今月から、当館特別研究員・黒川伊織のコラムを連載します。初出は機関紙編集者クラブ「編集サービス」です。同紙に掲載されてから数か月空けてこちらのブログに転載してまいります。黒川のコラムは『大阪社会労働運動史』(全10巻、1万頁)を典拠として執筆したものです。大部な『大阪社会労働運動史』の中から少しずつトピックを掲載していきますので、エッセンスを味わっていただけますよう、願っています。(館長・谷合佳代子)
<明治の米騒動 団結した米つき職人>
「令和の米騒動」と騒ぎのこの頃ですが、1894年〜95年にかけての日清戦争の時期にも、米価が高騰しました。
当時の大阪には、農村からの出稼ぎ者など貧しい人びとも多く暮らしていました。そのような人びとが仕事を得ようとする時には「口入屋」(くちいれや)と呼ばれる斡旋業者の力を借りるほかありませんでした。口入屋とは、今でいう、職業紹介事業やスキマバイトアプリのようなもので、仕事を紹介して一定の手数料を徴収していました。
手に職を持たない出稼ぎ者は、口入屋によって「米つき職人」の仕事を紹介される例が圧倒的でした。米つきとは、玄米を白米に精米する作業のことです。昭和初期までは、土の中に埋めた臼に玄米を入れて、臼の上に置かれた杵を足踏みして精米を行っていました。
米つき職人は、杵を足踏みするだけの単純な肉体労働だったため、極めて低賃金でした。1888年の調査によると、大阪に米つき職人は二千人以上いたとされます。
低賃金労働にあえいでいた米つき職人は、日清戦争による米価高騰にもかかわらず、自分たちの賃金が上がらないことに怒りを爆発させました。米つき職人は肉体労働なので食費もかかるうえ、毎日銭湯に通って汗を流さねばなりませんでした。それにもかかわらず日当は12〜15銭に据え置かれて(当時、銭湯の入浴料が1銭、米3キロの販売価格が最低24銭でした)、米つき職人の生活は困窮したのです。
日清戦争に従軍する軍夫(軍隊の下働き)募集のため肉体労働者の賃金が上昇していたタイミングでもあったため、米つき職人は、はじめて自ら団結して、白米商の同業組合に賃上げを要求することになりました。

1894年10月、大阪市中心部の生玉神社と高津神社に集結した360名あまりの米つき職人は、同業組合に団体交渉に行く予定でしたが、この動きを察知していた警察により解散させられ、交渉はできませんでした。
それでも、はじめて団結した意味は大きく、これ以降、米つき職人の賃金は4倍近くに上がりました。団結して声をあげることの重要性は、100年前から変わりません。
(特別研究員 黒川伊織)
(『大阪社会労働運動史』第1巻125~130頁参照)
写真は現在の生玉神社。Wikipediaより:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ikukunitama-jinja_haiden-2.JPG