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コルチャックとピウスツキ兄弟 ③

雨の中図書館へ

 f:id:kyokoippoppo:20200830062902j:plain:w250:left秋明菊が花開き、秋の到来を告げたものの、北海道らしからぬ厳しい残暑の2日間がありました。
一夜明け、昨日は激しい雨の音で目が覚めました。
居間にいくと、網戸のままの窓からは寒いほどの風が吹き込んでおり、北窓は風の運んだ雨で濡れていました。

午前中は、娘の家でしばし孫のお相手をしたあと、図書館へ。
その頃はどしゃ降り状態。
傘も持たずに出てきていた私は、早くも水たまりとなったアプローチを駆け足で館に駆け込みました。
読み終わった『ウォーリアーズ』(第二期 No.4)をカウンターに返し、司書さんたちとしばし雑談。
すると、
カウンタースタッフの一人が、
「あっ、今届いたはがりの本の中身はもしかしたら?」
と言って、手にした小荷物の包装紙をときはじめました。


「あら?何が出るかな?🎵何が出るかな🎵」
と私。

白い包み紙の中から出てきたのは
『コルチャック先生のいのちの言葉』でした。

私がリクエストした本の一冊です。
購入ができなかったため、それを所蔵していた近隣図書館(美幌図書館)から借りて下さったとのこと。
まさしくそれが、私の来訪を予期したように図書館に一足早く到着し、待っていてくれたのです。
(この本をリクエストしたいきさつはこちらに・・・)
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『ウォーリアーズ第二期No6』は、いったん脇に置きこれを読み始めております。

そして、本日は少しずつ歩みを進めている
『コルチャックとピウスツキ兄弟』
の続きを書くことにしましょう。
「ブロニスワフ・ピウスツキ」
「ユゼフ・ピウスツキ」
「ヤヌシュ・コルチャック」
の年譜を並べてみるという試みです。
自分の興味のままに始めただけのもの。
つまらないかもしれませんね。
スルーして下さってかまいませんよ。(ホントに!!)
とにもかくにも、私は少しずつ仕上げていくことに決めたのです。

主にコルチャックの人生を、柱にして書き進めるつもりです。
参考にするものは図書館で借りた『コルチャック先生』やWikipediaなどのネット情報です。
誤りのないように気をつけますが、見落としや誤認の可能性もありますことを、予めお断りしておきましょう。

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こちらの続きとなります。

1904年・・・日露戦争勃発
コルチャックはロシア軍の軍医として出征。

兵士たちのなかには多くの農村出身のポーランド人、ユダヤ人がいました。彼らは全く学校教育を受けていないので、読み書きはもとより、自分の名前すら書けないありさまでした。軍隊に入って初めて文字を学ぶ彼らには、戦争が何を意味するのかもわかりませんでした。

(『コルチャック先生』より)

そして、彼らにとってロシアは、祖国であるという感情も持ち合わせておりません、
ロシア軍にいながらも、ロシアが勝ちこれ以上の力を持つことを望むものはいなかったことでしょう。
戦争の前線に身を置いたコルチャックでしたが、彼の思いはどこにいても子どもたちに注がれていました。

「戦争で親を失った子どもがいちばん悲惨な犠牲者になるのです。」
彼はこのように訴えるのでした。

同年・・・ポーランドの独立を願うユゼフは、この戦争がロシアに不利に働くための工作を案じます。
     ユゼフ来日、日本に対しポーランド独立のための支援を要請。


~鉄道破壊など帝政ロシア軍に対する様々な工作するので、日本はポーランドの革命運動を援助してくれ~
~ロシア軍の捕虜として捕らえられたポーランド人にはどうか温情をかけてやってくれ~


このような交渉だったようです。
しかし、彼より先に日本にやってきていた右派の指導者ロマン・ドモフスキは、ユゼフが掲げる武力による革命はポーランドに不利に働くと考える一人でした。
ユゼフの考えに真っ向反対の立場。(捕虜の扱いに関しては同意見)
革命運動への援助はやめるよう、日本側に求めたのです。

日本は、ロマン・ドモフスキの意見に従いました。
ただし、捕虜となったポーランド人への優遇は約束し、果たしたのでした。



1905年1月・・・「血の日曜日事件」ロシア第一次革命のきっかけとなる。

1905年春・・1902年にアイヌのメノコチョフサンマと結婚したブロニスワフであったがこの春妻子を置いて日本に渡る。
ブロニスワフ日露戦争を考慮し樺太から出ようとするも、アイヌ首長のバフンケが、島から姪を連れ出すことに反対したため・・・このあたりのいきさつを私はまだしっかりつかめておりません。)


同年9月・・・日本勝利。ポーツマス条約が結ばれる。

日本へ渡航したブロニスワフは、二葉亭四迷大隈重信片山潜氏らと文化人と交流。
「日本ポーランド協会」を設立。
その後ポーランドへ戻りますが、すぐに欧州を転々とする生活となります。弟のユゼフ・ピウスツキと文通しながら、ポーランド独立運動に携わっていきます。

ロシアの革命運動は激しくなっていきました。革命弾圧のため、かなり多くの正規軍をロシア領ポーランド王国に残したために日露戦争に敗北したと言われたほどでした。

(『コルチャック先生』より)

このような状況下、ポーランンドの独立革命(第一次革命)の土壌は充分でき上がっていたはずですが結局失敗に終わります。

一転してユダヤ人への迫害、追及が始まるのです。
ユダヤ人が革命の首謀者であるとか、戦時下にあって親日的であったというような非難が向けられるようになります。

コルチャックが日露戦争から戻ったのは、第一次ロシア革命の最中でした。ワルシャワにもたくさんの負傷者がでていました。
子ども病院、ワルシャワ慈善協会、出版活動と彼は毎日仕事に追われ、とくに子どもたちのために懸命に働きました。社会主義者、教師、ジャナリスト、若い法律家、他の医師の子どもたちのために無料診療活動が続きました。

おやおや・・・たった2年年表が進んだだけ!!
コルチャックの登場も少なめでしたね。
こんな調子で良いのかしら??

まあ、時間の制約を設けず気ままに進めましょう。
それと・・・本日の『偶偶石』の記事はお休みさせていただきます。




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