日本の社会主義運動史を紐解いて見れば、1人の男の評価に悩む事があります。戦前は社会大衆党を親軍部に変えた麻生久に追従し、斎藤隆夫の議会除名に賛成した人物。と思って見れば戦後、社会党の左右対立が党を割る直前で中国訪問をした彼が「米帝国主義は日中両国人民の敵」という発言をしてしまい、むしろ左派であり党内融和派だった鈴木茂三郎が激怒させた逸話も持ちます。この男は早稲田大学の相撲部であり、大柄の体格と全国どこでも演説しに行く無尽蔵のスタミナが彼の長所でした。早稲田大学の社会主義団体「建設者同盟」に加入し、東京大学の「新人会」が労働者組織友愛会に近い事実を見て、うちは農民運動でという事で、彼のあだ名は演説百姓なんて名付けられた事があります。大学を卒業後も社会主義運動を続け、農民労働党の書記長になりましたが1時間で解散。26歳の若さでした。
この頃、労働者、小作農民を支持母体とする無産政党は、安部磯雄、片山哲などキリスト教社会主義の影響を受けた反共右派の「社会民衆党」、河上肇や山本宣治など学者が指導し容共だが合法左派政党を目指した「労農党」そして中間派の「日本労農党」です。1932年、これだけバラバラだった合法無産政党は、一つにまとまるべきという機運が高まり、この時初めて左右統一の「社会大衆党(以下、社大党)」が結成されます。大正デモクラシー当時、都市部の知識層を支持基盤とし、進歩主義を唱えていましたが財政に関して言えば超がつくほどのタカ派である「立憲民政党」、地方の地主や会社経営者に支持基盤があった「立憲政友会」の2大政党でした。これらについてはさまざまな研究者が本にしてまとめていますが、1928年初めての普通選挙を導入した総選挙において8人が当選。選挙をするたびに人数を増やしていった無産政党は社大党に結集され、1937年には36議席を獲得しました。今でいう第三極でしょう。男はその前の選挙で初当選。この時は2期目でした。
さて私が今回取り上げたいのは、当時の社大党のゴタゴタを麻生久が党首の安部磯雄ら社会民衆党系を追放し、一気に大政翼賛会に合流していくその過程を発信したいわけではないです。話はまだ太平洋戦争が始まる前です。1939年、日本の代議士が国家の議会の国際組織であるIPU(列国議会同盟)に派遣された時、彼の日記が残されています。立憲政友会は後に衆院議長となる船田中、立憲民政党からは北昤吉、彼は二•二六事件の指導者だった北一輝の実弟です。そして第3党である社大党からは今回主役となる長々と前述した「彼」浅沼稲次郎が選ばれました。
1939年。
歴史に強い人は、この時期に何が起こったかお分かりでしょう。日米通商航海条約が破棄され、独ソ不可侵条約からポーランド侵攻、アメリカでは「マンハッタン計画」の契機となるアインシュタインの提言があり、後の大戦争の序章がすでに奏でられていました。この時代、アメリカにとって日本は仮想敵国であり、ナチスドイツやムッソリーニのイタリアと関係を深める国はヨーロッパでもどういう目で見られていたか想像しやすいでしょう。派遣団は6月30日から11月11日までが、その日程でした。
当時浅沼稲次郎はこの訪欧団に参加するにあたって、日記を書いています。当時の社会主義勢力は麻生久ら親軍部が率先して総動員体制に協力し、安部磯雄や西尾末広といった社会民衆党系はそうした動きに与せず、麻生の腹心だった浅沼には日記から「国家社会主義的」な側面も見え隠れします。ただ北昤吉は、さすが北一輝の弟なのでアジア•モンロー主義を唱え、浅沼の国家社会主義とは違う思想ですがそうした日記の中によく現れています。さてこの頃の浅沼稲次郎は、強固なアジア主義者で国粋主義者でした。ドイツのポーランド侵攻に対して「日本も自主独立の力を養うべき」と書かれたり、「東亜新秩序は新しい尊皇攘夷運動にならないか」など軍部の政治体制には容認的でした。このままいけば、浅沼も戦後公職追放を受けたはずですが翌年麻生久が早逝し、失望した浅沼は議員を辞め下野していたからです。麻生がもう少し長生きしていれば、どういう歴史を辿っていったのか?ifは禁物ですが気になりますね。
