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What's my motivation ?_メモ

 主にプレイヤーの動機がビデオゲームの物語の解釈にどう影響するのかを論じた論文*1。特に、プレイヤーが「プレイヤーキャラクターならどうする?」とその時のキャラクターの動機を想像して行動を選択する場合、その想像された動機がそのキャラクターの動機について正しい解釈となり得るかを問題にしているように思える(筆者はそんなはっきり言っていないが)。
 例えば、TRPGだとプレイヤーキャラクターが何を考えてその行動を行ったかまでプレイヤー自身が決定できる(そうしている)が、ビデオゲームではなかなかそうはいかないということなのだと思う。その理由は色々あると思うが、ビデオゲームの物語*2はいわゆる「意図的な伝達のための人工物」(Currie 2010)の側面が大きく、キャラクターの特性を判断する上でビデオゲームが描く内容が強力な根拠になるからであると思う。
 筆者はある一つの問題に対して結論を出しているというよりは、論点整理の側面が大きく、論じているトピック自体が結構多岐にわたるため、全体として何が言いたいのか分かりにくかった*3。正直読んでいて理解できている気があまりしない...。あと単純に出てくる用語がどういう意味で使われているのか判断がつかない箇所がいくつかあった。
 そんなわけで以下の要約ではあまり敷衍せず、筆者の表現をそのまま残している部分がある。論文の内容を知りたい人は実際に自分で読んだ方がいいと思う。

1. 問い*4

 筆者はビデオゲームのようなインタラクティブな物語において、プレイヤーの行為や動機が物語の解釈、特にキャラクターの動機についての解釈にどう影響するのか(影響するのか)を問題としている。例えば、『Until Dawn』ではプレヤーキャラクターのクリスが二人の友人のうちどちらかしか助けられない状況に遭遇する。どちらを助けるかはプレイヤー自身が決めることになるが、この時、クリスはどういう理由で二人のうち一方を選択したのだろうか。プレイヤーはなぜそのような選択をしたのだろうか。これらの理由は物語に解釈に対し何を意味するのだろうか。

2. 予備的考察_解釈

 筆者は予備的考察として解釈に関わる問題を三つ挙げている。

どの解釈を問題としているのか

 作品の解釈として、暗示された作品の内容を理解や作品の意味(モチーフ、主題、その他の芸術的デバイス)の理解などが考えられるが、常に明確なわけではない。今回は前者が問題になっているが、後者にも関わっているかもしれない。

正しい解釈を複数認めるのか

 作品の解釈には正誤をいうことができるが、私たちは単一の正しい解釈を認めるべきなのだろうか、それとも複数の正しい解釈があることを認めるべきなのだろうか。私はビデオゲームには複数の同等に正しい解釈があると主張するが、それは部分的には一つの作品に複数のディスプレイ*5がありうるからである。

ビデオゲームは上演芸術と同様に解釈できるのか

 演劇などの上演芸術の場合、上演者による作品の解釈も参照することができるだろう。上演者は作品の解釈*6を通じて上演にさらなる芸術的特性を加えることができる。ビデオゲームのプレイも上演と表面上は類似していることを考えると、この種の上演(〈解釈的上演(interpretive performance)〉)がビデオゲームの物語でも何らかの役割を果たしているかもしれない。

