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「Computer Game as Narrative」_メモ

はじめに

 講演会で「ナラトロジストの人は具体的に何を物語と呼んでいたのですか」についてちゃんと答えられなかったので、勉強も兼ねて『Avatars Of Story』8章を読み直しました*1。まとめると、おおよそ「虚構世界+人間(likeなもの)が出来事を起こす」がライアンのいう物語の基準と言っていいと思います*2
 ライアンを紹介したい理由は他にもあって、ルドロジー vs ナラトロジー論争において、ルドロジストの主張を検証してまともな反論をしている数少ない論者であるからだ。ルドロジストの主張の理解が間違っている*3など色々注意して読むべき部分はあるが、ライアンの議論やライアンが提示した論点はそれなりに検討に値するものがあると思う。少なくとも、ルドロジストも今見るとそれなりに脇の甘い議論をしていることがわかるはずだ。

(追記:2026年1月4日)
 ここでライアンの議論の整理と私見について簡単に述べようと思う。ライアンの議論は「ナラトロジストは物語を定義していない」というルドロジストの批判に応えたものであると言える。ライアンは物語を「受け手の心にストーリーを喚起する意図をもって制作された記号論的物体」(Ryan 2006, 11–12)と定義している。要は、その物体がストーリーを伝えるために作られたのならば、それが何であれ(小説、映画、演劇、漫画etc...)物語であるということだと思われる*4。ライアンは、ルドロジスト(というかエスケリネン)の定義についても批判を行っている。ライアンが言わんとすることは、ルドロジストはゲームが物語に含まれないように定義を恣意的に選んでいて、昨今の物語論(正確には認知物語論)における定義論を踏まえるのであれば、むしろ一部のゲームは物語であることを認めるべきだということだろう。この批判が的を得ているのかはともかく、「物語をどう定義するべきか」というより生産的な問いを提示しているのは良い点だと思う。
 気になっている点についても指摘する。記事を読んでもらえればわかるのだが、ライアンは物語と物語性を混同して論じているように見える。物語性(narrativity)とは、あるものが物語であるかそうでないかを区別する性質全般を指す用語だが、ここでは受け手がある出来事をストーリーとして理解するかどうかを指す用語として使われているように見える 。ライアン自身が指摘しているように、この意味での物語性で問題になっているのは、受け手がそれをどう受け取るかであり、作者が何を意図してそれをデザインしたかは問題にしていない(Ryan 2006, chap. 1)。「あるものが物語である」と「あるものに物語性がある」は本来区別して論じるべきことであるはずだ。ルドロジストは物語性については特に言及していないので、少なくとも、ゲームの物語性を議論に混ぜるのはルドロジストの応答としては不適切だと思う。
(追記終わり)

 

computer game as narrative_メモ

  •  ルドロジー vs ナラトロジー(物語主義)*5論争には誤解がある*6
    • ルドロジストは物語論を援用しているのに対し、ナラトロジストには、ルドロジストが自身の擁護のために仕立てた藁人形や、 “narrative” や “story” などの用語を不用意に用いるゲームデザイナーや理論家が含まれているからだ。
  •  次の3点について取り上げる。
    • 理論的な問い:
       ゲームは物語になりうるか、あるいは物語性を持ち得るのか。
    • 美的・機能的な問題:
       ゲームシステムにおける物語の役割は何か。
    • 方法論的・実践的な問題:
       ゲームにおいて物語の概念はどのように活用できるのか。

