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痛いところから見えるもの…②

 

 こちらの本に関する記事の2回目です。
前記事では、著者の頭木弘樹さんが、見舞いに訪れた知り合いと痛みを分かち合えた感慨から思わず涙を流したという話を紹介しました。
痛い体験は、肉体的に苦しいことに加え、誰とも分かち合えない孤独感をも味あわされます。
 ですから、さほど親しい間柄ではなかったにも関わらず、目の前の男性が見せた共感の涙によって頭木氏の感情も一気に噴き出したというエピソードでした。

病者の痛みを他者が共感することは、ほとんど不可能なことと言ってもよく、これはもう仕方のないことなのです。
世間並みの優しさや親切心を持っている人が病人を見舞ったとしても、当たり障りのない慰めや励ましを伝えることしかできません。
それで良いしそれで十分なのだろうと思います。


 ただね、中にはデリカシーの欠落している見舞客もいるもので、そんな見舞客と患者のやり取りを頭木氏は見ることになりました。

本書中の「痛みとマッチョイズム」の章の中にその箇所があります。

 とある男が病室の男性を訪れる。
「どうだ?調子は?」
などと声をかけ、病人が痛みについて語るのを聞いていましたが、その会話の途中で、やおら小学生の息子と釣りに行った話を始めたのです。
なんでも、父親の竿の釣り針が息子の顔に引っかかってしまうアクシデントに見舞われたというのです。
返しのついた針は、素人か取り除くことは難しく病院で処置してもらうことになりました。

その際、その息子さんは、針を取り除きその後何針か縫う処置の間全く泣き言を発しなかったというのです。
その日に焼けた男は、自分の息子を「立派な男だ」「えらい奴」だと何度も繰り返しました。

 ベッドのおじさんも、「さすがあなたの息子さんだけあるねえ」などとほめていた。
しかしこれはあきらかに、痛い痛いと泣き言を言うな、おまえはおれの小学生の息子より情けないぞというメッセージであった。おじさんもそれを感じただろう。

いやあ、実に嫌な見舞い客ですわ!
  
私は頭木氏が、その男を「日に焼けた男」と表現していることに目が向きました。
その表現に何らかの意図があったか否かはわかりません。単にその男の容貌の事実を書いたに過ぎないのかもしれません。

しかし、この6文字の中に、病室に閉じ込められて、社会的な活動を休止せざるを得ない病者、アウトドア的な活動から最も遠い存在である病者と、外で闊達な活動ができる健康体の男との対比が滲み出ているように感じたのでした。

 さて、頭木氏ご自身の体験に話を戻しましょう。
氏の病気体験のスタートは、大学3年生の時に発症した潰瘍性大腸炎です。

私が20歳でなった難病、潰瘍性大腸炎は、いわば「出すぎる」病気だった。

今まさにの下痢をしている当時の頭木氏にとって、出なくなる苦しみがあることは未知のものであり、またその苦しみを想像することはできませんでした。
ところが、手術後15年後に突然腸閉塞を経験することになります。
開腹手術を受けた人がその後、癒着性腸閉塞を発症することがあると聞いてはいたものの、15年後になるとは思いもよらぬことでした。
この症状は、持病として氏の生活に貼り付いてしまい、それからというもの頭木さんは、腸が発するサインを常に意識し、気をつけて暮らすことになります。
悪いことに、腸閉塞の痛みは大変強いものらしい。
「3大激痛」と呼ばれる痛みは、心筋梗塞、尿路結石、群発頭痛なのだそうですが、腸閉塞を4つ目に選ぶ人もいるようです。

さらには、有効な予防策はないらしいのです。
もちろん、食生活はある程度の制限をかけて暮らすことになりますが、詰まるときは水を飲んだだけで詰まるというのです。

頭木さんにとって比較的有効だった対策は、身体が予兆を感じたらいっさい何も食べず、飲まず…一滴も!ひたすら歩くというものでした。
同病の方から得た情報でした。
頭木さんは、外を歩いたり、部屋で踏み台昇降運動をすることで何とか腸閉塞を回避しようと努めます。
夜中であれ、病が近づく予兆を感じたら踏み台昇降。
1時間やってもダメなら少し休みまた行う。
痛みから逃れたい一心の行いなのでした。

 そのような予防策で外を歩いていた時のエピソードがとてもとてもしみました。
行き交う人々は、たいていそれぞれの行き先を持っています。
一方頭木氏に行き先はありません。
ただ腸を通すためだけに歩いているのですから・・・。
痛みから逃れようと歩き続ける頭木氏の逼迫感は誰一人にも伝わりません。
そして頭木氏自身も、行き交う人々の中に潜んでいるかもしれない、苦しみやせつなさに気づくことはできないのです。
 

 ため息も白く見える冬のある日、歩行中の頭木氏は道路工事をしているところに出くわしました。
そしてその現場が発するすごい騒音に胸を打たれるのです。

たくましい人たちがもくもくと、削り、叩き、掘っている。
 しかも価値ある行為だ。私の行き先のない歩行とはまるで違う。
カフカが日記に書いていた、こんな言葉を思い出した。

夕べの散歩のとき、
往来のどんなちょっとした騒音も、
自分に向けられたどんな視線も、
ショーケースの中のどんな写真も、
すべてぼくより重要なものに思われた。
『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ』  拙訳 草思社文庫

この言葉が、いっそう身にしみた。

 
ありふれた風景が見る人心の中に持ち込まれ、何らかの作用をもたらす様が描写されており私の心にもしみたのでした。
 痛みは人を孤独にします。
痛みという檻の中に閉じ込められて、人との交流もままならず、社会的活動からも遠ざけられてしまいます。

それでも頭木氏は、その苦しみや悲哀について文章にし価値ある著作物として世に出しました。

身体的な様々な痛みや苦痛、さらには心の痛みについての興味深いエピソードがたくさん盛り込まれた1冊でした。




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