アメリカの左翼、社会主義者の雑誌「Jacobin」には、小沢一郎の評価に対してこのような表現を用いています。
「生粋の交渉屋であった彼は、代替空間を構築することはできたものの、それを埋めるものがなかった。壮大な計画も、イデオロギー的な指針も、現状打破の選択肢もなかったのだ。」
組織だけは政権交代可能の器を作ることができますが、明確な指針がなく政権を取れば、人気取りに走ってしまう。民主党政権で行われた「事業仕分け」は明確な方針がないために生まれた政治的パフォーマンスでした。生まれた財源は極めて僅少。結果として大盤振る舞いの約束が反故になりそうな予感がした民主党の閣僚や党幹部はいきなり消費税の増税を言い出した。最初から新自由主義に対抗する社会民主主義の政権を目指すという指針があれば、「事業仕分け」ももっと違うものになったと思われます。また消費税の増税についても同様。そして当時社会を歪ませていたデフレ経済からの転換に対して明確なビジョンがあれば、当時の政権交代は意義があったものになったことでしょう。民主党政権は小沢一郎で始まったのかもしれないが、小沢一郎で終わった。これが小沢の政治的な影響力をブラックマンデーのレベルまで値下げしてしまったと思います。民主党政権時代後期から末期に専従になった私は、当時の状況を思い返せば小沢一郎の権力基盤はやはり労働組合にあったと思います。当時の役員は自分がどれだけ小沢一郎と話ができるかどうかが政治運動内の一種の武勇伝みたいなものでした。こうした小沢一郎と日本労働組合総連合会(連合)の蜜月は2007年から政権の崩壊まで続いたと思います。小沢が党を割って作った「未来の党」には多くの労働組合が実質支援をしました。特にゼンセンなどは2007年以前から小沢と一定の協力関係があり、子飼いは次々とゼンセン参加の労働組合の準組織内としてその後援会を支えていました。元々小沢一郎執行部の時代に多くの議論があり、棚上げになっていた「原発」を推進という立場に変えたのもその当時では誰もが知っていた事で、実際電力総連は組織内を含めて小沢一郎の支持者が多かったです。その後の小沢の政党の渡り鳥を見れば「代替空間を作ることができても、イデオロギーはない、指針もない、策もない」という「壊し屋」の本質が見えてきます。「壊し屋」というより、「壊れてしまう」という表現の方が実態に近いかもしれないです。結果として民主党が分裂しても、その後の指導者はこの小沢一郎のやり方しか踏襲できない。こうした分裂劇を繰り返したので、極度にイデオロギー色を出すのを恐れ、「中道に、中道に」と寄っていった結果、自民党の左の部分、穏健派と区別がつかない政党になった。「Jacobin」の指摘は、当たっていると思います。まごう事なき自民党の2軍でしかない、比較的ビジョンを示そうとした枝野幸男も結局そこから抜け出せていない。枝野は民主党政権時代、反小沢派急先鋒ですが政治手法は小沢と大差ない。というのも私の意見です。「聖域なき構造改革」に熱狂した層は、国民民主党はおろか立憲民主党にも相当流れていると考えます。
「ラジオでは、なんで小沢一郎というすごい革命家を要職に就かせないのか?という意見がある」と言った人も労組の先輩役員も多かったです。海外では評価されているとも。ただ当時の記事を探せる範囲で探しても、日本の報道と同じ小沢一郎の評価は「闇将軍」。元々小沢一郎が自民党時代に属していた田中派、経世会は「明確な主義主張をしない事で数を確保する」と性格を持つ派閥です。清和会よりイデオロギー色が強くない代わりに、頭数を集めるために割とダーティな手段も選ぶグループです。こうした手法は形を若干変え、立憲民主党や国民民主党にも受け継がれている点を見ると嘆息も出ます。それに対して支持者が「推し活」と評し、組織化を避け議員個人を応援する議員党のままである事を容認している姿を見ると政治団体ではないとは言え、労働組合側も危機を感じます。政党としていつまで経っても自立ができない既存政党と見做されてしまえば、組織率が低下している労働組合は共倒れを恐れ益々日本の社会運動は消えていってしまう。あの頃と何も変わっていない党の体質を変えようとする人は出るのでしょうか?