3. 三つの論点

 筆者はプレイヤーキャラクターの動機の解釈において重要となる論点を3つ挙げそれぞれについて検討している。

A. インタラクティブ

 インタラクティブ性がどのようなものかについて、ここではベイズ・ゴートの見解を採用する。「ある作品がインタラクティブであるのは、〈観客〉の行為が部分的に作品の事例と特性を決定するのを認める場合のみである」(Gaut 2010, 143)。ここで重要なのは、インタラクティブな作品のユーザーは観客と上演者の役割を兼ねている点にある。
 この定義を踏まえると、インタラクティブな物語を持つビデオゲームは、プレイヤーの行為が物語の内容の特性を部分的に決定するものに限られ、全てのビデオゲームの物語がインタラクティブであるわけではないことになる。例えば、『BioShock Infinite』の物語は主に非インタラクティブカットシーンで構成され、プレイヤーの行為はストーリーにほとんど影響を与えない。
 『Until Dawn』にはインタラクティブな物語の内容が大量にあるが、プレイヤーの行為を反映する過程に少し特徴がある*7。プレイヤーの行為が物語の展開にどのように影響を与えたのかは「バタフライ・エフェクト」と呼ばれるメカニクスによって追跡することができるが、この影響は文字通りものすごく間接的である場合がある。また、チャプターと幕間に精神分析医(ドクター・ヒル)とプレイヤーキャラクターとの会話が挟まれるが、そこで行った回答がビデオゲームの物語にも反映される(ゴキブリが怖いと答えたら、ゴキブリが登場する)。

B. 解釈的上演

 インタラクティブ性の主張と合わせて、このようなゲームプレイを芸術的上演の1種とみなす主張がある。ビデオゲームの場合、プレイヤーの入力によりフィクションの内容の一部を決定することができる。ただ、このプレイヤーの行為が上演芸術における上演と同じであるのか疑問に思うかもしれない。プレイヤーは脚本で指定された内容を演じることを目的としているわけではないし、自分の行為がフィクションにどう影響しているのか知らない場合すらあり得るからだ。
 しかし、このことにより直ちにゲームプレイが解釈的上演から除外されるわけではない。ベイズ・ゴートは芸術的上演には二つの側面があると主張している。

  • 順守(compliance):
     その上演がその作品の事例とみなされるのに必要なことを実行すること。
  • 解釈(interpretation):
     「批判的な解釈を示唆または基礎とする」(Gaut 2010, 145)方法で要求される以上の特性を生成すること。

 ゴートはビデオゲームの順守の多くは「自動化されている」と指摘している。「自動化された順守は観客が伝統的な芸術形式...とは異なり、インタラクティブな作品の特性の多くを知る必要がない理由を説明する」(Gaut 2010, 146)。
 芸術的な観点からゲームプレイで興味深いのは解釈の側面だろう。プレイヤーは事例を生成するのに必要なものを超えてゲームを探索したり実験することで、作品の構造や意味に光を当てる内容を引き出すのだ*8。この解釈的上演には繰り返しプレイすることでプレイヤーの決定がどのように世界に影響を与えるのかを探索することが含まれる。ビデオゲーム全体の意味についての解釈はこの繰り返しのプレイに依存するだろう。例えば、『Dishonored』で暴力的にプレイした場合、暴力を避ける場合よりもはるかに混沌とした世界になる。プレイヤーは『Dishonored』を繰り返しプレイすることで、自分の環境は自身の振る舞い次第であり、暴力は暴力を生むという主題を表現していると解釈するだろう。
 上記の指摘はビデオゲームが演劇や音楽と同じ意味で上演芸術であることを意味しないが、上演を含む芸術として説明することは可能だ*9

