映画『災 劇場版』の感想です。
ネタバレありです。未見の人は気をつけてください。

作品情報
- 制作国:日本
- ジャンル:ホラー
- 上映時間:128分
- 公開日:2026年2月20日
- 監督:関友太郎、平瀬謙太朗
- 脚本:加藤拓也、近藤啓太朗
- 配給:ビターズ・エンド
- 主要キャスト:香川照之、中村アン、竹原ピストル、宮近海斗、中島セナ、松田龍平、内田慈、藤原季節、じろう、坂井真紀、安達祐実、井之脇海
感想
①フェイクドキュメンタリーブームとの相性
まず、最近のフェイクドキュメンタリーブームと相性が良い作品だと思った。本作は、物語として明確な答えを出さない。にもかかわらず、テーマそのものが分かりにくいわけではなく、「理不尽な死」というシンプルな怖さと不気味さだけは残していく。
『TXQ FICTION』をはじめ昨今流行っているフェイクドキュメンタリーホラーでは、提示される情報が断片的で、視聴者が自分で空白を埋めざるを得なく、断定できない材料が積み重なるほど、「本当はこういうことでは?」と線を引きたくなる。確証がないのに、筋道だけは作れてしまう。その状態の気持ち悪さが、自分も作品に参加したような気持ちになりウケているのかなと思う。
『災』も同じ構造で、観客に“線を引かせる”作りをしている。説明不足で放り投げるのではなく、むしろ「説明できる形にしたい」という欲望のほうを刺激してくる。結果として、観客は「答えが欲しい」より先に「答えがあることにしたい」に引っ張られていく。この鑑賞体験の作り方が、いまの流行と噛み合っていると思った。
②「意味づけしたい」という性質がサスペンスになる
「理不尽な死」というテーマに際して、最近だと『THE MONKEY/ザ・モンキー』が近い話だった。
同作では、死を呼び込む猿のおもちゃを通して「人はいつ死ぬかわからない」というメメント・モリ的なメッセージを描いていた。
「みんないつかは死ぬ」「人生は有限」という真実を、真正面から突きつけると重くなりすぎる。だから“おかしさ”をまぶしてでも飲み込ませる。“人はいずれ死ぬ”という当たり前の事実が、とんでもなく不条理でもあるからこそ、重苦しくするより「とことんおかしく」描いてやろうと思った、という意図が語られている。
一方で、『災』は同じ「理不尽な死」を描いているが、アプローチが違う。
『ザ・モンキー』が「死という不条理」をポップに誇張して飲み込ませる方向だとしたら、『災』は「理不尽な死」を、もっと生活の側に置いたまま残していく。答えを出さないからこそ、観客は“意味”を欲しがる。自然の摂理による死であっても、人はそこに理由を見出したくなる。その性質自体がサスペンスとして機能している。
だからこの映画は、「何が起きているのか」を追うのと同時に、「意味があることにしたい」という衝動を上手く突いていて良かった。
③群像劇と捜査パートが「線」を引かせる
また、作品の構成が群像劇であることが「意味があることにしたい」という衝動を強くしていたと思う。『災』は、別々の場所で別々の生活をしている人たちのエピソードを並べることで、観客に「共通点」を探させる構造になっている。
無関心な親の下で悩む受験生。飲酒事故で家庭が崩れた男性。独り身で清掃員のパートをする中年女性。親の負債を継ぎ、妻とも別れて大麻に手を出す旅館経営者。
彼らは同じ出来事を経験しているわけじゃないし、人生が交差するわけでもない。なのに、同じ時期に、同じ種類の“嫌な気配”がそれぞれの生活に混ざっていく。
それが香川照之の存在なんだけど、ここで観客はどうしても「これは偶然か?」「何か繋がっているのでは?」と考えたくなる。
死の見せ方も一様ではなく、因果応報に見える死もあれば、あまりに理不尽で憤りを覚える死もある。また、必ずしも「関わった本人」が死ぬわけじゃなく、そこに秩序はない。だからこそ、筋道を立てたくなるし、説明できる形にしたくなる。
