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日本社会党と地方活動家

 俗に「幽霊政党」と呼ばれた日本社会党は、党員が少ないのに国政で200人近くの国会議員を生み出す政党として特に外国人の社会主義者は、驚きと共になぜそんな事が可能なのか実態を見極める研究はよく行われました。社会党が都市部への支持層を日本共産党公明党に奪われたのは、都市へと上京する青年未組織労働者を取り込んだいわゆる「現役世代の党」でした。さらに共産党民商を中心に中小事業者も取り込んだ戦術が功を奏し、「労働者以外の階層を支持者にした」という事をやってのけた政党でした。

 1970年代の社会党向坂逸郎社会主義協会佐々木更三ら旧来の左派グループと構造改革論を押し出した「ニューレフト」江田三郎グループが鋭く対立していた時代です。そのせいで、地方組織の設置は大きく遅れました。地方の社会党活動家は上は派閥抗争で明確な方針を出さないのに、日常活動をやれと言われても、当然何をするのか?目標だけ言われても、肝心の政策が全くない社会党中央に地方活動家は不満が高まります。政策がないわけではないですが、当時の社会党は江田派と左派が一つのポストを巡って全て選挙戦になる有様ですから、福祉政策一つとっても最後は玉虫色に決着せざるを得ない状況でした。

 さらに深刻な問題なのは資金難でした。経常費すらないのに、候補を擁立するのは困るという話が当時の社会党資料には多く掲載されていますが、この当時は戦前の組織論も色濃く残る社会党内で「日常活動を通じて、一銭もかからないよう選挙をできるようにしなさい」というものが中央の指令でした。こうした地方活動家層を取り込んだのは、向坂社会主義協会でした。成田知巳委員長、石橋政嗣書記長体制では地方活動家の意見を掬うため、党機関中心主義を打ち出します。事実社会主義協会のこの「構造改革」は、社会主義青年同盟の大幅加入者増を生み出し、さらに党本部ではほとんど無視された存在だった地方活動家を向坂逸郎は自宅を開放し、学習会を開くなど結束を固めました。社会主義協会が力を伸ばすのは、キチンとした理由があります。ただ向坂逸郎社会主義協会マルクス・レーニン主義に従わない党員は排他的な態度を取ったため、江田派はおろか佐々木更三も徐々に反協会になります。本来は左派であった江田三郎佐々木更三グループはこの時代から「右派」と呼ばれるようになります。右派は協会規制など社会主義協会の封じ込みに一定の成果をあげますが、当然地方活動家層に支えられていた協会が衰退するのなら地方組織は更に流失するという事態に陥りました。スト権ストで官公労も政府や公社本部に直接陳情をする事を重視し、社会党と総評はすれ違う事も多くありました。

 1977年、社会党は革新首長のリーダーだった飛鳥田一雄を党委員長に起用。飛鳥田は左派ながら首長経験がある行政経験の豊富な政権担当能力がある人材と見ていましたが、その最初の訓示は机を片付けろ、派閥抗争をするな、9時半には書記局に出勤しろ、という非常に低レベルのものを出さないといけないぐらい内部抗争が激しい日本社会党でした。この手の路線対立はイギリス労働党フランス社会党などで見られ、日本社会党も党組織を改革する事で政権を担う勢力としての持続性を確保できるチャンスはありましたが、不意にしてしまったと考えます。よく、西欧社会民主主義を打ち出せなかった社会党が敗退したという結論を出す評論家も多いですが、仮に社会主義協会を早めに規制し、党内を親社会主義インターナショナル路線に変えていったとしても、この地方組織の弱さは果たしてどれだけ有権者に伝わるのか?本来必要だったのは、イデオロギー論ばかりにかまけて地域活動を疎かにした当時の組織論にも十分問題がありますが。

 

岡田一郎 社会党改革論争と労働組合より 




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