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お答えします。社会主義者から。

id:raymiyatake 様に私の拙い文章に言及されて非常に恐縮です。私自身は組合運動に入って、本当に少しだけ政治活動に、選挙運動に携わるようになってそれなりに日々を送ってきましたが、ネット上では右派ばかりが語る経済論、実際私が見てきた政党の人達が中道主義を現実主義と勘違いしている人達、社会主義と言う言葉を嫌がるリベラル派の存在を心底ウンザリして、専従時代に台本を書いていたのだからnoteやってみないか?労働組合と言う「選択肢」をもっと知ってもらおうよと誘われて色々試行錯誤していたら、思いの外長く続いたと言うだけです。できれば、もっともっと続けていきたいです。曲がりなりにも組合運動から見えた政治の光景は多少、報道だけではない私達の本音もあります。id:kojitaken 様が私のnoteやブログにて発信した「労組と小沢一郎」が読ませると評価を頂き、当時を私の何も知らない新入社員の時の記憶を思い出して書いたものであり読んで頂き大変光栄です。新入社員時代の私と現在に私は大きな違いがあり、私は家庭を築く労働者になりました。家庭を持ちながら労働者として働き、労働運動で闘争する権利を男女関係なく、あえて言うなら私の先輩方が女性と言う理由で労組はおろか仕事も辞めざる得なかった例を随分と見てきて私を支えてくれた人に多少恩返しができたら幸いです。 座安あきのさんの発信を労働組合の末席を汚す人間としてしっかりと受け止めていきます。私は元々は労組の共済事業、福利厚生の専従、その後は小さな単組とは言え役員になりましたが、平和運動に携わり、それは沖縄を考える運動にも幸運ながら触れる事ができた体験があります。その当時はもう15年前になり、振り返ればそこから何度も沖縄に訪れたので機会があればぜひ沖縄について発信したいと思いました。今回はまだまだ伝えきれない私が思った事を拙いながら言葉にしたいです。

 

【視点】かつて「55年体制」の一翼を担ったというだけではない。社会党から連なる社民党は特に沖縄で、「反戦平和運動」と直結する特別な存在だった。衆院最後の、しかも小選挙区選出の一議席が沖縄で守られ、そして沖縄で終止符が打たれたことの歴史的な意味はあまりに重たい。

沖縄で生まれ育ち、祖国復帰の学生運動に身を投じた団塊世代の親をもつ者にとっての社民党のイメージは、金権政治に群がる弱いものいじめの理不尽や差別に抗う、純粋と正義の象徴だった。新垣氏の離党、つまり社民党の終焉は平和の運動論だけでは「食べていけない」「議席は得られない」という、もはや周知の事実となった現実を嫌というほどに突きつけられたような感覚を抱く。

日本本土では先に、支持母体の構造的な変化によって党の衰退が顕著に進んだ。能力主義が浸透していく中、弱者の代弁者であるはずの労働組合が非正規雇用の弱者を拾えず、運動体としての組織構造に分断と瓦解が起きた。そんな中でも、基地問題から派生する「反戦」「反基地」の社会運動が根強く残る“置いてけぼり”の沖縄においては、その構造的変化を拒否するほどの矛盾や理不尽を前に、党の存在意義が延命されてきた。

「平和の一議席」というスローガンは、単なるスローガンではなかった。実質的に戦争体験に裏打ちされた「有権者の声=政治のあるべき」を捕え続けた沖縄の現実だったのだと、今振り返って思う。戦前のように勇ましさや高揚が闊歩しはじめた今こそ、いよいよ本格的に「平和」は危ういということだ。

一方でなぜ、革新政党の支持母体であった「労働組合」が衰退したのかを考えると、企業や自治体において、労働組合の幹部になることが組織における「出世」の通過点になってきたことと無関係ではないように思う。弱者の代表者だった組合幹部が、管理職に引き上げられた途端に運動論を横において、組織経営の代弁者となる事例はいくつも思い浮かぶ。企業の論理、経済を主役にした保守勢力が尊ぶ「能力主義」に、革新勢力にいた人々もまた、巧みに取り込まれてきた結果が、社民党の終焉と重なる。こうした自己矛盾は沖縄の社会運動を支えた自治労、マスコミ労協のなかにも確かに存在していた。

 

