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『母を捨てる』を読んで…②

 衝撃的だったこの本について、そこから私が思ったこと、感じたことを綴ってゆきます。

 物心ついた頃には、菅野久美子さん(以下久美子さんと記述します。)にとっての母は、恐怖の対象でしかありませんでした。
毛布を被せられ首をしめられる、もしくは風呂場に連れていかれ水の中に顔を沈められる。
その苦痛たるやいかばかりか?
第一章では想像を絶するような母親の仕打ちについてが語られています。

 そして二章へ。26ページ。

しかし、そんな私が唯一、母から愛情を受けることができる瞬間があった。それは虐待されるときだった。

え?!
どういうこと?!と驚きますよね。

久美子さんが4歳になったとき弟が生まれます。
母親の関心が全て弟へと注がれ、久美子さんは徹底的に無視されるようになったのです。まるで無いものとされ透明人間のような存在となった彼女。
「私を見て!」
「私はここに居る!」
久美子さんの願いはこれ一つに集約されてゆきました。
母親が、生身の身体を持つ「久美子」に向き合う唯一のひとときが、虐待の時間であったこと…そのことにより久美子さんは、その時を喉から手が出るほどに望むようになったのです。
ああ、それほどまでに母を求める子どものけなげさよ、痛々しさよ。

久美子さんの中で「愛」と「痛み」が分かち難く結びついていきました。そしてこのことが、彼女のその後の人生にずっとついて回ることになるのです。

 久美子さんは、小学校教師である父親と専業主婦の母の間の第一子として生まれています。母親の前職は中学校の国語教師でした。恋愛結婚で結ばれた父母でしたが、その生活は早い段階で不安定になっており、不毛な家庭に縛り付けられた母のストレスが、我が子への虐待につながる一因となったようです。

 久美子さんに対する肉体的な虐待がいつまで続けられたのかの記述は、はっきりと書かれてはおりません。
二章では母親から受けた教育虐待へと話題が移ってゆきます。
始まりはピアノでした。
ピアノ教室の先生は優しい人でしたので、そこへ通うのは好きな時間でもありました。
しかし、帰宅すれば厳しい、もう一人のピアノ教師が待ち受けていたのです。

久美子さんが運指を間違えるたびに、振り下ろされる定規のムチ。緊張しビクビクしてピアノに向かうためにますます音を外してしまいます。
彼女の太ももは、何度も振り下ろされる定規の強打によって赤く腫れ上がってしまうのでした。

 彼女の家の目と鼻の先に、誰もが目を引くお金持ちの邸宅がありました。久美子さんと同じ年頃のお嬢さんもいたため、母親とその家の奥さんとはママ友だったそうです。
久美子さんはその関係を名目上の…と表現しています。
久美子さんの母親は、その人と友達でいる自分にこだわりました。自分の箔付けとして、そのママ友を必要としたのでしょう。真の友情とは言い難い、黒ぐろとした羨望と嫉妬の気持ちを抱きつつ付き合っていたのでした。

そして、その家庭と肩を並べたいという母親の欲望を満たすために「久美子」という子どもが利用されたわけですね。
あちらがバイオリンなら、うちの子にはピアノ…というように。

一方、母親からの愛と承認が欲しくてたまらなかったのが久美子さんでしたから、その時間がいくら苦しくとも、一生懸命練習に向かいます。こうしてお互いが分かち難く結びついてゆくのです。
このような関係を「共依存」と呼ぶのでしょうか?

いいだけ虐げられ、愛を与えられていない子どもが、喜びもないままピアノに向かったところで、どれ程の成果を上げられるものでしょうか?
もと中学校の教師であった母親の「教育虐待」は、さらにエスカレートし、続くのです。

 本書を読む中で、突きつけられたのが、おぞましく残酷な顔を持つ「教育」の姿でした。
もちろんそれは、教育の特殊な一面、行き過ぎた形ではあります。

しかしね、どうだろう?
教育の名の下におこなわれる「しつけ」との中に、黒く残酷なものが全く含まれていないと言えるでしょうか?


 私はどうだったでしょうか?
小さかった頃の私は、絶大な力を持った親との暮らしの中で、何を与えられ、何を感じ、生きのびてきたのでしょうか?
(親というものは、当人が自覚しようがしまいが、"絶大なる力を持った存在“として子どもの前に在るのだと私は思っています。)


kyokoippoppo.hatenablog.com


今まで、何度か貼り付けた過去記事です。
教育熱心で、感情の表現が激しかった母と私の関係が綴られています。

テストで良い点を取りたい(取らせたい)のは私ではなくて、実は母だったのです。
だからもう、「叱られる私」と「叱る母」の構図は出来上がっていたわけです。

私は、自分の行動を親の価値観に添うようにコントロールしましたし、自分の感情をありのままに出すことが、できませんでした。
 私は何が好きなのか、何が欲しいのか?いつも母のフィルターを通さないと判断力出来ないようになっていました。
これは私が、大人になってから気づいたことです。子どもの頃は意識できませんでした。
でも、身体は反応し、首をかしげたり、まばたきが増えたりしたものです。
・・・・これが「チック」と呼ばれるものであるということも、大人になってから知りました。

 母の叱責は、激しく、しつこく、長かった。
そして、その激しい思いは子を思う自分の愛情なのだ!という言葉も常にセットで伝えられました。
言葉の爆弾が降りしきる中、私はじっと耐えていました。 
亀が甲羅の中に首を潜めて自分を守るようにね。
そんな状態の中から、感謝も反省も湧きようないのにね。母はこのことには気づかないままでした。

 しかし、幸いなことに母は叱るばかりの人ではありませんでした。
たくさんたくさん可愛がってももらいましたし、遊び相手にもなってくれました。
私はその栄養をたっぷりもらい、我が子たちの子育てにおいて、その栄養を与えてやることができました。
ありがとうよ!
お母さん!

で、私自身の子育ては、どうであったか?
久美子さんのその後の生育歴と共に、次回以降に書いてゆきましょう。




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