C. プレイヤーキャラクター

 以前論じたように、プレイヤーキャラクターはプレイヤーの「認識的・行為者的な代理」として機能し、プレイヤーがビデオゲームの世界に虚構的に「足を踏み入れる」ことを可能にする*10(Tavinor 2009, 61–85)。全てのビデオゲームにプレイヤーキャラクターがいるわけではないが、それでもなお、プレイヤーキャラクターはプレイヤーの上演が物語に寄与するための重要な手段である。
 「プレイヤーキャラクター」という用語は2つの指示対象が混ざり合っている点で興味深い。例えば、FPSで自分のキャラクターが死んだ時、「あなたが私を殺した」ということができる。この見かけ上の同一性は形而学的混乱を招く*11。例えば、この論文のタイトル「私の動機は何?」は誰の動機のことなのか。
 このプレイヤーとプレイヤーの見かけ上の同一性は、ビデオゲームのフィクションがプレイヤーに指定する想像の内容に由来する。というのも、ビデオゲームのキャラクターは実在しているわけではないので、プレイヤーは実際に何らかの意味で同一化しているわけではないからだ。プレイヤーは虚構世界内部で役割*12(role)を引き受けることを想像するのだ。ビデオゲームはこの種の役割によりプレイヤーの行為を通じて虚構的内容を生成することを可能にすることで、「自己関与型フィクション」(Robson and Meskin 2016)を強化している。
 プレイヤーキャラクターはプレイヤーのアフォーダンスの地点を提供するため、上演と解釈の焦点となる。プレイヤーのアフォーダンスの多くはプレイヤーキャラクターの行為や決定として具体化され、『Until Dawn』では自らが直面する状況に対しキャラクターがとった行動から物語が構成される。これにより、なぜプレイヤーキャラクターがその行為を行ったのかという疑問が生じうる*13。また、この種の疑問は物語の意味と密接な関係があり、解釈的上演の一部はキャラクターの動機を演じ解釈することに関わっている。

4. ビデオゲーム特有の解釈の問題

 ビデオゲームはプレイヤーが決定を行いそれを元にアルゴリズムが事例を生成する。そのため、〈作品〉それ自体はプレイ前に定まった内容を持たず、ゲームプレイを通じて事例の内容が具体化される*14。そのため、ビデオゲームの物語は非インタラクティブな物語にはない解釈の問題を引き起こす。筆者はここでビデオゲーム特有の解釈の問題として、プレイヤーの上演における解釈*15が作品そのものの解釈に影響を与えうるのかについて考察している。

解釈的上演は作品解釈に影響を与えるのか*16

 一つ目の問題は先ほど挙げたように、ビデオゲームには複数の可能なプレングがあり得るため、作品の意味を理解するには繰り返しプレイする必要があること。
 二つ目はプレイヤーキャラクターの動機の解釈について。プレイヤーキャラクターの動機が曖昧な場合*17、その動機の解釈は作中の描写だけでなく、それを決定したプレイヤーが想像した理由にも依拠するかもしれない。この解釈は決定の前にも後にも行われる可能性がある。つまり、同じエンディング*18に到達したとしても、プレイヤーがどのようにキャラクターの行為や動機を解釈するかによって、複数の「正しい」解釈があり得る。
 もちろんプレイヤーは何でも自由に解釈していいわけではない。プレイヤーの解釈はビデオゲームアルゴリズムや芸術的資源の制約を受けるし、作者の意図*19を無視することはできない。とはいえ、『Until Dawn』の場合、プレイヤーが動機を想像する余地がある程度には、キャラクターの思考について大部分は沈黙したままになっている。
 一部のゲームはプレイヤーの自由な活動を認めているため、解釈的上演により自分自身の物語を構築できるように見える。例えば、『Minecraft』には予め作られた(pre-authored)物語を持たない世界構築ゲームである。プレイヤーが観客と上演者の二重の役割を持つことを考慮すると、この物語が自分自身に向けて語られることは、その物語を〈ゲームの物語〉とみなす上で妨げにならないはずだ*20。一方で、『Minecraft』において〈正しい〉物語の解釈があるという考えはほとんど非合理的であるように思える。というのも、このようなゲームの物語はほぼ全面的にプレイヤーの解釈的上演に負っていて、そこにはプレイヤーは「自分自身」がゲーム世界で何をしているとみなすのかという中心的な解釈の問題も含まれるからだ。
 ただ、『Minecraft』は『Until Dawn』に見られるような物語のインタラクティブ性や反応性を欠くため、物語メディアというよりはストーリーを語るための小道具と理解する方がいいかもしれない*21

