日本社会党の党規約が改正され事実上、社会民主主義政党として誕生したのは1990年4月の第55回党大会でした。少なくとも党の現実主義化は規約の面で行われましたが、安保政策では自衛隊を当面認めるグループと憲法違反とするグループが拮抗しており、当時の委員長は右派に推薦された土井たか子委員長でしたが、彼女は前職は憲法を専攻していた研究者。現実主義というものは、本当に現実的なのか色々問われる問題です。安全保障の面では、社会党自体も保留という判断をしました。ただこの時代は、冷戦も終結しソ連の崩壊も現実味を増す中で、日本社会党は旧来の派閥抗争はむしろ燃え上がってしまいました。土井退陣後の社会党委員長選において右派や労組から支援を受けた田邊誠が勝ちましたが、ほとんど中央の派閥から支援がなかった上田哲が4割以上の得票を得る大善戦。これは右派が非常に地方の活動家に対して面倒見が悪く、社会主義協会はじめとした左派の方がよほど親身だったという事もあります。現実主義者は理念だけが現実的でも、実際にその方法論が全く現実に即していないと、机上の空論になってしまう典型例です。100万人党員構想というものが社会党にはありましたが、やたらと入党の間口を狭めてしまう地方活動家とプラスして労組も社会党の地域浸透を遅らせる結果になりました。この辺りは、ある意味後継的立ち位置の民主党も同じ事を言えます。
国政では社会党政権が生まれない代わりに地方では革新自治体が次々誕生し、「政権」運営の実績はあるはずでしたが後に飛鳥田一雄が述懐しているように横浜市長の時と、日本社会党委員長の時では格段と後者の方がトップの権限がないというものがありました。究極の党内民主主義と言えば、良くも聞こえますが単純な事も一つ一つ保留ばかり繰り返しているのは、それもそれで大問題です。ただ90年代はようやく社会民主主義を目指す方向性に落ち着いたため、やり方次第では社会党の巻き返しは可能だったとは思います。ただ実際に社会党の党財政はパンク寸前で割高な党費を支払う活動家的な党員がいなくなれば破産という構造上の問題もありました。そもそも日本に限らず世界の社会民主主義政党は90年代以前はほとんど全く経済界からの献金は諦めないといけないものでした。良く総評依存の社会党と言われましたが、組織内の政治活動は支えても党財政まで支えようとする粋な産別は存在せず、そういう意味では連合と民主党の関係もそうしたドライな部分は若干あります。社会党にとって総評よりも地方組織であった県評や地区労の方がよほど財政的にも組織的にも、そして運動的にも人手も資金を提供する良好な関係でした。そういう意味で言えば、生活全部を社会党に捧げる事はできないができる範囲で支援したいという党員の獲得は、どこまで現実論に沿っていたのか?民主党を見ていると少しだけ思います。社会党に比べると民主党は非常に党員になりやすい政党です。ただいざ選挙になると民主党という政党は数も形も存在せず、熱心な人がいるとしてもサポーターというケースもあります。間違いなく労組から党員になる人はかつての社会党や民社党に比べると少ないのですが、一体どこにいるのか皆目見当もつかないです。
理念だけ現実主義になったとしても党内の構造上、社会民主主義政党として運営する事はできない。この辺りは社会民主主義政党ではない立憲民主党、国民民主党の共通点でもあります。鳩山由紀夫が主導したリベラル新党構想は社会党の大衆組織政党から市民ネットワーク政党に転換する時期でした。ただ結果として民主党は「自民党化」し、地方組織はあくまで党の下部組織でした。分裂した社会民主党の方が、当初の目標としては不十分でありながらも市民ネットワーク政党を意識した政党を初期は目指していました。実際社会党末期の議論において、自民党は保守地盤に強みを発揮し、企業や団体を囲いこんでいると評価もしながら、自民党の方が大衆政党であるという総評になりました。その政権構想としては、社会党を中心とした社会民主主義勢力とその他リベラル新党との連立政権を目指すといわゆる「社民リベラル政権論」はここから始まりました。社会党92年運動方針です。ここから30年以上の月日が経ち社民リベラルはいつのまにか「民主リベラル政権論」になり肝心の社会民主主義が抜け落ちてしまいました。社会民主主義の再建はかつての「社民リベラル政権論」では不十分でしょう。こうした時代において、社会民主主義勢力が最大限活かされた「新人民戦線政権論」が待ち望まれています。(続)