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1989年 連合参議院の成功と大いなる挫折

 ※日本労働組合総連合会結成当時、政治運動については今後も今まで通りに選挙運動を通じた活動をするのか、政策決定に力を振るうべきなのか、また別の路線を歩むのか?携わった人に言わせてみると様々な意見があったそうです。ただ89年参院選があまりにうまく行きすぎて、労組の選挙運動、政治運動がかえって固定化され、影響力が発揮できていないという声は内外にも上がります。ここでは連合参議院の興亡を見て、次世代に活かせるかどうか検討材料になればいいと思います。

 

 1989年日本労働組合総連合会が労戦統一の末、結成。様々な原因がありますがその一つに「社会民主主義勢力を結集させ、2大政党制を定着させる」事にありました。当時労組が支援していた一部議員にリクルート事件に関与した議員は自民党ほど大物がいないが日本社会党民社党(2人)、公明党などほぼ全党に灰色代議士が存在し、議員辞職や役職辞任に追い込まれています。当時はスキャンダルが横行し、矢野絢也公明党委員長の明電工スキャンダル、社会党上野建一代議士もゴルフ場開設会社から不適切な金銭授受があったとして、まるでバブルらしい政治とカネの問題を与野党ともに受けていました。数は少ないとは言え野党側も政治資金の問題は、当時かなり追及されこれが後に政権交代期待票が93年に社会党から日本新党などに流れた結果となったようにも思えます。

 

 1989年参院選において有名なのは日本社会党土井たか子委員長の「山が動いた」という名言ですが、この当時の大いなる争点となったのは、やはり消費税であり政治改革や政治とカネの問題は2番手、3番手であり個人的に消費税の是非を巡って争われた国政選挙はこれが最初で最後だと思います。消費税廃止は物品税の復活であり、そうしたものは最早非効率極まりないです。安定した財源を確保できる消費税は社会保障や福祉の大切な財源であり、一部リベラル派と呼ばれている人も減税を言い出しますが仮に財源に穴が空いたら公債で補填でしょうか?こうした意見はもはや89年で終わっているものだと考えます。

 

 当時の政党支持率自民党が37%、社会党が17%ほど、公明党が5% 民社党が4%共産党が2%と仮に野党一本化がなされても、自民党の分厚い支持率にはほど届かず89年参院選はやはり潜在的な反政権票、「無党派」票が勝負を大きく分けました。いわゆる支持なし層では自民党が勝利した86年選挙では自民得票が2割を超えています。ただ半分が棄権票です。89選挙では社会党が支持なし層で4割を獲得し、棄権票も35%と大幅に支持なし層を社会党が吸収しました。当時、普段は自民党の票田である地方の農村、漁村地帯も女性を中心に土井たか子ファンとも呼べる強力な無党派層があり、労組の組合員ばかりだった日本社会党員に女性の入党者が急増。さながら新規に入った女性党員たちは、社会党員というより「土井たか子後援会」でした。

 

 ただ長年、旧江田三郎派を核とした右派と社会主義協会などを基盤とした左派の対立は党の体力を大幅に奪ってしまい、また少なくとも地方区の中でも1人区は民社党公明党社民連と統一候補の必要性がありました。社会党民社党の対立は当時近親憎悪のような関係で本来なら社会党に一本化する事は望ましいですが、簡単ではなくそして事実上野党第二党の公明党の発言権は当時野党内では相当高いものでした。当時となっては、想像もつかない人も多いですがこの時期にチェルノブイリ事故が発生。原発問題で1番の規制派は創価学会婦人部や青年部を抱える公明党であり、社会党に関して言えば少数ながら容認派もいて党の多数派は反原発でしたが、そもそも社会主義政党で戦後の工業化に対してイデオロギー的に肯定であり、原発についても反対だがマルクス・レーニン主義的な価値観に基づいても慎重論にはなるが、公明党ほど反対はしないという態度でした。ただ社会党のこのある意味超然的な姿勢が、緑の党のようなニューポリティクス政党の結成、成長が削がれてしまったという指摘は意外に上がっています。

 

 総評、同盟、中連という今まで別々の選挙運動をやっていた参議院議員選挙を今度は統一選対を作り、市民団体や創価学会を含めた宗教団体と連携しながら、闘っていくというスタイルは今までの政党間のギクシャクをとりあえず先送りにして、ナショナルセンター連合が「連合の会」という事実上の無所属候補に一本化し、保守に対抗する。この手の事は現在でも引き継がれている部分は大いにあります。基本的に「連合の会」候補は社会党系と民社党系と二分し、調整が失敗した(社会党が対抗馬擁立)岡山は敗北しましたが、後の11候補者は全勝。社会党民社党と候補者は分かれていましたが社公民連の野党共闘論を進めたい連合側として同一会派で行動する事になりました。

 

 これで連合を中心に「社民勢力の接着」が達成できるまで、後数歩という形まできましたが、まず社会党統一地方選の不信を理由に土井たか子委員長は辞任します。土井委員長が選んだ新人候補は労組出身者ばかりで構成されていた社会党を変えるもので、特に90年衆院選初当選組はいわゆる学生運動世代も多く当選し、そのパワーを持ってニュー社会党路線を牽引するはずでしたが、次期委員長は全逓出身、国対族で右派、労組の私が言うのも何ですが、私の新入社員の時代いかにも労組で幹部を務めているような風体をしている田邊誠委員長でした。こればかりは、少し前の労組の役員というイメージを知っている人だけしか分かりにくい表現ですね。これによって、土井たか子を慕って社会党員となった多くの女性は継続しませんでした。また90年衆院選で、まさかの大敗を喫した民社党公明党は社公民路線はかえって党の議席を削るというジレンマに陥りPKO法案など自民党の一部と連携を模索するようになります。当時、自民党 小沢一郎社会党 田邊誠、民社党 米沢隆、公明党 市川雄一超党派の「壁なし会」という集まりがあったそうですが、田邊は委員長となり、一部左派の突き上げもありおそらく社会党構造改革はほとんど進まなかったでしょう。そもそも人事を一つ一つ選挙で決定する社会党の組織は、党勢が上向きの時は多士済々が登用されますが、頭打ちの状態では単なる組織の劣化を招く自傷行為に近かったです。社会党の委員長になっても、人事どころかちゃんと机で仕事をしろと当時の飛鳥田一雄社会党委員長が訓示するほど、左右の派閥が党の書記の日常までついて回ったのだから、路線の転換をしたところで効果は限定的でした。せめて、社会党民社党社民連の統一が達成され、公明党を中間派のままであの政界再編を迎えればまだ社会民主主義勢力は温存できたと思いますが、後の祭りでしょう。

 

 92年参院選では全敗し、95年は多くの現職を抱えて闘いますが社会党新進党と分かれた連合参議院は共闘が成立した栃木、あえて市民派無所属で戦った京都の2人が何とか当選し、98年には連合参議院も旧新進党残存勢力と共に民主党に移行します。最後の連合参議院の1人となった笹野貞子参院議員は、選挙区を保守系に譲り、比例区に回ることを当時の民主党京都に提案。本部も民主党京都を支持し笹野さんも離党。選挙区に政治生命をかけますが落選。連合京都も、その保守系を推薦。当初の目標であった社民勢力の接着という考えは霧散してしまい、そうした矛盾を抱えたせいか今後再び分岐点があるでしょう。




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