5. 解釈の正当性

 ここからはある程度正しいプレイングがあり、解釈に何らかの制約を課す作品に限定して考える。プレイヤーはプレイヤーキャラクターについて上演や解釈の〈正当性(warrant)〉をどのように判断すべきなのか。そして、物語の意味がプレイヤーキャラクターの動機の影響を受けるならば、プレイヤーはそれをどのように判断するべきなのか。
 筆者は一般即を導き出すのは困難であるとしながらも、プレイヤーが物語の解釈に影響を与えるような形で上演を行うよう動機付ける要因のいくつかを特定することは可能であるとしている。

解釈の視点*22

 プレイヤーはプレイヤーキャラクターの動機の正当性を判断するために、複数の解釈の視点が要求される。『Until Dawn』ではほとんどの解釈は〈三人称〉で表現される。この作品においてキャラクターは十分詳細に描写されているため、キャラクターの性格や動機について外的な視点からの解釈を維持できる。一方で〈一人称〉でプレイヤーキャラクターを扱うのが優勢になるビデオゲームもある。『Minecraft』ではプレイヤーキャラクターに特徴的な性質がなく、プレイヤーはそのキャラクターの行動の多くに直接的な責任があるため、三人称的視点からプレイヤーキャラクターの視点を扱う理由がほとんどない。この場合、キャラクターの行動はもっぱら一人称で記述・解釈される。
 多くのゲームではこれらの視点を切り替える必要がある。『The Last of Us』のようなゲームでは、プレイヤーはゲーム世界で〈自分は何をしているのか〉を語るかもしれないが、視点をジョエルに対し外部に切り替え、彼の性格を問うこともできる。物語が主な関心となるゲームではカットシーンは三人称視点が、ゲームセクションでは一人称視点が採用される。

プレイヤーの動機

 プレイヤーの動機の源はゲームプレイそのものにある。プレイヤーキャラクターの行為は、主にゲームが設定する〈遊び(lusory)〉課題をクリアするために行われる。なぜネイサン・ドレイクがすべての傭兵を殺したかというと、それは『Uncharted』のレベルをクリアするためにそれが必要だからだろう。
 問題はそのような行為がキャラクターの動機に対する解釈にどう影響するかだ。もし、ネイサンが傭兵を殺す理由が、プレイヤーがレベルをクリアすることにあるならば、この行為を解釈するのは困難だろう。ネイサンのあらゆる行動を解釈しようとすると、彼はサイコパスの殺人者であり、物語が描写するような気の良い冒険者ではないという結論を導くはずだ。この場合、物語が正当化するものとゲームプレイに要求されるものは噛み合っていないように見え(いわゆるルドナラティブ・ディゾナンスのこと)。

複数の正当性*23

 『Until Dawn』ではプレイング次第で誰が生き誰が死ぬかが決定される。多くのプレイヤーはこの作品をゲームとして扱い、全員を生き残らせようとするだろう。しかし、全員が生き残るエンディングをこの物語の「本当の(real)」エンディングだとみなすのは間違いだ。『Until Dawn』のすべてのエンディングは作品によって正当化されているという点で本当のエンディングである。一つのエンディングしか持たない非インタラクティブな物語の基準を複数のエンディングを持つインタラクティブな物語に適用するのはカテゴリー錯誤(category mistakes)である。
 そして、全員救うことを「ゲームに勝利した」とみなすのも誤りである。この場合、ゲームの特性を物語の特性に求めるというカテゴリー錯誤を犯すことになるからだ。死が物語に貢献するが故にプレイヤーキャラクターを死なせるプレイングが正当化される場合、〈遊びのモード(lusory mode)〉によりゲームが提供する物語解釈の可能性を無視する危険性がある。一部のゲームでは、遊びの正当性(例:何を勝利の対象としているのか)と物語の正当性を混同する可能性がある。あるいは一部のビデオゲームではこれらの二重の規範要因を並列させるのは容易ではないということなのかもしれない。