理論的な問い

  •  コンピューターゲーム*7は、具体的な設定(虚構世界)の中で具体的な物体(アバター)を操作するものとしてプレイを組織化する傾向にある。
  •  プレイヤーの行為により虚構世界が進展する(evolve)のであれば、コンピューターゲームは物語の基本的な構成要素を全て備えていると言える。
    • 物語の構成要素:キャラクター、出来事、初めの状態から終わりの状態への軌跡など
  •  しかし、ルドロジスト(エスペン・オーセト、ゴンザロ・フラスカ、マック・エスケリネン、イェスパー・ユールなど)は、「ゲームはゲームであり、物語ではない」という暗黙のスローガン*8の元に集結した。
    • ルドロジストの動機は、コンピューターゲームを文学理論から独立させ、自律した学問分野に転換するという野心にある。
    • ルドロジストはゲームをゲームたらしめ、あるゲームと他のゲームを区別するのは、ルールの集合でありストーリーではないと考える。
    • ルドロジストは「ゲームプレイ」に焦点を当てることで遊びの次元を正当化するアプローチを展開しようとしている。
  •  ルドロジストはこのキャンペーンに物語論を援用している。
    • 物語論は文学フィクションの研究として発展したため、その創始者*9による物語の定義は他の形式のストーリーテリング(映画や演劇など)を排除する排他的なものになっている。
    • 特に、ルドロジスト(例:Eskelinen 2001, 1)はジェラルド・プリンスが1987年に提唱した定義を支持している(しかし、その定義は筆者自身により後に訂正されている)。
      • 「物語:一人以上の(大なり小なり明白な)語り手により一人以上の(大なり小なり明白な)聞き手に伝えられる一つ以上の現実または虚構の出来事を...物語る(recount)こと。多くの魅力的な出来事を表象する演劇の上演は物語を構成しない。なぜなら、これらの出来事は物語られるのではなく、舞台で直接起きるからだ」(Prince 1987, 58)
    • この定義を採用すれば、演劇と同様にゲームも物語から排除できる。
  •  しかし、今日の物語研究のトレンドは物語を言語から切り離し、メディア横断的に適用できることにすることだ。
  •  ここからはルドロジストの議論を検証し、反論する。

「ゲームと物語は異なる。なぜなら、両者は異なる特性を持っているからだ」議論

  •  この主張やゲームにはない文学や映画の特徴を列挙することで成り立っている。

    1. 議論:
       物語には「語り手と聞き手の存在」が必要である。したがって、ゲームでストーリーが構築されていたとしても、ゲームは物語ではない。

      • 反論:
         それは物語を言語ベースのものに限定する立場をとっているからに過ぎない。映画理論家のデイビッド・ボードウェルによれば、語りは記号がストーリーという心的構築物を呼び起こすように配列されている時に生じ、語り手の発話行為を必要とするわけではない*10。また、映画がボイスオーバーによる語りを提示できるように、ゲームも語り手を持つことが可能だ*11

    2. 議論:
       ゲームは物語になり得ない。なぜならゲームは物語内容と物語言説の区別する出来事の再配置を許さないからだ。「ゲームはフラッシュバックやフラッシュフォワードといった基本的な物語の操作をほとんど行わない。ゲームはほとんど時系列順である」(Juul 2001, 8)

      • 反論:
         カットシーンでは時間の操作は普通に行われている。また、インタラクティブなシーンにおいても、ゲームをリセットするなどして前の状態に戻すことができる点でフラッシュバックは存在する*12

    3. 議論:
       物語の出来事の順序は固定されているが、ゲームは順序に対し開かれている。

      • 反論:
         全てのゲームが開かれた一連の出来事を持つわけではない。進行型ゲームは、指定された順序で課題を達成する必要があり、マクロレベルで固定的な構造があると言える。順序の自由は出来事の一貫性を破壊する可能性があるが、それも可能な行為を適切に制限すれば解決可能だ。

    4. 議論:
       物語は出来事を過去として表象するが、ゲームにはそれができない。小説は時制により語りの時点と語られた出来事の時点の間の時間関係が提示され、時制がない映画や演劇の場合でも、観客には提示された出来事は〈今〉起きてい〈ない〉という感覚がある*13(Juul 2001, 7)。一方で、ゲームの場合、「すでに起きたことに影響を与えるのは不可能である*14。これは〈インタラクティブ性と語り*15を両立することが不可能〉であることを意味する」(Juul 2001, 8)。
       また、語り手は記憶を元に素材を選択し、物語のパターンに構築するため、出来事の過去性は必須であるとする議論もある。

      • 反論:
         反例となる過去の出来事を振り返ない物語はたくさんある。例:仮想の歴史、政治家の公約「私を選んでくれたら、これこれが起きるだろう」、再臨や最後の審判などの大きな物語、スポーツ中継のリアルタイムな物語。
         また、映画や演劇は(たとえ過去が舞台*16だとしても)出来事を今起きているものとして経験する。小説でも読者は没入すると自分を過去に移動させ、時制の使用にかかわらず物語を今として経験する。経験のレベルでの違いは表面的なものに過ぎない*17

  •  そもそも、エスケリネンやユールが指摘する違いを認めたとしても、それはゲームがストーリーを提示できないことを意味しないだろう。単にストーリーを提示する様式が異なるというだけに過ぎない。

