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友人と話す

自分のために生きることのできる人間は――たしかにそんなことができるのは芸術家であり、ずいぶん前から私はけっして芸術家にはなれないと確信していた――、そうする義務がある。ところが友情なるものは、自分のために生きる人間にこの義務を免除するものであり、自己を放棄することにほかならない。会話そのものも、友情の表現様式である以上、浅薄なたわごとであり、なんら獲得するに値するものをもたらしてくれない。生涯のあいだしゃべりつづけても一刻の空虚を無限にくり返すほかなにも言えないのにたいして、芸術創造という孤独な仕事における思考の歩みは深く掘りさげる方向にはたらく。たしかに苦労は多いけれど、それだけが真実の成果を得るためにわれわれが歩みを進めることのできる、唯一の閉ざされていない方向なのである。おまけに友情は、会話と同じでなんら効能がないばかりか、致命的な誤りまでひきおこす。というのも、われわれのなかで自己発展の法則が純粋に内的であるような人は、友人のそばにいると心の奥底へと発見の旅をつづける代わりに自己の表層にとどまって退屈を感じないではいられないものだが、ひとりになるとかえって友情ゆえにその退屈な印象を訂正する仕儀となり、友人が掛けてくれたことばを想い出しては感動し、そのことばを貴重な寄与と考えてしまうからである。ところが人間というものは、外からさまざまな石をつけ加えてつくる建物ではなく、自分自身の樹液で幹や茎につぎつぎと節をつくり、そこから上層に葉叢を伸ばしてゆく樹木のような存在である。私が自分自身を偽り、実際に正真正銘の成長をとげて自分が幸せになる発展を中断してしまうのは、サン=ルーのように親切で頭のいい引っ張りだこの人物から愛され賞讃されたというので嬉しくなり、自身の内部の不分明な印象を解明するという本来の義務のために知性を働かせるのではなく、その知性を友人のことばの解明に動員してしまうときである。そんなときの私は、友のことばを自分自身にくり返し言うことによって――正確に言うなら、自分の内に生きてはいるが自分とはべつの存在、考えるという重荷をつねに委託して安心できるその存在に、私に向けて友のことばをくり返し言わせることによって――、わが友にある美点を見出そうと努めていた。その美点は、私が真にひとりで黙って追い求める美点とは異なり、ロベールや私自身や私の人生にいっそうの価値を付与してくれる美点である。そんなふうに友人が感じさせてくれる美点に浸ると、私は甘やかされてぬくぬくと孤独から守られ、友人のためなら自分自身をも犠牲にしたいという気高い心をいだくように見えるが、じつのところ自己の理想を実現することなど不可能になるのだ。娘たちのそばにいると、それとは正反対で、私の味わう歓びは、利己的なものとはいえ少なくとも欺瞞から生じたものではなかった。欺瞞というのは、われわれ人間は救いようもなく孤独であるのにそうではないと信じこませたり、ほかの人と話しているとき、話している主体はもはや他人とは画然と区別されるわれわれ自身ではなく、他人に似せてつくられたわれわれ自身であるのに、この事実を認めるのを妨げたりするからである。
プルースト、吉川一義[著]『失われた時を求めて』④、563-5頁)

非常に身に覚えがあるなあという気持ちと、そう考えたくない気持ちがある……。

内省だけを続けていくと結局いきづまってしまうし、そこを抜けさせてくれるのって自分以外のひとの言葉(書かれた言葉も、生きた友人の言葉も)だけだと思うんだけど、それすら「友人が掛けてくれたことばを想い出しては感動し、そのことばを貴重な寄与と考えてしま」っているだけかも……と思いそうにもなり。

危ない気分が近づいていると知っているのに何もしないでいるような感じ。外へ飛び出して、人々と言葉をかわしなさい。閉じ込められて妙な気持ちになってきたら。でも、閉じ込められていたいの。それが一番幸せ。ホテルの一室でもいい。列車のコンパートメントでもいい、トンネルの中でもいい。閉じ込められていたいの。外へ出なさい。外へ出て、刷りたての新聞のようなにおいのする言葉を人々と交わしなさい。
多和田葉子「ゴットハルト鉄道」、講談社文芸文庫、2005、33頁)

bookclub.kodansha.co.jp

でも、そんなふうにまわりのひとの言葉を言葉として受け止める努力をしなかったら、どうやって人間として生きていけるんですか?(そこが芸術家と凡俗の違いだとプルーストなら言うかもしれないけど、100年以上前の芸術家像を無批判に参照することはできませんよ)

望月淳『PandoraHearts』の「自分のためだけに生きていける程 人は強くないって オレは思うよ」(⑧、2009、88頁)という言葉のことを15年ずっと考えている。

 

こういう変なことは、ベルクさんには言いたくない。でもつい言ってしまった。理解されないだろうことでも口にするのは、相手を信頼している印。ベルクさんも、わたしを信頼して、わたしにはちんぷんかんぷんのことをいろいろ話してくれるのだから。
多和田葉子「ゴットハルト鉄道」、講談社文芸文庫、2005、17-18頁)

 

先日観た『クレオの夏休み』はむしろ、人間にあるのはそれぞれの人生=孤独だけだという、それはそれで現実なのだと思うけど。

fedibird.com

transformer.co.jp

 

わたしは、降りるのは諦めた。ゲッシェネンという土地の何かに魅惑されたから降りたいのだと、ベルクさんには言う勇気がなかった。わたしたちを結び付けていた言葉が、闇を前にして消えてしまった。
〔中略〕
 わたし、ゲッシェネンにもどります。正直にそう言うと、ベルクさんの瞳に切り傷が現われた。ライナーの瞳にもいつも現われるあの切り傷だ。心をナイフにしてでも、言わなければならないことがある。そう思って言ってしまうと、相手の瞳にこの傷が現われる。コモへ行くと嘘を言って、コモへ行く列車に乗って、窓から楽しそうに手を振って、次の駅でこっそり降りて、逆方向の列車にこっそり乗り込むことだってできたはず。ベルクさんに余計な心配をかけないようにそうした方がよかったかもしれない。コモならば誰もが行きたがる美しい町だから。でも、どうして、わたしだけが、そんな風に嘘をつき続けなければいけないの。嘘は仕事だけでたくさん。わたし、ゲッシェネンへ行きます。スイスで一番醜い町に。みんなが醜いというレッテルを貼っても、わたしには醜いとは思えない。さようなら。これは、ライナーに向かって、わたしワインなんて飲みたくない、イタリアへなんか行きたくない、と言ったのと同じくらい残酷な行為だったかもしれない。
多和田葉子「ゴットハルト鉄道」、講談社文芸文庫、2005、27-9頁)

 

(全然関係ないけど言葉のはなしついで)山種美術館の特別展「没後25年記念 東山魁夷と日本の夏」に行ってきました。

東山魁夷の絵が好きなんだけど、作品の(たぶん)ぜんぶにご本人のコメントがキャプションで付されていて……最初の何点かはうっかり読んでしまったけど、途中から意識して読まないようにしていた。太い拙い輪郭線を引いて、絵の趣きを死なせてしまっているようで。

生きているうちに売れっ子画家になってしまうと、それが仕事じゃないはずなのに言語化を求められてたいへんだなー(わたしが知らないだけで、もしかしたら本人がそうしたかったのかもしれないけど)。

 

www.yamatane-museum.jp

 




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