キャラクターに沿ってプレイする*24

 プレイヤーによっては、キャラクターに対し何を求めるかどう感じるかに基づいて行動を決定するかもしれない。例えば、アシュリーに共感したために、アシュリーを助けることがあるだろう(逆も然り)。ただ、自分がどう感じるかに基づいてキャラクターを救ったり殺そうとするだけでは、インタラクティブな物語における可能性を十分に評価しているとは言えない。
 〈物語の正当性〉について考える必要が生じるのは、プレイヤーがプレイヤーキャラクターの動機を深く考え、それに基づいて行為を決定する場合だろう。多くのプレイヤーは自身の上演において、キャラクターの性格、動機、信念を認識した上で、〈キャラクターに沿ってプレイする(play to character)〉ことを望む。この場合、例えば、(これは私の動機の一部でもあるが)クリスがアシュリーを救うのは彼の恋愛感情のためである。実際、『Until Dawn』にはキャラクターの性格が予め提示されるなど、この種のプレイを促している。
 キャラクターに沿ってプレイするために、そのキャラクターの認識を考慮してプレイすることもあるだろう。例えば、私は冒頭で述べた『Until Dawn』のジレンマは見かけ通りのものではないし、選択の結果ジョッシュが死ぬことはないと確信していたが*25、クリスはそのことを知るよしもないため、選択の際考慮に入れることはできなかった。キャラクターに沿ったプレイはそのキャラクターの利益を妨げるかもしれないが、物語の利益を最大化する形で行われる。これにより、キャラクターに沿ってプレイすることは作品が示すそのキャラクターの信念、動機、認知的状況に注意を払うこと要求し、これらがプレイに規範的な制約を課す可能性がある。そのため、一部のプレイではキャラクターが〈本当にそう行動する〉のかを問うのは理にかなっているかもしれない。

ジャンルに沿ってプレイする

 プレイヤーはゲームのジャンルの期待を満たすように動機づけられることもある。『Until Dawn』は明らかにティーンホラージャンルのお決まりを踏襲していることを考えると、全員を救うことは本当にストーリーに貢献しているだろうか。ティーンホラーではメインキャラクターですらひどい方法で死ぬのが普通だ。そして、キャラクターが死ぬことを認められている以上、そのようなプレイングは正当化されたプレイングの一つである。『Until Dawn』では少なくとも一部のキャラクターが殺された方がより満足のいく物語になるかもしれない。彼らの不快で愚かな行動はこのジャンルの中での死を正当化するからだ。実際、私は喜んで何人かを死なせていた。

参考文献

  • Carroll, Noel. 2010. “Philosophy and Drama: Performance, Interpretation, and Intentionality.” In Staging Philosophy: Intersections of Theater, Performance, and Philosophy, edited by David Krasner and David Z. Saltz, 104–121. Ann Arbor, MI: University of Michigan Press. https://doi.org/10.3998/mpub.147168.
  • Carlson, Matthew, and Logan Taylor. 2019. “Me and My Avatar: Player-Character as Fictional Proxy.” Journal of the Philosophy of Games 2 (1). https://doi.org/10.5617/jpg.6230.
  • Currie, Gregory. 2010. Narratives and Narrators: A Philosophy of Stories. London, England: Oxford University Press.
  • Gaut, Berys. 2010. A Philosophy of Cinematic Art. Cambridge, England: Cambridge University Press.
  • Kania, Andrew. 2018. “Why Gamers Are Not Narrators.” In The Aesthetics of Videogames, 128–45. New York : Routledge.
  • 倉根啓(2023)「ゲームプレイはいかにして物語となるのか」『REPLAYING JAPAN』5巻:109–119
  • 松永伸司(2018)『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会
  • Preston, Dominic. 2014. “Some Ontology of Interactive Art.” Philosophy & Technology 27 (2): 267–78. https://doi.org/10.1007/s13347-013-0134-7.
  • Robson, Jon, and Aaron Meskin. 2016. “Video Games as Self-Involving Interactive Fictions: Video Games as Self-Involving Interactive Fictions.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 74 (2): 165–77. https://doi.org/10.1111/jaac.12269.
  • Tavinor, Grant. 2009. The Art of Videogames. Chichester, England: Wiley-Blackwell.
  • Tavinor, Grant. 2017. “What’s My Motivation? Video Games and Interpretative Performance: What’s My Motivation?” Journal of Aesthetics and Art Criticism 75 (1): 23–33. https://doi.org/10.1111/jaac.12334.
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*1:そういえばあまり関係ないけど、要約作る時、本文を筆者のイタコとして書くか、それとも論文を読んだ他者として書くかすごく迷うけど(今回はだいぶ混じっている)、やっていることは物語の語り手を一人称にするか三人称にするかにだいぶ近い気がする。物語に語り手がいるなら他の文章にもいないとおかしいだろ(論文の語り手は?)と思っていたが、語り手を広く取れば他の文章でも大なり小なり語り手ライクなことをやっているような気がしてきた。