連合と2006年
https://www.jil.go.jp/kokunai/topics/mm/20061018b.html
急速に冷え込んでいた(もっともそう珍しいことはなく、連合と民主党は地方レベルでもよく完全対決する事もありました)民主党本部と連合中央委員会との関係に一定の協調関係が生まれたのは、2006年小沢一郎代表のもとで連合ー民主党の共同宣言「ともに生きる社会をつくる」これは冷え込んだ関係労働組合と民主党との手打ちのようなものでした。
特にそう画期的な共同宣言ではないですが、当時は連合評価委員会の最終報告でも書かれていたように「現状の連合は口だけで行動が伴わない」という評価が下されるほど、組織率が低迷した上で労働組合の信頼がほとんどなかった状況でした。もっとも現在も大きくは変わっていないですが、当時は暗黒時代でこの頃は新入社員として入組(当時は半強制のようなものです)した私はその入組式で「君たちが自分の年齢になる時、もう労働組合がなくなってしまうかもしれない。崖っぷちだ」と当時の教宣担当者に言われたのをよく覚えています。実際危機感が非常に大きなものだったと当時は新入社員なので、想像するしかないのですが結束を固めるような集会やイベントは非常に多かったです。このあたりは全ての単産にも共有されていました。
民主党も時同じくして、郵政選挙と前原誠司執行部のとんでもない大失態の末政権交代どころではなく、政党の事までは当時の民主党のメールマガジンや機関紙で想像の範疇ですが、少なくとも交渉力は抜群に高い小沢に賭けてみるのは?ダメなら下ろして考えればいい。という判断もあったのだと思います。小沢一郎系というのは数は多いけど当時は労働組合とはあまり近くもなく、それがなんでこうした手打ちが手早く行われたかというと単純にどちらも崖っぷちの「弱者連合」だった側面はあります。逆にこの後の民主党の躍進の副作用なのか?連合の改革案だった「連合評価委員会 最終報告」の実践が疎かになってしまい、再び苦しい状況を迎えたとの評もあります。労働組合は政治運動を行いますが、政党ではないのです。それが一体化し政権交代に繋げた事だけは一定の評価にはなるのかもしれませんが、連合の労働運動にとってはプラスになったとは思えず、やはり肯定的になる部分は少ないです。与党になった時の当時の役員は口を揃えて「既得権益だと言われるのを恐れて、逆に活動力を落としてしまった」という話はよく聞きます。代替空間を支援するなかで労働組合も肝心の労働政策が固められないまま、むしろ民主党政権はパフォーマンスに酔ってしまった。これは労組も民主党も大きな反省点でしょう。
当時、地域の有力単組はともかく連合という枠組みになれば非常に険悪な関係だった民主党に対して、政党側で1人のキーパーソンが浮かび上がります。当時、連合と民主党は支持母体と言われるものも単なる陳情団体の一つに過ぎず、民主党の窓口は田中悦子さんという1人の党職員が1人でさばいていました。当時民主党の本部も地方組織の職員は幹部の秘書が兼任している事もあり、生粋の党職員はとにかくマンパワー不足。できる人がどんどん仕事が兼任され、特に田中さんは当時の民主党は女性支持率が低かったのであえて兼任させ、報道させる事で「女性に支持される党」を狙っていたと言われますが、オーバーワークもいいところです。なので議員団からそうした支持団体とコミュニケーションが可能な人を。と人材が求められていたのは当時の実情で、その中に経歴的にとっておきの人がいました。松下電器産業の社員から労組組織内の故中村正男元代議士の秘書となり、民主党でも主に党の裏方全般の責任者だった平野博文元代議士です。鳩山由紀夫政権の官房長官といった方が覚えている人もいるのでしょうか?平野代議士は松下電器労組の役員をやっていたわけではないですが、組織内です。労働組合経験がないから反労組感情がある一部民主党議員にも中間派に見える立ち位置(実際に中間派ですが)で、連合と民主党の橋渡しにはピッタリの人材でした。またもう1人日立労組出身の大畠章宏元代議士も元社会党代議士ですが、彼の前任だった故城地豊司の地盤も政治的な人脈を引き継いで労組だけでなく、非労組組織の票のまとめ役でした。更に平野代議士、大畠代議士両名は当時の鳩山グループに参加。鳩山グループは民社協会の支援を得ていたので、友愛労組に民主党支部があり、これが鳩山由紀夫を民主党内において保守系でありながら何度も代表が経験できた一つの要因となりました。ただこれはあくまで点と点のものです。よく民主党は労働組合支配政党のように語られるのですが、多少党員が労組から出ているぐらいで8割も9割も労組経由の党員がいた日本社会党や民社党に比べると精々動かせる票は全体の2割から3割。それでも大きな数字ではありますが、依存と言われると微妙です。その3割が分散されるのだから、最初の基礎票で優位になる程度。アメリカ民主党の場合、党の中央執行部に労組や産別の会長が入ってくるレベルなので、それに比べると日本の民主党は一部地方組織ぐらいが関の山。あまりに当時の報道とはかけ離れたのが、「連合と民主党」の関係でした。2006年においては労戦統一以前の世代がまだ頑張っており、民主党内においても参院議員団など一種の独立王国のようだったのも事実といえば事実ですが。