     

「ゲームはシミュレーションで、物語は表象である」議論

  •  議論:
     フラスカは、物語は本質的に表象であるのに対し、ゲームはシミュレーションであり、両者は両立しないと主張している。
    • 「シミュレートするとは、(元の)システムを異なるシステムを通じて(誰かのために)そのシステムの挙動(behavior)の一部を維持したままモデル化することである」(Frasca 2003, 223)
    • 表象はあくまで一つの動的なプロセスを提示するのに対し、シミュレーションでは同じプロセスの複数のイメージを提示できる。
  •  反論:
     確かに、シミュレーション自体は物語と呼べないが、シミュレーションは出来事が展開する世界のイメージを作り出している。
    • 個々のゲームプレイにおいて生み出されるイメージがストーリーを構成するのであれば、ゲームはストーリーを生成する機械になりうる。
    • ゲームを物語機械として認められないのは、言語的な語りしか認めていないからである。私はシミュレーションも語りの様式として認めるべきであると提案する。

「ゲームは人生と類似しているが、人生は物語ではない」議論

  •  議論:
     オーセトによると、ゲームの経験に対する適切なモデルは、小説や映画の鑑賞ではなく人生そのものである。
    • 類似点1:
       ストーリーはその結果が読者に関するものではないが、ゲームは人生同様にその結果(勝利、敗北)がプレイヤー本人に関するものである。
    • 類似点2:
       小説や映画は鑑賞者が関与することができないが、ゲームや人生はプレイヤーの選択や行為により展開される。また、ゲームの経験は何かを受け取ることではなく、行為により出来事を起こし探求することである。
  •  反論:
    • 類似点1:
       ゲームでの勝敗はゲームの中でしか関係を持たないという点で、現実の利害関心とも異なるものである*18。さらに、物語ゲームの場合は、勝敗はプレイヤーではなく、むしろアバターの利害関心と結びついている。利害関心の結びつきという点ではむしろ文学や映画に近いといえるのではないだろうか。
    • 類似点2:
       プレイヤーはスクリーンの表示を見ながらプレイするという点で、ゲーム経験は受容の側面がある。ゲーム経験は人生と同じというよりは、人生と映画の中間にあるという方が適切である。問題はどちらにより近いかであるが、ゲームにおけるプレイヤーの行為はあくまでそういうフリ(pretend)をしているだけで、現実の利害関心に直接的な関わりを持たないことを考えると、やはりゲームを物語と対立させるのは誤りだろう。

ゲームについてのストーリーを語ること

  •  プレイヤーはしばしばゲームの経験をストーリーの形で語り直すことがある。
  •  これはゲームに物語性があることを意味するのか*19。ルドロジストはそうは考えていない。
    • 実際に行為を行うこととそれを見る経験は異なる。
    • ゲームはストーリーの素材を提供するが、ゲームそれ自体がストーリーであるわけではない。
  •  私は中間の立場を擁護する。すなわち、物語であるゲームもあればそうでないゲームもある。
    • ゲームが物語になるためには、抽象的な深層構造*20の類似だけではなく具体的な表層構造*21の類似も必要である。
      • チェスよりもスポーツの方が語り直しに適しているのは、スポーツ中継がゲーム上の行為に現実世界と人間の利害に関わる情報を付け加えるからだ*22
  • コンピューターゲームでも虚構世界が表象され、ゲームの目的が登場人物の具体的な目標に関わるのであれば、語り直しを引き起こすだろう。
    • 語り直しを生のゲーム経験と混同してはならないが、語り直しは物語の内容を伴う心的行為がゲームプレイ中に生じることを示している。
  • プレイヤーは過去の失敗から学び、展開していくゲームのストーリーを心的に構築することで、未来のための戦略を練る*23
    • 私たちはゲームについてストーリーを語ろうとする本能が強ければ強いほど、私たちは〈ゲームを物語的に(narratively)経験した〉ことが強く示唆される。

