※アメリカ民主党は社会主義政党ではないですが、一部の非無産政党を例外的に取り上げます。
※FDR政権のニューディール政策はケインズ経済が理論的な裏づけでしたが、ケインズが自身の理論を体系化したのは政権発足の3年後でした。
アメリカ民主党のフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(以下FDR)のニューディール政策を賛同した人は反対勢力の共和党内にも多く、父が共和党政権の農務長官だったヘンリー・A・ウォレスもその1人でした。1933年ウォレスは農業調整法の主導者であり、政府、農業者団体、農民の3者協議を踏まえた「作付け制限協定制度」において民主主義的農政を主張しました。「農業に党派は関係なく、何が農民の利益になるのかか」が彼の持論であり、後に副大統領を務めるなどFDR最側近の座を勝ち取ります。FDR政権の4期目にはハロルド・イッキース内務長官、ヘンリー・スティムソン財務長官、フランシス・パーキンス労働長官などニューディール左派が要職を占めていて、その中でもウォレスは筆頭でした。ただウォレスの進歩的な政策は民主党内右派から反発もあり、中間派ハリー・トルーマンがFDR4期目の副大統領になります。
ウォレスはアメリカの政治家としては異例の親ソ連であり、対ソ強硬論に対して、民主党候補応援演説において「米国が強硬になればロシアも強硬になるだけ。ロシアが我々の目的が大英帝国を助けることでなく、中東の石油を買うことをしないのであれば我が国と協力するはずだ」という発言をします。その中で党内ニューディール右派はアメリカ主導の国際安全保障を目指していたので、ウォレスなど親ソ、容共的な人々を要職から追放し、反共派がトルーマン政権の主要メンバーとなりました。
この辺りからナショナルセンター、未熟練労働者の組織化に力を入れていた労働者団体CIOの推薦を受けていた民主党候補者は中間選挙において318人中73人の当選しかできずFDR政権の政権基盤である「ニューディール連合」は揺らいでいきます。ウォレスは一部民主党組織を分裂させ、「アメリカ進歩党」を結成。対ソ平和論を説きますが、進歩党の幹部にはアメリカ共産党員が多数存在し共産主義者と多くの有権者からみなされたウォレスは48年大統領選挙で一般投票2.4%という大惨敗を喫しました。
朝鮮戦争を契機にウォレスは初めてソ連を批判し、進歩党から決別します。ただ基本的にはソ連擁護論がベースでした。52年にはアイゼンハワー、60年にはニクソンを支持しました。どちらも共和党候補で、反共的な右派政権でした。
ニューディール左派は戦争中に巨大化したアメリカの生産力に対して、輸出市場が確保しなければ再び大恐慌に巻き込まれてしまうのではないか?という一種の恐怖感がありました。さらにニューディール政策を推し進め、所得の再分配が恐慌を阻止する唯一の政策として経済的民主主義を掲げました。スターリンは基本的に一国社会主義論者であり、中国においては国共合作政権を容認したりいわゆる「革命の輸出」に熱心だった訳ではなく、あくまでソ連の国益の範囲で軍事行動を起こしており朝鮮戦争においてもソ連の支援は限定的でした。ウォレスはそうしたスターリンの真意を読むとっていた形跡もありますが、冷戦が加熱する中でその影響力は小さくなります。ただ民主党内にウォレス派は残留し続け、72年に大統領選に立候補しニクソンと争ったジョージ・マクガヴァンなどが著名です。