さてこうした国家主義に傾倒しつつあった浅沼稲次郎ですが、戦後は変節したかのように言われました。前述した米国帝国主義は日中両人民の敵発言ですが、最近歴史学者や専門家は実は浅沼は戦前から戦後にかけてほとんど政治的な立場を変えたわけではなく、アジア主義的面は常に持ち、その社会主義理念もやはり国家改造にあったのではないか?という説です。実は浅沼の縁戚は社会党の地方議員になっていますが、その後は右翼に転向し参院選にも出馬しています。これは名前だけではなく、実は政治的な後継者としてもあるのではないか?浅沼の悲劇が、彼に回顧録を残す事を許さずこうして残された浅沼文書から推定することしかできません。
さてまず最初の地であるアメリカに降りたアメリカでは、浅沼は労働運動の情報収集をしたそうです。日記から本当に視察の内容ばかりではなく、歓迎団がこんな踊りを披露した、北くんと将棋をうった、今日の夜はこんなご飯が出たとかそういう話ばかりです。日記は一次資料として有効です。他に見られる事を想定していませんし、また嘘は書きませんから。さて浅沼7月14日の日記の最後に「アメリカは社会秩序はあるが、国家観念は薄い」という一文があります。ドイツと同盟を結んだ日本の派遣団。日記からもアメリカ市民のヒトラーの評判は最悪でとりあえずまだ交戦状態ではない日本に対しては、アメリカ側も情報を聞きたがったということが書かれています。
ここで少し補足です。この訪欧団の1年後にいわゆる斎藤隆夫反軍演説が行われて、麻生久に近い浅沼、政友会の船田中は除名に賛成していますが斎藤と同じ民政党の北昤吉は棄権しています。この時浅沼以外に麻生についた代議士は大半が日本社会党に残留し、むしろ造反した人が民主社会党結党に動いた人が多かったのは何かの因果を感じます。
そして8月15日(何かを暗示しているような気がします)ついに列国議会同盟が始まります。各国の議会関係者はダンツィヒ問題から端を発するかもしれない対独戦争について恐れを抱いていたということが日記に書かれています。当時のドイツ軍は再軍備の結果、かなり増強され第一次世界大戦の傷跡が癒えていない英仏各国には脅威でした。9月1日ついにドイツのポーランド侵攻が始まりました。当時のヒトラーの演説は極東の政治家も魅了したらしく、多少褒めているような表現も見られます。さて歴史が詳しい人はこの年の8月に「独ソ不可侵条約」が結ばれた事はご存知でしょうか?浅沼も9月22日には「全世界はイデオロギーや理論を持って解決する事はできない、全て現実を中心に動いているような気がする」という言葉を残しています。さてこの日記の最終版にはドイツ、ソ連は社会主義的傾向がある(まだ社民主義の理論が確立していない時代にはナチスもソ連も社会主義と見做されていました)国で持つものと持たざるもの、社会主義と国際社会との戦争かもしれないと書いている事です。私はグローバルスタンダードという言葉には否定的ですが、現在一部の方が叫ぶグローバリストとの戦いというものはまさか当時でいえばこういう風体のものだったのでしょうか?浅沼が政界引退後回顧録を出すのであれば、もう少し細かい部分がわかったはずですが、それは叶いません。そしてアメリカ市民から「君主制の国が良い。誰が大統領になるのか分からないから」という声を聞いた話を掲載しています。トランプ現象に少し似ていますね。もっとも考えすぎなら、それでいいのですが。前述したように浅沼はその後代議士を続けず、地方議員には立候補しましたが、玉音放送は当時住んでいたアパートで聞きました。
戦後、離合集散の無産勢力
戦前、浅沼稲次郎と近い代議士、河上丈太郎、三輪寿壮は大政翼賛会で活動していたので大半が公職追放。人民戦線事件で弾圧された非共産左派を合わせても社会主義者の人材難は明らかであり、浅沼の国政復帰は必然不可欠でした。中間派だった浅沼は何かと揉めがちの党内右派と左派の間を行ったり来たりでついたあだ名は「人間機関車」、融和を維持するためには必要な人材だから「万年書記長」だというあだ名も頂戴しました。
