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理解の仕方の物語について思うこと

1. はじめに*1

 ゲーム研究者のイェスパー・ユールは物語(narrative)の用法を以下のように分類している*2(ユール 2016, 192)。

  1. 複数の出来事の提示。これは、「物語」の原義かつ文字通りの意味——つまりストーリーを語ること・・・・——だ(Bordwell 1985; Chatman 1978)。
  2. 固定され、あらかじめ定められた一連の出来事(Brooks [1984] 1992)。
  3. 特殊な種類の一連の出来事(Prince 1983)。
  4. 特殊な種類のテーマ(人間または擬人化された実態についてのもの)(Grodal 1997)。
  5. あらゆる種類の舞台設定または虚構世界(Jenkins 2003)。
  6. われわれが世界を理解する仕方(Schank and Abelson 1997)。

 それで今回問題にしたいのは6番目の概念。「ゲームと物語の関係」や「ゲーム(ならではの)物語のあり方」みたいな話題で問題になるのは実質的にこの意味での物語であることが多いように思われるが、なんていうかこの種の議論はあんまうまくいっていない印象がある*3
 ここでは「世界を理解する仕方」の意味での物語がどういうもので、この概念を用いて議論するのにどのような難点があるのかを考えていく。

 

2. 理解の仕方の物語とは

 僕はこの種の分野の専門ではないのであまり詳細な説明はできないが、以下のようなものであると考えている。
 この意味での物語は本来なら「物語的理解(narrative understanding)」など別の用語を使うべき概念だと思う*4。ここではHutto(2019)を参考に理解の仕方の物語を物語的理解とほぼ同じ概念として説明する*5
 私たちは物語(作品)を読んでいるとき、物語内容をある方法で理解している。私たちは、そこで語られている一連の出来事がなぜどのようにして起きたのか、それらの出来事にはどのような意味があるのか(あるいはそこに関わる人物はどのような人物であるかなど)を、ある一貫した形で理解する 。
 この種の理解の仕方(あるいは説明の仕方)は物語作品を読む際だけでなく、日常的な様々な場面で行使されていると考えられている。例えば、就職活動のガクチカがまさにそれだろう。ガクチカで学生は、自分がどのような人間であるのか、どのような人格や能力を有しているのかを物語の形式で説明しなければならない。この時、ガクチカで語られる物語は学生についてのある種の理解(物語的理解)をもたらしている(少なくともそう考えているからこそガクチカは行われているのだろう)*6
 また、物語的理解は他の種類の理解とは異なると考えられている。例えば、僕が朝自分の発表するゼミに遅刻して、先生になぜ遅刻したのか理由を聞かれたとしよう。ここで僕がすべき説明は「発売を楽しみにしていたゲームを途中で切り上げることができず、その結果睡眠時間が十分取れず寝坊してしまった」とかそのようなタイプのものであり、生理的反応や物理法則によって説明するものではないだろう*7
 ここで僕が行っているのは、何らかの一般法則から個別の事実を説明することではなく、個々の出来事がどのように関係しているのかその詳細を明らかにすることで説明することである。このように、私たちが物語によってなされる説明や理解は、何らかの抽象的な法則から具体的な事態を説明する論理的・科学的説明とは異なる。
 物語的理解は私たちの物事の理解の仕方に深く関わるとされ、様々な分野でこの概念が用いられている(らしい)。

3. 「理解の仕方」という概念を用いる問題点

 ここからは理解の仕方の物語という概念を用いて議論する問題点(なぜ僕が問題があると考えているのか)ついて考える。
 僕が主に問題に感じているのは、(特にビデオゲームにおいて)この種の概念を持ち出す議論は論じる対象が曖昧になりがちであるということだ*8。ユールが「この世のありとあらゆるものと同様に当てはまる」(ユール 2016, 193)と指摘するように、物語的な理解力はさまざまな場面で行使される以上、受け手の解釈次第で出来事に関わるものは何でも物語になり得ることになる。その結果、区別すべき概念が区別されないまま雑多に同じ「物語」として扱われることになってしまう。
 これが具体的にどういうことか、少々藁人形気味にはなる*9がマリー=ロール・ライアンの主張(Ryan 2006)を批判する形で説明しようと思う。

マリー=ロール・ライアンによる物語の定義

 ライアンの具体的な議論を検討するより前に、ライアンによる物語の定義を確認する。ライアンによる物語の説明は次のようなものだ。
 ライアンは古典的な言語ベースの定義(語り手が過去に起きた一連の出来事を語る)では映画や演劇などを物語に含めることができない点を批判し、代わりに物語内容のレベルで物語を定義することを提案している。それはあるテキスト(言語に限らない)が受け手の心にある種の心的表象(ライアンはこれが物語内容に相当すると考えている)を喚起するように作られているなら、そのテキストは物語であるというものである。ここでいう心的表象とは大雑把に言うと頭の中で構築されるイメージを指し、認知物語論では物語で語られる世界についての心的表象を構築することを物語的理解の内実であると捉えているようだ(Herman 2004, intro)。ただ、この心的表象が物語内容であるかにはグラデーションがあり、どこかで線引きできるようなものではなく、物語性(narrativity)の程度として捉えるべきものであるとしている*10
 ライアンがここで行おうとしているのは、その条件を物語言説から物語内容のレベルに移すことで、物語の定義を映画や演劇(そして一部のビデオゲーム*11)といった複数のジャンルに当てはまるように拡張したことだ。確かに私たちが普通物語と考えているものに合わせて定義を修正するというライアンの試み自体は正しいと思う。しかし、ライアンは心的表象に訴えた定義を採用する過程で、逆に物語の概念を広く取り過ぎてしまっているように思える(少なくとも僕はそう考えている*12)。