連合と2007年
連合と民主党の関係はやはり2007年が一つの分岐点でした。この年は参院選です。ここでの勝利が連合の政治的な勝利に繋がったと同時に労働運動としては改善点を考慮しないまま選挙が主軸となってしまった。底に落ちたと思っていたら二重底だった。笑えない冗談です。元々連合は芦田甚之助第二代連合会長の路線「政治運動、陳情活動はするが、政党の選挙運動は一定の距離を取る」という考え方もかなり主流派に近い意見でしたが、なにぶん「マドンナ旋風」の見事な躍進劇があり、それが成功体験としてあった。当時は全て労組のスケジュールのもと選挙運動が行われていた時代です。候補者が遅れた時は、場を繋ぐために組合員が演説するぐらい選挙は一種の結束の儀式でした。ある地方紙を読んでみると「マドンナ旋風」再来に期待している人もいますが、実際労組の運動員のインタビューには「このチラシには労働者の文字がない」「労働者に支持を得る魅力ある政策がない」と温度差があるものでした。「マドンナ旋風」では候補者も特に1人区では労組出身者も多かったのですが、2007年の場合はそういうわけでもなく「若きエリート」が男女ともに候補者として多かったです。当時の民主党は菅直人を中心にイギリス労働党の97年、01年マニュフェストを参考にして2003年日本の民主党マニュフェストが作成された経緯があり、2007年においても大きく変わるものではなかったです。当時世論の話題となっていた「消えた年金」が主になるのは仕方ないのですが、小泉純一郎政権が長く続いた事があるのにも関わらず伝統的な高福祉高負担路線を転換した「ニューレイバー」型の政策が民主党の左派、リベラル派グループにおいても浸透し、小沢一郎時代もそれと大差ないものでした。一つ言えるのは、小沢時代のマニュフェストには消費税引き上げに慎重になった事です。岡田克也代表時代、最低保障年金の財源を確保するために消費税3%の引き上げをマニュフェストに書いていましたが、小沢時代は削除。元々「ニューレイバー」の路線は労働党における労働組合の影響削減を狙ったものであり、「労働者のために魅力ある政策はない」のが普通なのです。それではなぜ2007年に連合と民主党は二人三脚の逆転劇を生んだのかといえば、これはひとえに人間関係でした。「Jacobin」の書いてある通りですね。小沢一郎は代替空間を作り出すことは長けている。
当時の愛知県内の組合報を眺めてみれば、そして当時の地方紙を眺めてみれば○○労働組合に小沢代表来る!小沢代表、来県。と言ったような見出しが踊ります。今でも小沢一郎ファンでもある、私が所属している産別の先輩に話を聞いたことがあります。「小沢代表はわざわざ全国紙ではなく地方を行脚する時は地方紙の記者を中心にインタビューするのだ。なんと言っても地方紙はその県の購読数がずば抜けているのだから」とまるで小沢秘書のように興奮しながら、話してくれた事があります。これは小沢の選挙手法というより元々田中派の選挙運動が戦術的に使っていた方法で、大物や幹部が来県すれば地方にとっては大きなニュースとなり田中派はその話題提供に全国紙よりも地方紙を重視しました。何せ田中角栄は郵政大臣時代に多くの地方テレビ局の開設に貢献しました。それは「日本改造計画」に書いてあるように地方重視の政策にも立脚された部分はあります。ただ田中角栄はそれほどお人好しでもないと思います。こうした地方ジャーナリズムを重視したのは選挙のため。なにぶん民主党の古くから支援者には、こうした経世会流の選挙術に熟知した人も10年ぐらい前にはかなり大勢いて、選挙運動初心者だった頃の私は「自民党はそこまでやっているの?」と思ったことは一回や二回ではないです。これと同じように地方の産別、連合役員は中央の政局には基本無関心。たまに大物が来ても世間話程度。ただ小沢一郎の場合は講演会の後に地方の労組関係者の前でカラオケを披露し、なんならお酌をしてしまう。当然テレビの中の人がそこまでやってくれるのだから、気を悪くする人はいないです。これは私は選挙運動自体にはこうした手法は有効だと思う反面、恐ろしくもなります。前述したように民主党のマニュフェストには労働者の「ろ」の字も書いていないものばかりです。なのに、今や連合や産別は小沢一郎後援会のような有様。労働組合に携わってきて、はや15年になりますが組合はイデオロギーの違いは利害を考え乗り切るという手法もよく使われます。これは案外海外の労組もそうしたことはあるのですが(実際、アメリカでトランプ政権に対する労働組合は路線を変更した産別もありました)、これはもう利害でもなく、単にお気持ちの問題です。代替空間を応援する虚しさは私はその後、2012年衆院選で専従として初めて携わった国政選挙において嫌と言うほど味わいました。
