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日本社会党創成期の論争

 日本社会党の結党は1945年11月2日です。その2日後に「浅沼稲次郎関係文書」では常任会議が行われ当時の社会党意思決定に関わった人たちの名前が記してあります。片山哲、水谷長三郎、中村高一、 原彪、杉山元治郎、河野密、須永好、田原春次、野溝勝、松本治一郎、平野力三、黒田寿男、浅沼稲次郎。2回目以降、鈴木茂三郎を加えていますが、この場では出席していない公職追放が決定的だった河上丈太郎日本労農党系の人脈が数多いです。当時の、右派が社会民主主義、左派が労農派であり、その中間派である日労系は民主社会主義のグループと言われていました。細かい違いはとりあえずおいておきますが、後に民主社会党が右派中心に結党されますが公式には「社会民主主義と民主社会主義は違う」と発信しています。イギリス労働党から言うと「社会民主主義は議会制民主主義をブルジョワ民主主義と考え、政権掌握の手段であるが民主社会主義は議会制は市民的な民主主義建設の場であって議会を活用しながら社会主義を建設する」と言う立場なのでその捉え方が違います。現代ではその辺りの違いを言及する事は無くなりましたが。

 

 社会党創成期において議論された形跡があるのは天皇制と日本共産党を含めた人民戦線方式を取るか?の2題でした。天皇制については存置、大権縮小、民主化された天皇制の元に社会主義を目指す事。社共統一戦線については社会党独自の路線を持って共産党との共同戦線は持たない、ただし日常闘争、労働争議、小作争議において上述した路線を取るものの地方の実情に即して必要であると認めた場合は地方組織本部か党本部の指示を受ける事。とされています。

 天皇制については当時、社会主義者の重鎮、荒畑寒村が反発。天皇制についての本部通達は越権行為であり、常任会議だけで決定できるものではないとして、後に初期の社会党はかなり動揺していました。当時、獄中から指導部が解放、再建された日本共産党は人民戦線に前向きでしたが、西尾ら右派は距離をおいていましたが、鈴木茂三郎ら左派はやや前向きであり、もっと前向きだったのは明治から重鎮社会主義者たち山川均、荒畑寒村、 小堀甚二などいわゆる「山川新党」らのグループで実際幅広い統一戦線づくりの実現を目指していました。この構想は右派の片山哲、水谷長三郎、安部磯雄だけでなく、自由主義勢力の尾崎行雄石橋湛山も賛同しました。仮にこの構想が成立していたら日本の戦後政治史は現在と大きく変わっていたと思います。こうなれば社会党は革新勢力の第一党であるか、見通しがつかないです。社会党と言うより西尾は救国民主連盟を党内に設置。こうした民主団体を救国民主連盟に一元化していきます。実際山川新党は完敗し、社会党は第一党の地位に就いたのだから、西尾の仕掛けは成功し議会内による国対政治片山哲内閣を誕生させます。救国民主連盟は労働組合、農民組合、全国水平社が加入しており、その枠組みは日本社会党だけでなく民社党民主党にも受け継がれます。

 ただこの辺りから、急進化する青年部に西尾は裏でボス交する人と見られ、これが後に悲劇を生み出しますが、それは割愛します。山川、荒畑寒村らの構想は自由主義勢力の賛同を得たもので日本共産党ばかりか後に自民党内最左派、三木武夫派の源流となる協同党との連携まで含まれていました。仮にこの構想が成就していたら、55年体制というものは誕生したのかifでしか、もう語る事はできません。

 




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