さてここで一つ疑問が浮かびます。戦後日本社会党を結成しようとした人は大政翼賛会に反対し、さりとて共産主義とは距離があった人が中心で後に社会主義協会という親ソ連派が社会党を牛耳るという事は、なぜ行われてしまったのか?結成当初にドイツ社民党のようにバード•ゴーデスベルグ綱領のようなものがあれば、片山哲以降も総理大臣を輩出できたのでは?という疑問です。結論からいえば、日本共産党というライバルがいる限り、思い切った党内改革はかなり難しかったのも事実です。ドイツの場合は共産党が非合法化され、容共的な勢力は徐々に勢力を小さくしていき、国民政党に脱皮できましたが、日本の場合は思い切った転換が全て共産党の地盤になってしまう恐れがあれ実際1970年代には、日本共産党は明らかに都市部で革新票を奪っていました。だから尚更、民主社会党に行った人材が社会党に留まり、漸進的な党内改革が行われると、またエスカレートする党内対立を左派側もどうにか治めようと努力できれば、歴史にifがつきません。
さて戦後の浅沼はどういった政治信条だったのか資料は少ないですが、彼は一貫してナショナリズムを持っていた社会主義者ではなかったか?若い研究者から出ています。戦後も一貫して皇室に対して親和的で、悪口を言う人がいたら追い出した。いわゆる浅沼稲次郎最後の演説もアメリカ従属の外交方針を批判した。親中とも言える発言も戦前のアジア•モンロー主義の影響があった浅沼ならブレたと言うより貫いたとも言える。それについての是非はともかく私たちが考える浅沼稲次郎像はまだまだ見えていないものが多いです。浅沼は派閥を作るタイプではなく、中立だったから委員長に選ばれた側面もあります。戦前から活動していた浅沼は自民党にも人脈があり、それこそ政界再編を狙っている節があったそうです。浅沼研究が進むことに期待します。
今なお彷徨う日本の社会民主主義
ここからは空想国会に近いです。私の妄想にも過ぎません。ただ振り返られるのは自民党の派閥抗争史や権力闘争。もしこれに野党が絡み、日本に西欧基準の福祉国家が建設されていたら、という空想です。自民党歴代保守政権は、高度経済成長時代に特にこれといった手を打たず、トリクルダウン方式のような状況で無為に過ごし、70年代田中角栄内閣の時代にようやく福祉について考えるようになったのですが、時はすでに遅し、巨大なインフレが直撃し元よりケインジアンであっても保守派のくびきから抜け出せなかった田中角栄はあっさりと党内政局で引きずり落とされます。現在、日本の与野党には田中角栄研究会なるものがありますが、昔は良かったという思い出話だけで何ら進めようとしない状況に少しながら苛立つ事もあります。一つの事実があります。1952年に結党された「改進党」に社会主義という文言があった事を。当時、社会主義政党だった農民協同党を合流させた改進党は保守派の反対を押し切って、結党宣言を書きました。当時、その結党宣言を主導した三木武夫は福祉国家建設を訴えていたことを。岸信介が日本社会党に入党しようとし断られた事がありますが、三木武夫が自身のグループを集めて社会党に入らなくても彼らと対等な連立関係を結ぶ事ができれば••。こう言っては身も蓋もないですが、これはただの妄想ですね。調べれば調べるほど改進党という政党もご多分に漏れず寄り合い所帯だったのだから、党の内紛は避けられないでしょう。高度経済成長という時代に本格的な福祉国家建設が完成とは言わずに少しでもその糸口ぐらい手をつけていたら、日本もこうした「配るなら取るな」という国家機構すら否定した言葉が出る人たちも少なかった、目立たなかったでしょう。今そうした発言をする人は完全に公共を破壊しようと宣言しているのだから私達は対峙しないといけません。もし公共の存在が失われて、乱世のような時代になったら、働く人どころか日本国そのものが大きなダメージを受けるでしょう。反動主義には反対を。私達は江戸時代に戻りたいのではなく、未来を生きたいのです。個人を大事にしつつそれを包摂できる公共がある。私達は議論しないといけないです。過激派に乗っ取られる前に。