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大阪の労働争議あれこれ(2)米よこせ風呂敷デモ

 戦後80年を迎えますが、敗戦直後の日本は厳しい食糧難に苦しんでいました。1945年の米の収穫高は、前年比マイナス60%という凶作だったうえ、1920年代にはじまった朝鮮米の日本への移入、そして1941年の南部仏印(現在のベトナム)への日本軍の進駐によるベトナム米の日本への移入が、敗戦により止まったからです。
 戦時中から、食糧は政府による配給制度のもと国民に支給されていたため、とくに都市部の住民にとって米の配給のあるなしは死活問題でした。鴻池新田(現・東大阪市)の主婦たちも、連日配給所に通いましたが、いつも米の配給はありません。しかも配給所の職員は「上から米を送ってこないからどうもならん」と、開き直る始末です。
 この対応に怒った主婦たちは、1945年10月のある日、布施にあった「上」=配給公団支所まで、風呂敷をもって米をもらいに行こうと誘い合い、主婦15人のデモ隊が出発しました。
 1時間半歩いたデモ隊が布施に着いたのは、ちょうどお昼時でした。事務所には誰もおらず、2階にあがったデモ隊が目にしたのは、職員が「銀シャリ弁当」を食べている姿だったのです! 銀シャリとは白米のことで、米不足にあえぐ庶民にとって夢のような食べ物でした。それを、米を配給すべき配給公団の職員が食べているとは! 
 この光景を前にしたデモ隊は、自分たちの配給所では7日間米の配給がなく、一粒の米も口にできないことを訴えるとともに、「あなた方の銀めしは、いったいどこから回ったのだ。役得か、それとも警察で摘発したヤミ米を横取りしたのか」と職員に詰め寄りました。この時期、都市部の住民は、農村に行き、手持ちの着物類と米を交換してもらうこと(ヤミ米)で生きのびている人も多かったのです。
 デモ隊の剣幕に恐れをなした所長は、震える声で「届けましょう」と答えました。この日の夕方には鴻池新田の配給所に米72俵(1俵=約60キロ)が届けられ、ようやく住民は米を口にすることができたのです。今、放出された備蓄米はどこにあるのでしょう?

(エル・ライブラリー特別研究員 黒川伊織。初出は機関紙編集者クラブ「編集サービス」2025年5月号)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/Komeyokose.jpg

(写真は大阪ではなく、皇居坂下門に押し寄せる「食糧メーデー」のデモ隊、1946年5月。Wikipediaより画像リンク取得

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Komeyokose.jpg




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