美的そして機能的な問い

  •  ルドロジストは自説の擁護のために美的な議論*24も持ち出している*25
    • おおよそコンピューターゲームのストーリーは、あったとしてもあまり面白くなく、文学のような繊細なテーマを扱えないというもの。
    • 他にも、ゲームと物語は相性が悪いという指摘もある。
  •  多くのコンピューターゲームにおいて、物語のデザインはプレイヤーの動機づけとして利用されている。
    • この物語の従属的な役割は、ゲームを従来の物語ジャンルと対比する理由に使われがち。
  •  しかし、ストーリーを目的達成の手段として用いる例は他にもある。
    • 例えば、説教、哲学の文章、政治演説、広告などは寓話や物語を例に持ち出すことで目的を達成する。
    • 他にも、オペラは主にプロットではなく音楽で評価される。プロットは音楽に対し従属的な役割を果たす。
  •  したがって、物語が従属的な役割を果たすことは、それが物語でないことを意味しない*26
  •  一方で、物語がゲームの経験に重要な役割を果たすゲームもある。
  •  こうした戦略的思考と想像力を組み合わせたコンピューターゲームでは、ルールと物語が互いの欠陥を補っている。
    • ステレオタイプなストーリーはルールによって補うことができる一方で、オリジナリティがないルールは物語でパッケージすることで改善できる。
  •  そもそも、物語をゲームのための道具としてみる見方はゲームの経験を一面的にしか扱えていない。
  •  ロジェ・カイヨワはゲームを「ルドゥス」と「パイディア」の2つに区別しているが、コンピュターゲームは両者を組み合わせることに成功している。
  •  プレイヤーの態度もルドゥス的なものとパイディア的なもの2つに分けることができる。
  •  物語は常にゲームプレイに従属しているわけではなく、時にプレイの目的になることがある。

方法論的な問い

  •  ルドロジストと物語主義者の対立点は、ゲームの性質ではなく「物語」の範囲にあるのかもしれない。
    • (認知)物語論者にとって、行為者の行為によって出来事が展開する虚構世界が描かれることは、ある記号的人工物が物語性の条件を満たすのに必要なすべてである。
    • ゲームにこの性質があること自体を否定するルドロジストはいない。
    • そもそも、私はゲームが小説や映画と同じであると主張する物語主義者を知らない。
  •  イェスパー・ユールは虚構世界という概念を認めることで物語主義者に歩み寄っている。
  •  しかし、それを「物語」と呼ぶにしろ「虚構世界」と呼ぶにしろ、これらの用語は代替現実に没入するというコンピューターゲームの重要な次元を捉えている。
  •  以下に示すように、物語の概念はルドロジー的な研究に貢献する。
    • ヒューリスティックな物語の使用の研究:
      • 抽象的なルールのみを提示するより、そこに具体的な事物やストーリーを加えた方が、プレイヤーはルールを効率的に理解できる。
    • 物語の役割や現れ方(manifest)の探求:
      • あらかじめデザインされている筋書き
      • プレイヤーが自身の行為を通じて作り出す物語
      • NPCにより語られるミクロな物語
      • プレイヤーがゲームの提供する素材(スクショなど)から作り出す物語*28
      • 物語によりプレイヤーをゲームに引き込む
      • 物語によりプレイヤーに報酬を与える
    • ゲームの物語の構造タイプの記述:
    • ゲームのストーリーが動的に展開される方法の研究:
      • ゲームのストーリーはどのようにして生じるのか
      • プレイヤーの行為はプロットにおいて不可欠な部分なのか、それともストーリーにアクセスする手段に過ぎないのか
      • アバターの情報が限られているなかで、プレイヤーはどのようにしてキャラクターにとって有意味な行為をとることができるのか
      • アバターNPCの会話のどの要素が遊びに貢献し、どの要素がキャラクターと虚構世界を肉づけるのか。
    • 虚構世界のオブジェクトとルールの対応づけ:
      • ルールが付随する虚構世界内のオブジェクト
      • ルールが付随しない虚構世界内のオブジェクト
      • ルールが付随する虚構世界外のオブジェクト
    • ゲームプレイと物語の繋がりを評価する:
      • ルールと物語の間には必然的な繋がりがあるのか。
      • ゲームの課題は物語の主題から生じるのか。
      • プレイヤーが課題を解く時、プレイヤーはその行為の物語的な論理を理解しているのか。
    • ルールやルールが生み出す出来事が一貫しているのかを問う:
      • 例えば、『The SIms』ではお金がなくても冷蔵庫に常に食べ物があるのはなぜか。
      • ユールは虚構世界によりルールに実装されていない行為が可能であるかのような印象が与えることを指摘している。
  •  ゲーム研究で物語の概念を用いるのは、コンピューターゲームの想像的次元を捉える*30(come to terms with)ことにある。
    • ルドロジストのアプローチはルールの次元、ハードコアゲーマーの視点に偏っている。
  •  私は虚構世界が行為者性の空間とどのように関係しているのかを研究するアプローチ、ルドナラティヴィズム(lodo-narrativism)を提案している。