2025年 労働組合と政治運動の現在地
2012年衆院選を短く振り返るなら「罵詈雑言」でした。民主党の分裂劇も当然影響はありましたが、産別や連合は労組の政治運動として間違えた部分はなかったのか?民主党同様、私達も何か方針があって選挙運動を行ったのか?組合員の不満を丁寧に汲み取る事をせず上から押しつけた運動でより一層労働組合の信頼を損ねたのではないか?反省点は数多出たと思います。ある産別の元役員が「できると思ったんだよな」と言った一言が13年経った今でも忘れられないです。そう考えると罵詈雑言から始まった私の初めての選挙運動は、案外幸せだったのかもしれないです。何せあの時より酷い思いはした事はないです。夢を見てしまったほどその落差は埋め難く、忘れられないものでしょう。民主党政権の瓦解とその後数年続いた苦戦で部落解放同盟含めた多くの団体が組織内候補の擁立を諦めて、曲がりなりにも減らしつつあるが数は確保している労働組合しか擁立できなくなったというのが本質です。今支援している政党は代替空間に過ぎないのか、それとも理念を持つ社会像があるのか?結局同じ過ちを繰り返しているだけなのでは?小異を捨て大同につく難しさも感じました。その小異がいずれ大同になるのなら、まず小異どうしをしっかりと主張しあって、それがいずれ大同になるのではないか?私はそう思う事が多々あります。
98年参院選を知る人は「当時、官公労は経世会、官僚頼み、金属労協は清和会など〝民営派〟頼み。と言われた。非自民と言いながら労働組合の政治運動は結局自民党頼みという事がある」と話してくれた事があります。それなら私達がやるべき事は一連のネオリベラル路線の見直しのはず。イギリス労働党の「ニューレイバー」路線の微修正より、かつての福祉国家論のレベルアップを。と2012年直後、おそらく全国で真剣な討論がありました。もちろんまだまだ立場を鮮明にする路線は敬遠する人も労組には少なくなかったのですが、もう一回建て直すにはやるしかない。結果として小沢に頼った政治運動は完全に敗北し、産別主体の運動を改めないといけない。それをもがきながら実行しようとした13年ですが、事態は好転する事なく一時の安堵の明日には奈落の底が待っているかもしれないという思いもあります。私たちの政治運動は、そもそも自民党内の権力闘争の延長戦でうまく転がされているのでは?そうした苦悩も消えないです。
もう一度言います。労働組合は政治団体ではないです。これは政治運動からも選挙から逃げる意図はなく、私達は政治団体でないから政党を組織化する事は困難なのです。イギリス労働党が党史はフェビアン協会や社会民主連盟など社会主義運動と結節する事で労働組合も政党の組織化ができ、単独では不可能に近いです。特に現状はです。私達は定期大会では、ほとんど政治の話しはしないです。その定期大会ですら毎年危機感を覚えるほど苦労するのに、政治の話をする場合の運動はメンバーが現状限られている。大きな理念をやはり政党側が持ってほしい。哀訴に近いです。政党もない袖はふれないのは分かっていますが、肝心な時にブレないで欲しかったと強く思います。野田佳彦も玉木雄一郎も代替空間すら作れない過渡的な指導者をどこまで容認できるか?それが中道の政権と言われるのなら、はっきりと間違っていると言います。抜け殻のような目標において、労働組合の政治運動はどこまで続くのでしょうか?ジリ貧という言葉はSNSでは言ってはいけないのでしょうか?少なくとも2012年より大きく労働運動は盛り返したとは思いません。口だけで行動が伴わないと言われた連合評価委員会。それも2003年の事です。私達はどこまで進歩したのか今も霧と闇のなか彷徨うばかりです。
左派と言われた人が、右傾化し私をカビが生えたイデオロギーに拘っている人と非難するなら私は全力で闘えますが、苦楽を共にした同志が疑問を持つのなら私の運動はやはり間違えもあったのか?悩みます。2025年、私の現在の気持ちを記しておきます。これは13年後に笑い話になるのか、惨劇の前触れになるのか私自身問われているからです。