 一つ労働組合運動から言わせて頂けるなら、沖縄県55年体制の時代は日本社会党員の数はワーストに近く、ナショナルセンター総評の組織率がベストに近い状態でした。沖縄の労働組合運動は55年体制、現代においてもアメリカ軍で働く日本人労働者、 全駐留軍労働組合の闘争の歴史であり、沖縄革新勢力では今一歩弱かった故上原康助代議士の物語でした。中選挙区時代の沖縄全県区は1970年に初めて沖縄の代表を送り、沖縄の歴史は本土と違い保革関係なく沖縄の自律を求めるもので自社さ政権では社会党沖縄県本が反発どころか中央と関係を断絶するほど険悪になった時代もあり、むしろ自民党沖縄県連も言いたい事は言えないけど沖縄人として応援すると言われた時代です。私は村山富市政権を社会党政権として再評価したい立場ですが、沖縄市民にとってみれば納得はできん!と言われても仕方がない事です。沖縄の歴史は太平洋戦争期には苦難でした。先人が受けた痛みを自分の痛みだと思えば、沖縄戦の痛みは計り知れないです。上原代議士はアメリカ軍の仕事をしていましたが、復帰前の沖縄市民の賃金はアメリカ人の10分の1であり、同じ仕事をしているのになぜと言う気持ちから政治に目覚めたと言う話を私は組合の行事で上原代議士本人の言葉から当時の痛みを知る事ができました。当時の沖縄市民の賃金は本土で働く人の賃金の3分の1だったと言う話も仰っていました。沖縄の労働運動は本土の労働運動と違うものです。また本土の労働運動はよくも悪くも本質は違うのに労使一体と見られた、そう見られても仕方がない運動をやってきたのは現在の労働運動でも十分に感じる事ができるので座安さんの意見は的外れではないです。一つ意見を言うならば、連合と言っても大企業労組も中小規模の労組も長期目標は同じであっても短期目標は全く別物である事も多いです。労組であってもあらゆる組織であっても長期目標は同じだから全て一律に微動だにせず路線を邁進する事はできず、私も専従時代と比べれば非専従の役員時代と現在の労働運動周辺の組合員との立場で言えば短期目標では随分と違う立場です。ただ痛みは自分が受けた痛みと思って、がんばろうと確信しています。上原代議士の労組時代は非常に現在の私たちにも参考になるものです。私達はよく労使交渉の場に行けば「あんたらちゃんと仕事しているんだろうね」とよく言われます。今日は夜勤明けでここにきた。そう言われると思ってシフト表とタイムカードを持ってきましたと言えば大体の経営陣は、そこで話を変えます。そこで全部見せてもらおうと言う経営者の方がまだ誠実です。労使交渉も立場は違えど大人と大人の本気の交渉だから、もっと文章にすれば長くなります。

 

 「平和の1議席」は単なるスローガンではありませんが、冷戦時代の沖縄で労働組合運動で戦争ではなく闘争をしっかりと戦い抜いた故上原康助代議士の話を思えば、座安あきのさんのご意見は冷戦どころか90年代に生きた沖縄市民の本音と闘争をもっと聞きたいと思いました。私は労働組合の人間なので、発想は総理大臣ではなく労働者の運動として1組合員の意見として、ミクロからマクロへ伝える事ができる人に訴えて、強欲な新自由主義に対するアンチテーゼであり、いずれそれが主流派になる労働組合主義を追い求めています。この事が解答と言われると、私は勉強不足でうまく言葉にできないですが、平和の運動論だけでは食べてはいけないと言う現実ではなく平和を求めるなら、安保論だけではなく格差社会を打破すべきと私は信じています。第二次世界大戦の起こった理由は全て格差につきました。アドルフ・ヒトラーの大罪の一つ。格差を独裁の理由にした事です。現在、世界中で多くのヒトラー予備軍がいます。左派はもっと左派らしさを失うべきではなく、原点に根差した痛みを自分の原動力に変える運動論と運動理論が必要です。人を支えないと自分を支えてくれる人はいなくなります。私が労働運動を続けられたのは自分の事だと思い、私を支えてくれた人のおかげです。だから私はその恩返しを微力ながらしたいと考えています。その方程式に私は新自由主義の倫理が私が確信する解答式にも当てはまらないのだから、私はソーシャリストでありたいと思っています。リベラル派と言いながら社会主義という言葉がボンヤリになっている時代において何人かは社会主義と言う言葉を、この土地で訴えてもバチは当たらず民主主義の姿です。




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