参考文献

  • Eskelinen, M. 2001. “The Gaming Situation.” Game Studies 1(1). 14. http://www.gamestudies. org/0101/eskelinen/.
  • Juul, Jesper. 2001. “Games telling stories? -A brief note on games and narratives.”  Game Studies, 1 (1). https://www.gamestudies.org/0101/Juul-gts/
  • Prince, Gerald. 1987. A Dictionary of Narratology. Lincoln, NE: University of Nebraska Press.
  • Ryan, Marie-Laure. 2006. Avatars Of Story. Minneapolis, MN: University of Minnesota Press.

*1:ヘンリー・ジェンキンスの論文はすでにいろんな人が翻訳しているのと、昔僕が作った全訳が消失して(萎えた)ので、なしでお願いします。

*2:同じ話はすでに別の記事でもやっていた(https://kusoani-ken.hatenablog.com/entry/2025/04/07/013731)。

*3:とはいえ、それだけルドロジストの主張は誤解されやすかったということなのかもしれないが。注(Ryan 2006, chap. 8, n. 14)を確認するにライアンはフラスカらの訂正を読んだ上でこれらの反論を展開している。

*4:詳細は過去記事参照(https://kusoani-ken.hatenablog.com/entry/2025/04/07/013731)。

*5:ルドナラ論争におけるナラトロジストは「ゲームは物語だ」と主張する論者のことだが、これは普通の意味でのナラトロジストとは異なる。「ナラトロジスト」は本来物語論の研究者を指す言葉だからだ。そのため、一部の論者は「ナラトロジスト」の代わりに「物語主義者」という言葉を用いている。ライアンはほぼ両者を同じ意味で用いている。

*6:要は、ルドロジスト側は派閥を構成しているが、ナラトロジスト側はそれっぽい論者が一括りにナラトロジストと扱われていて、それが原因で、ナラトロジストの主張全体が説得力がないように見えがちであると言いたいのだと思う。

*7:ライアンは「ビデオゲーム」と呼ぶこともあるが、意味に特に違いはないので「コンピューターゲーム」に統一する。

*8:これはライアンが勝手にそう推測しているだけ。

*9:1章との整合性を考慮するなら、ここで創始者と呼ばれている人物は文学研究としての物語論創始者であり、物語論それ自体の創始者ではないことになるだろう。1章では、物語論創始者としてロラン・バルトとクロード・ブレモンが挙げられ、彼らはメディア横断的な学問分野として物語論を提案したことが紹介されている(Ryan 2006, chap. 1)。僕は該当の文献を読んでいないが、彼らが排他的な定義を作るのは矛盾しているだろう。したがって、ここで「創始者」と呼んでいるのは、ジェラール・ジュネットあたりなのではと思う。

*10:要は、その記号が表す内容がストーリーになっていれば物語にカウントできるという立場をとっている。厳密には、なぜそっちを物語の定義として採用するべきかの正当化が必要になるが、少なくてもルドロジストに対しても同じことが言えるので、反論としては十分か。

*11:ドラクエ』で言うなら「スライムを たおした」などのUIによるメッセージのこと。

*12:『Sims』の例を見るにおそらくリセットしセーブ前の時点に戻ることをフラッシュバック扱いしているが、リセット後の時系列はリセット前の時系列と分岐する以上、それはフラッシュバックではないだろう。

*13:感覚の話をされてもなぁと思うが、ユールを擁護するなら、時制がない映画や演劇にも語りの時間に相当するものがあるのではということだろう。映画研究の中には映画的語り手なる何らかの方法で映像を提示する存在者を提案する論者もいるが、その仮定を受け入れるのであれば、映画にも時間的隔たりがあると言えると思う。

*14:ここら辺は現実のレベルと虚構世界のレベルがごっちゃになっていると思う。

*15:少なくとも、ジュネットのいう意味での語りならそんなことはないと思う。というのも、僕の理解では語りも作中世界の事実の一つ、つまり、語りとは、作中世界の人物が何らかの出来事を語ることだからだ。現に『Final Fantasy VII Rebirth』でクラウドの操作可能な回想シーンでクラウドは語り手の役割を果たしている。語りが現実の作者による行為であるなら話は別。

