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右派社会党、連立構想1952

 1952年公職追放解除が目前に迫った岸信介が政界復帰のため「日本再建連盟」という政党を立ち上げます。革新官僚の代表格だった岸は、吉田茂自由党自由経済には否定的で鳩山一郎らは修正資本主義、三木武夫などは資本主義でも社会主義でもない協同組合主義を掲げていました。岸の構想では右派社会党反自由党の連立相手として、考えられていたとされます。

 官僚の人材を次々と登用していた吉田茂に対して、右派社会党も官僚批判を展開し「労働組合、農民組合、協同組合を加えた民主的な計画経済」を主張していました。これは実際、岸信介の経済再建プランと近似したもので両者も社会保障の充実は一致していました。岸という政治家のスタイルは基本的に計画経済については否定どころかむしろ推進する立場でした。こうした岸路線と若干異なる形だったのは同じ反吉田でただ経済政策自体は吉田茂とそう路線が変わらない福田赳夫と対照的でした。右派社会党も東南アジア貿易を重視し、貿易推進の立場から西側諸国として日本の経済成長を考えていた岸と外交観も一致していましたが、右派社会党との連立構想が完全に否定されたのは、岸信介改憲派であり右派社会党の中では岸同様西尾末広西村栄一改憲再軍備に賛同していたグループはむしろ少数派で有力者の水谷長三郎はむしろ護憲派浅沼稲次郎ら中間派も水谷と同調しました。水谷は徹底的に反共でしたが、河上肇の教えを受けていた根っからのマルクス主義者であり、さらに根っからの平和主義者でありこれは民主社会党内においても、西尾執行部に対して議員団長の水谷は安保国会で反岸政権の論陣を張ったとまた好対照でした。

 さらに連立相手の一つ保守政党の改進党においても、あくまで保守政党として立場を目指すグループと右派社会党との提携に前向きなグループの路線闘争はありました。右派社会党内においても安全保障論では不一致が多くても、あくまで社会主義建設は党内で一致してあり三木武夫までは大丈夫でもそれ以上右派になれば連携はできないという事もまた自明でした。「岸君は社会主義者ではない。だから両立はできない」と言った西尾末広の言葉はまた修正資本主義とも若干路線が異なるものでした。

 この辺りは改進党の総裁である重光葵などもイギリスの事例を見て、保守党と労働党の二大政党の中間派である自由党のような立ち位置を目指すのが改進党であり右派社会党との提携はハードルが高かったです。選挙後、岸信介は代議士になりますが右派社会党に入党を希望。当然党内右傾化を恐れた右社内の結束を守るためその要望を拒絶します。結果として自由党右派社会党の2大政党を目指していた岸信介構想は破綻し、むしろ保守に接近しました。岸信介らが後に自民党内派閥として清和会を形成しますが、岸のような開発主義的な構想を持つグループ、福田赳夫自由経済を重視するグループが混在し55年体制亀井静香グループの分離独立があった理由はこうした本来政策が一致しない人間達が権力闘争の中で同派閥に混在したのも理由です。この傾向は自民党内他派閥もこうした路線闘争は常に存在しました。

 

長谷川隼人「岸信介の経済再建構想と日本再建連盟」を参考にしています。




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