たまたま、SNSを眺めているときに上記のnote記事が目に入った。 電車内で移動中だったこともあり、「そういえばパクリとオマージュの定義としての違いは知らんな。この人はどう結論付けたんだろう?」と気になって読んでみたが思った以上に楽しめたので感想を書き残しておく。
ことの発端とか大枠の感想
note記事をまずは読んでほしいのだけど、概要としては「とあるHIPHOP歌手が他の歌手を名指しでパクリであると批判した」ことに起因する。 記事内ではそこから丁寧にどういうところがパクリに該当するか?などが解説されているがここでは割愛する。 そこから「パクリ」とはこのような状態ではないか、「オマージュ」とはこのような状態を指すのではないかという筆者の見解がわかりやすく述べられている。 そして、ここまでが前提、前座の話であり「ではオリジナルとはどのような状態か?」という問いに入っている。この文章がまた興味深い。
文中でも書かれているが
「オマージュはいいけどパクリはダメ」だとか「リスペクトがあればOK」みたいな話はよく言われる。相手とその作品に対して敬意があればいい。それが感じられないものは模倣や盗用だ、と。でも、その「リスペクト」って何?という話。それってどう判断するの? どこにその境界線があるの?という話。
とある。これは多分に感覚的なものだと思うし、ぼくも正直なところかなり難しいと思っている。 「明らかに駄目だろ!」みたいなケースもあるけれど、「表面的には似ているが本質は異なるのでオマージュでは?」のようなケースもある。法律的にはこのあたりは弁理士などの仕事になるのだと思うがともかく素人目にはこの差異を明確に言語化するのは難しいと感じている。
記事内ではとある作家の例を元に「オリジナル」とは
それは「ルールとトーンが自分のものであるかどうか」ということ。
ではないかと結論付けている。 文化というものが先人のリファレンスを参照して、時に模倣し、影響しあい、逸脱することを指すのだとすると「模倣する」こと自体に善悪はないということになる。 (少なくとも「パクリ」でも「オマージュ」でも模倣そのものを否定する文脈はないと受け取っている)
オリジナリティーとは極論、自分にしかできないこと、自分だからこそ表現できることを指すのではなかろうか。 もちろん、表面的に似ることはあり得ると思う。 「ビートルズ風の曲調の楽曲を作ることはできるが、ビートルズがかつて起こしたようなムーブメントを作ることはできない(あるいは難しい)」みたいなことがいわゆる「オリジナル」なのではないか?と読んでいた感じた。
文化というものが「なにか」を参照して出来上がるものであるならば、他者を参照しアイデンティティである「オリジナル」まで模倣してしまえばそれは「パクリ」、そうではなく文中に会ったように「モチーフやスタイルの参照」である(つまりオリジナリティーを介在させる余地があるかどうか)場合は「オマージュ」ということなのかもしれない……というようなことを考えていた。
リスペクトを払うとはどういうことか?
大枠の感想は前述したわけだけど、個人的に一番琴線に触れたのは以下の文章。
「リスペクトを払う」というのは、すなわち「ヒップホップのカルチャーとコミュニティに還元する」ということになるだろう。
まだ自分の中でもうまく言語化できていないのだが、テック系企業が昨今スポンサーすることが増えてきており、自身が所属するマネーフォワードでもそれは同じことなのだがなんだかうまく言語化できないモヤモヤを抱えていた。 確かにスポンサーすることはコミュニティーへの還元なのかもしれないが、コミュニティーへの還元になっているのか?というところに違和感を感じていたのかもしれない。 この記事を読んだときに「スポンサーすること(お金を出すこと)」は模倣が容易な行為だと言い換えることができるのではないか?と思った。
一方で、「カンファレンスやイベントを主催する(あるいは運営に関わる)」、「登壇者として発表する」といったことは模倣することはできるが、前述されたルールやスタイルに依存するため模倣が容易ではないのではないかと考えていた。 もちろん、自身の意思ではなく会社からお仕事としてやっている場合は除くし、スポンサーになることで登壇する権利が発生した場合も除く。(それが悪いってわけでは当然ない。自発的であるかどうかということがここでは焦点といいたいだけ)
そうすると「何に自分がモヤモヤしているか?」と問い直してみたところ、アイデンティティーとしての強み、発信がない(あるいは弱い)ことに対して忸怩たる思いのようなものを感じているんだろうなということがわかった。 これは「そうあるべき」という話ではなく、自分のアイデンティティやオリジナルがそこに強く依存しているため、現状に満足できていないことでモヤモヤしているのだと自覚したという話し。
全く異なる話から自分がモヤモヤしていたことが綺麗に言語化されたような気持ちになったのでとても気持ちがよかった。