ここに捜査パートが入ることで、作品は「観客が勝手に考察して終わり」にならない。堂本刑事(中村アン)と同僚刑事(竹原ピストル)のやり取りは、どこか『羊たちの沈黙』っぽいバディ感があって良い。
ここで映画的な面白さも生まれるし、観客の代弁者としても機能して、画面に“現実側の手触り”を残している。
また、「死には意味がある(はずだ)」という姿勢で追いかける人間が物語の中にいることで、全体感が心霊に寄り過ぎないのが良かった。
④堂本の価値観に立ち返る:孤独と水、そして“男”の正体が揺れる
堂本は「死には意味がある」という前提で動いており、事故や自殺として処理されていく出来事に対して、それで終わりにしたくない。線を引きたい。理由を見つけたい。結局、人は意味を欲しがる。意味がないままにしておけないという堂本の執着は、そのまま観客の視線の代行になっている。
各エピソードに共通しているのは、孤独だと思う。家庭の中の孤独、社会の中の孤独、責任の中の孤独。誰かに理解される手前で止まっている感じがあって、だからこそ「自分の人生は自分で回収しなきゃいけない」という圧が強い。そういう人たちのところに、同じ時期に、同じ“気配”が混ざっていく。ここがただの偶然ではない気がしてしまうのは、孤独が「説明」を呼び込むからだと思う。人は孤独になるほど、出来事の意味を必要とする。
そこに「水」のモチーフが重なるのが良い。制御できないもの、境界が曖昧になるもの、日常に当たり前にあるのに一度崩れると手に負えないもの。水は、理屈で説明しきれない不穏を増幅させる役割を担っていると思う。結果として、この映画の怖さは「何者かが襲ってくる」より、「日常がじわじわ侵食される」側に寄っていく。
だから香川照之の“男”も、見る側の認識が揺れる。死神のようにも見えるし、シリアルキラーのようにも見える。どちらとも言い切れない。「超常」に逃げきれないし、「犯罪」に回収しきれないという両方の可能性が同時に生きてしまう。
ただ一方で、髪の毛が家にオブジェのように飾ってあるカットは、個人的にはいらなかった。監督インタビューでは、あのカットがあるからこそ“男”の存在が超常的なものなのかシリアルキラーなのか曖昧になる、という趣旨の話があったけれど、自分は堂本の同僚刑事(竹原ピストル)が死ぬ場面で、その曖昧さは十分に伝わると思った。
なぜなら、あの死は他の被害者とは状況が少し異なるからだ。群像の中で起きる死が「生活の延長で混ざってくる不条理」だとしたら、同僚刑事の死は捜査パートの中で起きるぶん、より「人為」を疑わせる距離感がある。しかも堂本のすぐ近くで起きるから、意味づけの欲望がいちばん濃い状態で露出する。ここで“男”が死神でもシリアルキラーでもあり得る、という揺れは成立する。だから髪のオブジェは、曖昧さを増やすというより、むしろシリアルキラー側に寄せすぎてしまって、「理由のつかない理不尽な死」というテーマの芯を少しブレさせる可能性があると思った。ここは好みの問題だけど、自分はそう感じた。
⑤まとめ
ここまで書いた通り、『災 劇場版』は構造自体はシンプルで分かりやすい。群像劇を並べ、捜査パートで「線」を引こうとし、しかし最後まで明確な答えは出さない。やっていることは一見ミニマルなのに、観客側の「意味づけしたい」という欲望を起動させる設計になっているのがチャレンジングで面白かった。
自分が観た映画館もずっと満席で、この公開規模にしてはかなりヒットしていると思う。
香川照之に対しては思うところもあり、複雑な気持ちはあるけれど、作品自体は面白かった。
......、あの男が本当に何も知らなくて、勤め先で毎回人が死んでしまう情けない金田一少年みたいな感じだったら可哀想だよね。不思議。