出馬しようとする私の邪魔をした。わざわざ柳川の兄弟にまで告げ口して反対だと大騒ぎだったよ。私はすでに帰化していたよ、立派に日本人になっていた。韓国出身といっても私は大山倍達として日本武道に貢献してきた。それがハンデならば、そのハンデを庇うのが役目じゃないかね。自分の保身しか考えない毛利先生を私は憎いと思ったよ」

だが添野が言うように、大山の経歴問題がある

・特攻隊員でなかった程度のレベルではない
・公表されている生年月日が虚偽。東京生まれではなく、韓国全羅北道生まれ・
満州には行ったこともない。当然、チャクリキ(借力)なんていう拳法もなく、ないから学んだこともない。
・密航で下関に。
・戦時中は徴用により、千葉県にて軍用施設やトンネル掘削。戦後は民団(現・在日本大韓民国民団)の前身だった建青(朝鮮建国促進青年同盟)で館山の支部長を務めた。
・長期間の山籠りはした事実がない。極真会館の設立後に帰化したが、そのまま韓国籍を持ち続け二重国籍.。

・ほとんどウソだと知れたら大山が被るダメージは計り知れない。もちろん当選はおぼつかないだろう。
・それでも一九九〇年暮れ、大山が「私は最後、大内さん(当時の民社党党首)に賭けることにしたよ。政治家への夢をね」と語るなど、政治家への夢は絶たれなかった。

極真鎮魂歌


ただ。過去記事につけた注釈の抜粋

・そもそも、同書と同書の著者の格闘技の歴史は、さまざまな論者からこれまた「それは違う」「事実に反する」とクレームや批判を受けることがある(たとえば吉田豪氏は、その強烈な批判者のひとりである)。
 
・その場その場の、印象的な場面での発言が、ちょっと乱れが無さ過ぎる。あまりにも整いすぎている(つまり、そのまま「生の発言通り」と考えるのはやや不自然…と個人的には感じる。)



大山倍達の特攻隊詐称問題は,たぶん当ブログのこの記事もそれなりに詳しいと思う。

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ただネット上には在野の極真研究家がたくさんいて、そういうところにはもっとめちゃくちゃ詳しい資料もあるはずだ・・・・・


なんにせよ、自分に責任があるとはいえ、こうやって参院選に出たくても出られなかった人がいる。
その人のぶんまで、全力で・・・・・




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