文化にキャリアの相関性をみた
基本的にぼくはあまり他人のキャリア論に興味がない。だって自分が同じことをしても同じ結果を得られるとはとても思えないし。 一方で、ちょうど来週開催予定の「きのこカンファレンス in 関西」のようなイベントを主催もしている。
これ、ちょっと自分の中でも不思議だな〜と思っていたのだけど記事内の以下の文章を読んで「もしかすると、こういうことかも」という気づきを得た。
そもそも、すべての創作や表現は大きく言ってしまえば先行する何らかの作品や作家の影響を受けているものである。文化というのは本質的にそういう営みの中で生まれてくるもののことを言う。
つまり、何らかの先行作品をリファレンスする、モチーフを参照して取り入れるという行為自体を「パクリ」として封印してしまうと、そもそもクリエイティブ自体が成立しなくなる、ということになる。
ここでは「文化」の話、なのだけどこれを「キャリア」に変えても通用するのではないかなと思った。 つまり、先人たちの善き行い、悪い行い…そういったものをぼくたちは意識的、あるいは無意識的に参照しており、その上で自分の中に取り込むか否かを判断している。 そういったふるまいを重ねていくうちに「これが自分のキャリアだ」と言えるものが生まれたり、生まれていたことに気づいたりするんじゃなかろうか。
ぼくはイベント後の懇親会であった人たちのこれまでの話を聞くことが好きなのだけど、それは多分その人を通して「歴史」を感じているからかもしれない。 元々歴史学科出身(ただし大学は中退しているので最終学歴ではない)だったので、そういったバタフライエフェクト的な話しが好きなんだと思う。 誰かが起こしたなにかでXXXが生まれたとかこのときの社会情勢がXXXだったからソフトウェアエンジニアの道を目指した(あるいは当時は違う仕事をしていた)、そこから紆余曲折あり今の仕事にたどり着いた……みたいなそういうストーリーが面白いんですよね。 これまさに記事内にあった「文化」と同じじゃないかなと思っています。
文化もキャリアもモザイク画のようなもの
実は先日デブサミ関西 2025のプロポーザルを提出した。 残念ながら(?)プロポーザルは不採択になったのだけど、そのプロポーザルでは「キャリアはモザイク画のようなものである」という主張を盛り込んでいた。 大本の気づきの起点は「王様の仕立て屋~サルト・フィニート~」という漫画に「夢が破れても、その欠片でモザイクを作ればいい(うろ覚え)」のようなセリフ。 ぼくはこのシーンが大変好きなのだけど、1度の失敗や挫折、あるいは転身を持って敗北とするのはシンプルだけどもったいないと思っていた。
自分自身で考えてみても10年近くソフトウェアエンジニア・プログラマーとして働いていたのに、急に技術広報になったり、はたまた技術広報を辞めてプロジェクトマネージャーに転身したりとまあ一貫性がない。 あとしょっちゅう転職していたジョブホッパーだったし。
キャリアとしての一貫性や戦略性はないかもしれないが、ぼくの中では行動や方針の矛盾はしておらず、「自身がそのとき重要だと思った選択を選んでいる」と思っている。ただ外野からみたときにどう映るか?と言われると一貫性や戦略性はないよなぁ……と自分自身でも思っている。
話がだんだん逸れてきた。
ともあれ、有形無形のなにかを我々は日々摂取しており、それが自分自身のキャリアであったり、考え方・感じ方に少しずつ影響を及ぼしているのではないか?とこの記事を読みながら、頭の端っこの方で考えていた。
実際にどうなのかわからないけど、最近世代を問わず、タイパやコスパのようなものを絶対視しすぎているように感じている。 最短距離ではあるかもしれないけどその道は自分の人生にとって最大効果を生み出しているのか?というモヤモヤというか葛藤というか屈託があったのだけど、結果にこだわりすぎず自身が求めるところを目指して寄り道してみてもいいんじゃないかなと改めて思った。 現代日本は高齢者社会なので、まだまだ先があると思った時に短期的な効率だけをみていると、なにか自分にとって大事なものを取りこぼしてしまいそうだなと思っていたので「寄り道することの大事さ」のようなものを援護射撃してもらえたような気持ちになって読んでいた(筆者がそれを意図したわけではなく、勝手に自己解釈としてそう感じたという話です)。
終わりに
「文化」とか「パクリ」「オマージュ」など、こういった概念としては知っているがうまく他人に説明できないものをシュッと自分なりの考えを整理しながら理路整然と語られているのは単純にカッコいいなぁと思う。 ぼくはクソ駄文で長文書き太郎なので、こういった書き味は出すことができないし、でもそれこそがぼくの「オリジナル」なのかもしれないなぁと思いながら、この感想を書いています。
楽しいこと、面白いことは無限にあるので、やはり我々に足りないのは時間。 時間とお金があれば大抵のことはできる。お金と時間が無限に欲しい。