*2:少なくとも今回問題となっているような予めストーリーがデザインされているタイプの作品ではそうだろうということ。

*3:僕の読解力が低いのはそうなんだけど、メタディスコースが欲しかった。

*4:節タイトルはなかったので、こちらでつけた。

*5:ディスプレイはドミニク・ロペスの用語で、おおよそ事例のことを言っていると思っていいと思う。

*6:ここでいう解釈の詳細は後の節で説明される。上演における解釈は作品の内容や意味を特定する作業というよりは、上演するにあたって作品に示されていない空白を埋める作業を指している(Carroll 2010)。演劇で言うなら登場人物の見た目の詳細や具体的な身体動作などは普通役者や監督によって決定されるだろう(脚本に指示がない限り)。おそらくタヴィナーが言いたいのは、プレイヤーの役割が上演者と同じであれば、キャラクターの動機が特に描かれていない場合、空白となっているその動機をプレイヤー自身の解釈で埋めているのではないか(この埋める解釈が作品の正しい解釈となりうるのでは)ということだと思う。

*7:ここら辺の話自体は面白いと思うが、ここから何かを引き出しているわけではないので、省略して良かったかもしれない。

*8:これは作品解釈のためにプレイを繰り返すという話であり、解釈を通じて上演を行うのとは違う気がする。

*9:要はプレイヤーが上演者であるかどうかは怪しいかもしれないが、上演に関する概念は使えるよねくらいの話がしたいのだと思う。

*10:このタヴィナーがいう「虚構的な代理」についてその内実が不明瞭であるという指摘がある
(松永 2018; Carlson and Taylor 2019)。特に、カーソンとテイラーは虚構的な代理の特徴づけを試みている。ただ、カーソンとテイラーの論文にさっと目を通して、そもそもプレイヤーが虚構的な行為を代理してもらうことは可能なのかだいぶ怪しくないかと思った。プレイヤーは現実の人間である以上虚構的な行為はできないが、虚構的な行為を代理させることができると、それが実質的に可能であることになってしまう。また、確かに「キャラクターに代理させる」と言いたくなる事例は色々あるとは思うが、それらの事例で代理させられている行為は虚構的な行為ではなく、現実の行為なのではと思う。例えば、「このキャラクターは作者の意見を代弁している」みたいなことが言われることがあるが、その代弁を聞く対象はあくまで現実の読者であるはずである。逆に、この代弁行為があるキャラクターが別のキャラクターに作者の意見を作者に代わって伝えているとみなされることはないだろう。虚構的な代理という概念は、オンラインゲームのアバターを介したコミュニケーションやVTuberの実践(の一部)を説明するのに有効かもしれないが、彼らが説明したい事例にうまく適用できるかは考えた方がいいと思う。(さらにいうなら現実の行為の代理のケースでも、キャラクターの表象をそのように用いているだけで、文字通り代理しているとは言えないと思う)。