*16:ライアンは例えば字幕で「1942年」などと表示される事態を想定している。

*17:ユールとは異なる経験の記述を持ち出すことで、誰もが同じ経験をしているとは言えないことが示された点で、反論は成功していると言っていいと思う。一方で、ユールが「感覚」で言おうとしていることが語りの時間と物語時間の間の距離に関するものであるのならば、ライアンはユールとは別の話をしていることになり、反論としては少し微妙になると思う。

*18:この部分はマジックサークルと同じ種類の議論をしていると判断し、結構大胆に言い換えている。それはそうと、オーセトが言っているのは、行為の結果が誰に帰属されるかなのでライアンの反論はズレている。これはゲームにフィクションが含まれていても同様で、例えば、格ゲーで勝った場合、この勝利には「プレイヤーが対戦相手にゲームに勝利した」という意味と「プレイヤーキャラクターが敵の格闘家に勝利した」という意味の2つの勝利が重なっているだけだ。というか、ライアンはメカニクスのレベルの話とフィクションのレベルの話を混同している。

*19:作品の鑑賞経験は作品の内容とは異なる。例えば、あなたが映画を見てどのように感情が動かされていったのかを語り直せばストーリーになるかもしれないが、それは映画のストーリーではない。同様の理由で、ゲームの経験を語り直したとして、それはゲームのストーリーではない。両者が別物である以上、この問いは否にしかならないと思う。
 また、ここでは実際には経験を問題にしているのではなく、虚構世界内部の出来事の語り直しを問題にしているのだとしても、語り直しからゲームにストーリーがあることは導けない。例えば、日常生活はストーリーではないが、ストーリーの形で語り直すことができる。反例が挙げられる以上、この問いは結局否にしかならないだろう。

*20:深層構造とは何かライアンは具体的に説明していないが、ゲームメカニクスが生み出す事態や出来事間の構造や意味に物語のそれと類似したものがあると言いたいのだろう。

*21:表象構造についても特に説明はなさそうだが、ここで問題になっているのはゲームメカニクスと虚構世界(あるいは現実の事物)にある種の対応関係があるか否かということだと思う。

*22:ライアンは4章でスポーツ中継を物語の陳述行為の一種として分析しているが、ここで問題にしている語り直しが中継の実況のことなのか、観客や視聴による語り直しなのか、また、語り直しが引き起こされる要因がスポーツ自体にあるのか中継にあるのかよくわからない。
 あと、ここで指摘しているのは、スポーツは選手たちの物語として語り直されるということだと思うのだが、それならば、チェスも同様に指し手たちの物語として語り直すことができるのではないだろうか。実際に、『ヒカルの碁』や『りゅうおうのおしごと!』など抽象的なゲームを題材にした物語作品は作られているわけだし。

*23:ここは結構面白い論点だと思う。物語の哲学を調べていると、物語が思考のモードの一つであるとか、中には行為の決定にも関わるという議論を見かけることがある。物語の哲学で問題にしているのは現実の物事についての物語だが、ロールプレイをしているプレイヤーはこれのフィクション版をしていると言えるかもしれない。

*24:この議論にはルドロジストだけでなく、ゲームデザイナーの発言も含まれる。

*25:ライアンの書き振りだと、ルドロジストが理論的な議論で分が悪いと見るや論点をすり替えようとしているかのように聞こえるが、これはある種のレトリックであり、実際には単にルドロジストの価値観が反映されているだけだと思う。

*26:ここら辺は、ゲームと物語の概念間の関係の話をしているのか、それともゲームを物語の観点から分析する意味があるのかという話をしているのかごっちゃになっている気がする。ルドロイジストがそのような主張をしているというがライアンの認識なのかもしれないが。

*27:まあ、そうかもしれないが、これはRTAや緑の悪魔と同じで意図された仕方のプレイでないのには注意が必要だろう。

*28:これはおそらく『The Sims』のスクショの話を指している。

*29:ユール自身はゲームの分類として提示しているので、言い換えていることは明示した方がいいと思う。

*30:come to terms with自体は受け入れるという意味であり、ライアンもそういうニュアンスを持たせている感じはする。




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