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『わたくしがYES』

 読み終わったのに図書室への返却を引き伸ばし、手元に置いている本があります。

とても沁みましたの。
記事にこのことを書き残したいと思ったのですが、思いが多岐に渡り、まとめることが難しい。

諦めて返却という手もありますが、本書の中の1ページと、新聞切り抜きを抱き合わせにしたものなら何とか書き残せるかもしれません。
切り抜いては捨てられず、溜め込まれている紙類がたくさんあることは、今まで何度か話題にしております。
そして、最近はちびちびとそれらの選別に取り組んでもおります。
選別などせずに一気に捨ててしまえ!
と思われるかもしれませんね。
でもね、私、駄目なんです。

 で、この度も1枚の切り抜きを、記事に残した上で処分する、こんな面倒な手続きを踏む訳です。
その切り抜きがこちら。

2019.5.24の北海道新聞に掲載されていたものです。
このエッセイの執筆者は中山七里という方。

皆さんご存知ですか?
私はこの方の作品を読んだことはありません。
ミステリーを手に取ることが少ないのでなおのこと。失礼ながら、この紙面だけの出会いに留まっております。

 エッセイのタイトルは、『それでも作家になりたいか』。

作家稼業の大変さが綴られております。

よほどの重鎮かベストセラー作家でもない限り寡作で生活してけるはずもなく…

と書かれています。
受けた依頼を全てこなしてゆかなければ生き残ることはできない、というのです。
ご自身の例を次のように綴っておられます。


賢明なるあなたはもうお気づきだろうか、一日十七枚というペースを維持するには書き直しというものが一切許されないことを、休みというものがただの一日もないことを。つまり一発勝負で十七枚、それを毎日続けなければ連載に穴が開き、信用をなくしてしまうのだ。

締め切りと原稿督促の連絡に常時怯え、情緒不安定となり、さらには健康への不安も生じるというのです。
全ての作家が、とは言えないながらも、作家稼業とは、在宅にて、自信の才能の赴くままに優雅に書くようなものでないことが伺えます。

この切り抜きを読み、心に残り、保存までしておきながら私は、「本を出版した人は、相応の印税というものが手に入る人生の成功者である」
というイメージを貼り付けたままでおりました。

お国を前に涙する

 で、ようやく『わたくしがYES』の話題へと移ってゆきます。
この本は「少年アヤ」が本名で書いた初めての書き下ろしエッセイであるとのこと。

そもそも「少年アヤ」を知らない私です。
「アヤ」が何をどのように発信していたかも知りません。
私の(紙面上の)初対面時において、この人は「松橋裕一郎」と名乗る一人の人なのてした。

『わたくしがYES』より、とあるページの一部を紹介します。

松橋さんが、体調を悪くしたおじいちゃんに会うために、故郷へもどる日の出来事です。
電車に乗り込む前に松橋さんは、コロナ関係の貸付金のことで、とある施設に向かいます。

社協の人に、収入の少なさを責められたあげく、「お国から、お金を借りるんですよ。返さなきゃいけないんですよ。意味がわかっていますか」などと問い詰められ、意味のわかっていなかった私は泣いた。

松橋さんの涙をみた職員は驚き、だんだんと親身になってくれました。
松橋さんはその人に“わたしのなにでもない人生”などを語りたくなるのでした。

東京に置いてきた恋人と、マイノリティとしての人生と、社協の人の「お国」という言葉がぐるぐるして、いまのところ、家族の入ってくる余地がない。

社会の中での身の置き場が見つからない不安や惨めさを抱いて、松橋さんは故郷へと向かいます。
できるだけ座席の中にちいさく収まろうと肩をすぼめて、キャップを深くかぶりなおして。

 社会の中で…という以前に、家族や親族の中にあっても、松橋さんは安心して身を置くことができませんでした。
自分が何者なのか?が分からず、混乱して過ごす日々だったのです。

「少年アヤ」と名乗り、言葉を発信してきた松橋さん。
スマホで画像検索してみれば、ヒゲなど蓄えている人物が現れる。
しかし、松橋さんの性は、「透明」としか表現できないものなのです。

自分を「おかま」と称し、蔑みのポジションを定位置にした時期があり、後にその自傷のような呼称を外すと共に、「私は男です」と宣言したときもありました。何者かであらねばならない!というもがきの中から出てきた宣言だったのでしょうか?

しかし、最終的に還ってきたのはなにでもないという存在です。

 当たり前に「女」としての性を受け入れて、その役割を積極的に取り込んできた私には想像のできない心情です。ですから本書の中の、このこと関する箇所は、理解が及びませんでした。
しかし、この人の現実生活の描写とそれに伴う内面の描写は、胸に迫るものがありました。

 本書から抜粋した箇所は、エッセイのプロローグに過ぎません。
ここから、大好きなおじいちゃんとの別れまでが綴られます。
松橋家での家族の姿ややり取りが、ありのままに描写されてゆきます。

それにしても、我が家庭のさまがそっくりそのまま世に出されることを、家族はどのように受け止めるのでしょうか?

 「家族」が描かれる作品が好きです。
ノンフィクションて語られる“ありのまま”の描写は、“これでもか!”という勢いで私の胸に迫ります。

私は、多くの家族ネタをここに書き散らしてはきましたが、全てを書いてはおりません。とても書けません。

さてさて、
多面的な松橋さんを、この記事にてもれなく綴ることはできません。
興味を持たれた方は、本書を手に取って下さいませ。


 松橋さんには、既に数冊の著書があり、エッセイストとしての肩書は確立されているようです。

しかし、それがこの人(彼とは語りにくい)の経済基盤の確かさを示すものではないことは、中山七里さんのエッセイからも伺えますし、「お国」という言葉に打ちのめされた数年前の松橋氏の現実からも伺えます。

また、仮に執筆活動がほどよく経済状況に貢献できているとしても、松橋さんの
“生きづらさ”は、ついて回ると思われます。
しかし、少年アヤから脱皮し、松橋裕一郎となった人が生み出した本には『わたくしがYES』というタイトルが付けられました。
ひとりひとりの存在そのものが尊いということ。
味わう体験も、それに伴う感情も、それがどんなものであれ「YES」。
「YES!」....自身へ向けて、そして私たちにも向けられたエールなのです。

 わたしの本は、おおぜいの人には読んでもらえないだろう。取るに足らないエッセイとして、社会の片隅で消費されておわるのだ。差別も戦争も虐殺も止められない。
 それでも、存在はつづくのた。きっと思いもよらない形で、わたしの文章も、どこかで機能しつづける。そんな予感がしている。

少なくともこの人の文書は、私の中て機能いたしました。

 




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