*11:僕個人のプレイヤーの直感として〈私が〜した〉と言う時、「私」がプレイヤーキャラクターのことを指しているとは思えないので、そこは問題になるとはあまり思っていない。

*12:ここでいう役割が「登場人物の役を演じる」の役割なのかはよくわからない。そもそも「登場人物の役」は現実における役割なので。その意味で用いているなら「想像する」とは言わないはず。語り手の役割を演じるとかかならわかるが。

*13:要はここで言っているのは、プレイヤーが決定した行為をそのキャラクターがなぜしたのか疑問に思うことがあるよね程度の話だと思うが、これをアフォーダンスと結びつける必要があるのかはよくわからなかった。

*14:ビデオゲームにおいて作品それ自体に帰属される内容があるのかについて、共通の見解はまだないように思う。例えば、Willis(2019)はあらゆる事例において共通する内容を作品に帰属させているように思われる(個人的にはこの見解には賛同できない)。インタラクティブな作品それ自体にどのような特性が帰属されるかに関する議論はPreston(2014)参照。

*15:同じ解釈だからややこしいが、ここで「プレイヤーの解釈が〜」と言っているのは上演におけるそれ(ゴートが順守と解釈に分類したものの一方)であり、鑑賞者が行うそれではないはず。

*16: ここらへん作品の意味の解釈とキャラクターの動機の解釈の話が微妙に混ざっている感じがする。

*17:要はキャラクターの動機を特定するための手がかりが描写されていないか、曖昧にしか示されていないということだろう。タヴィナーはさらっと流しているが、ここは結構重要なポイントだと思う。作品によってはプレイヤーが選択した行動についてキャラクターがその動機を語る場合が普通にあるからだ(倉根(2023)の「意味づけ」は部分的にこれのことである)。

*18:これは全くと言わなくてもほぼ同じディスプレイになった場合を指しているのか、それとも誰々が死んだ・生きたなど物語の重要な帰結が同じになっただけの場合を指しているのかよくわからない。普通は前者な気がするが。

*19:タヴィナーは「作者の決定」と言っているが、これは意図のことを指していると見て問題ないだろう。

*20:ここの理屈はよくわからない。自分自身に向けて物語が語られることとその物語がゲームの物語であることはそもそもそんな関係ないと思う。

*21:実際には、せいぜい『Minecraft』はストーリーを語るのに使える(あるいはそういう使用に適している)というだけで、そのような機能を持っていると考えるのも変な話だと思う。カニアが指摘しているように、プレイヤーは普通ストーリーを語ることを意図してゲームをプレイしているわけではないからだ(Kania 2018)。

*22: 筆者の意図を汲むならここで言う視点は「プレイヤーにとっての」視点ということになると思うが、一部「物語の作者(ないし語り手)にとっての」視点の話も混じっているように見える。当たり前だが両者は違う。語り手が「私は〜」と言うとき語り手にとってそれは内部の視点から見た物事であるが、読者にとっては外部の視点(厳密には二人称)から見たものである。三人称視点はどちらにとっても三人称なので問題ないかもしれないが、一人称の話をするならきちんと区別するべきだろう。

*23:この話は解釈の正当性の話というよりはプレイングの正当性の話という気がする。プレイングの正当性が解釈の正当性に関係ないとは思わないが、何が正しいプレイはそれ自体結構難しい問題では?

*24:ここも作品解釈の話というよりはプレイングの話という感じがする。つまり、最終的にその解釈が正しい解釈になるかはともかくとして、その時のキャラクターの動機を解釈して行動を決定することがありますよねということ。

*25:どうやらレバーをどっちに引いても(引かなくても)回転刃はジョッシュに向かうし、そこでジョッシュは死んだと見せかけられるだけで、実際は死んでいないらしい。




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