組合はどんな小さい単組であっても、最後に政治運動には触れるという不文律はあります。去年の組合行事では自公過半数割れ、我々が推薦した候補が続々と与党を破ったからだという話がどこでも出ていましたが、今年は参院選で自公が過半数割れになった私たちが推薦した◯◯党が現有から議席を確保したという言い方をします。この辺りは文章にして、辻褄が合うようなことをします。私も一時期そういう事をやっていたので、何となく意図が分かります。かつて民主党支持と社民党支持労組を「ダブル」という言い方をしましたが、今は「ダブル」の中身が入れ替わり、場合によっては「トリプル」の単組も存在します。そうした単組において、今の政局事情は匙を投げたいのもまた本音です。連合の政治運動は当然批判が大きいものですが、私達は私達なりに筋を通して、労働者の現状と未来のために政策を学び、それを信じて選挙の協力をしていきましたが「自分達は労働者の前に消費者であるべき自覚を持つべき」という言葉が一部産別や単組役員に出る始末なら、もう合意は紙屑と一緒でしょう。労働者は当然、経営陣には物申す。時には行き着くところまで行ってしまう事もある。その間に立ってくれる人がいて、労使協調も労使の戦闘的交渉も出現するものですが、反対意見を受け止めもせず、それは分断を招くと言われるとそれは単純に闘争はせず黙って見ておけとなるはずです。私がどうしても中道主義を取る人が気に入らないのはそういう部分です。いつのまにか、それがイデオロギーになり弾圧までするようになったら、それは全体主義と変わらないです。闘争の末の妥協はまだしも最初から闘争をせずに妥協とは意味合いが異なるのです。労組だって引くべき場所と推しこむ場所は弁えています。たとえ極左と言われても引き際を知らないほど愚かではありません。ただ闘うなと言われる以上、それは自分達がそうしたイデオロギーに侵食されている自覚はないのか?今一度問いたくなります。それはウクライナ市民やパレスチナ市民にたとえ相手から仕掛けられても平和のために黙って従えば良いと言っているのに等しいです。言論の自由は闘争の自由であり、人の命を奪わないものです。ただ言論の自由にもタブーはあってそれを簡単に破る極右に阿ろうと言われても当然納得も理解もしないものです。
現在の立国共闘論は理解も納得もしないし、結局福島瑞穂執権体制を改める気がない社民党も私は理解がし難いのです。社民党からどうすれば社会民主主義を実現できるかという話は皆無であり、ただ戦争反対のために誰かを我慢するように道徳の授業を押しつけているだけに過ぎないです。そしてそれは立国の民主党にも同じような感想を抱いているのです。地元に帰れば共通点が多い、連合の皆さんのご期待に沿えるように努力するとあれだけ、はっきり言い張るのに箱根の関を越えればこれが政治というものだという何万回も聞かされた方便をネット支持者経由で送られてくるだけです。こちらだって馬鹿ではない。交渉すら否定せず、妥協案を持ってきても筋が通っているならば、皆納得も理解もするものです。が、現況はそうではなく1組合員ならもっと納得しないはずです。どうせ追認するだろうとする姿勢がダメなのです。たとえ追認する形になったとしても、地元の市民、支持者、支持団体にも説明する役割はあります。支持団体が、いの一番に説得し連合無謬論では、連合の人間も納得も理解もしないですよ。まずは市民と有権者の説明です。それがあって中間団体の志でしょう。私達は政治運動で組織を割ることはあり得ないですが、政党が腹を括るなら最後は、というより最後まで擁護者であり続けるし、それが良い意味でも悪い意味でも中間団体としての責務です。ぜひ、お互いいい意味で互恵的な関係でいたいですね。そのためには本来は党組織が選挙以上に街頭に立つべきですが、日本の野党は特に動員力が皆無です。それを動画配信で補おうとしていますが、選挙区を持つ市民、有権者に対して直接訴えない人はいずれ個性もエッジも出せずに任期と共に消えてゆくだけです。私達は労働組合であり、その組織防衛は当然する事もありますが政党の防衛までする義務はないですから。