ライアンの物語の概念は広すぎる?_その1

 ライアンがビデオゲームの物語について論じているのは8章「Computer Games as Narrative」(Ryan 2006, chap. 8)。ライアンはそこでルドロジストの「ゲームは物語ではない」という主張(正確には違う*13)を批判し、「一部のゲームは物語である」という自身の主張を擁護している。ただ、以下に示すようにライアンは物語と別の概念や現象を混同しているように思われる。特にライアンは物語とフィクションを同一視しているように見える*14

  1. フィクション:
     ここでいうフィクションとは虚構世界を表すものを指し、絵画など物語を提示しないもの含まれる。ライアンがビデオゲームに見られる物語の特徴として指摘しているものの多くは、物語の特徴というよりはフィクション(あるいは表象)の特徴であるように見える。
  2. シミュレーション:
     ライアンはビデオゲームに見られるシミュレーション的な表象のあり方*15について、これを1回ごとに異なる物語内容を生成する機械であると捉え、diegesisやmimesisと同じ語りの様式の一つとみなすことを提案している*16(Ryan 2006, 187–189)。また、『The Sims』などのシミュレーションゲームビデオゲームの物語の事例として挙げている。
  3. プレイヤー独自の出来事の理解など: 
     ライアンはプレイヤーがゲームプレイ中に虚構世界で起きた出来事について語ること(あるいは語ることがきできること)をゲームが物語的に経験されたこと、そしてビデオゲームが物語である証拠であるとしている(Ryan 2006, 193)。また、ライアンは『The Sims』でゲーム内のスクリーンショットを組み合わせてストーリーを構築するプレイヤーがいることを取り上げ、ストーリーテリングのためにゲームが使用されることがあることを指摘している。

 確かにこれらは見方によっては・・・・・・・物語的に理解できる(ライアンの言葉で言うなら物語性を持つ)かもしれない*17が、それらを同じ物語であると考えるのには問題があると思う。少なくとも、これらを同じ物語と捉えることは、小説や映画、演劇といった物語メディアと同じカテゴリーにビデオゲームを位置付けるライアンの本来の試みからは逸脱している。

ライアンの物語の概念は広すぎる?_その2

 ここでは僕が「ライアンは物語の概念を広く取りすぎている」と考える理由を説明する。
 ライアンが「物語」と呼んでいる(呼ぼうとしている)ものは小説や映画などの特定の種類の表象である*18。確かにライアンが指摘するように、この意味での物語は物語的に理解される出来事を表象するが、この出来事の理解は何でもいいわけではない。物語が受け手にもたらす理解は特定のものであり、この理解は正当化の対象になっている(理解の正誤を問うことができる)はずである。
 先ほどの遅刻の例で言うなら、僕が遅刻をしたのは寝坊をしたからで、寝坊をしたのは夜遅くまでゲームをしたからで、(ゼミがあるのに)夜遅くまでゲームをしたのはそれが待ちに待った新作で我慢できなかったからだが、僕の語る遅刻の物語にはこうした一連の出来事の関係の理解もその内容として含まれている。ガクチカにしても、(その真偽はどうであれ)学生がその物語で伝える内容には、その学生がなぜ・どのようにしてそのような性格や能力を持つに至ったのかその経緯の理解も含まれている。このように、物語にはそこで提示される出来事がどのように関係し、その全体がどのように理解されるかまでその内容に含まれる。
 それに対し、ビデオゲームの場合、ゲームプレイ中に生じる出来事の多くについて、そうした特定の理解は含まれていないし、正当化の対象になっていないと思う。例えば、マリオがキノコを食べた理由を「マリオがパワーアップをしたかったから」「マリオはお腹が減っていたから」と理解することは可能だが、そうした理解はプレイヤーがその場の状況から独自に解釈しただけであり、その理解が物語の内容として正当化されることはあまりないと思う*19*20
 ライアンは単なるフィクションやシミュレーションを想定しているわけではなく、「知的な行為者の行為によって時間と共に進展する虚構世界」(Ryan 2006, 200)などもう少し範囲を限定しているが、それでもその内容の理解が正当化の対象にならないことは変わらないように思われる*21。もちろんライアンが言うように一部の(というか多くの)ビデオゲームでは物語が語られているのは確かだが、それは虚構世界を持つ作品全体について言えることではないだろう。

4. 「理解の仕方」の物語で思うこと

 ここからは物語的理解についてどう整理したらいいのかについて私見を述べる。これ以降、特に断りがない限り「物語」は小説や映画をはじめとした特定の種類の出来事の表象を指すものとする。

行為としての物語

 物語と物語的に理解される(されうる)出来事が混同されがちなのは、物語がある内容を伝えるために作られているということが見落とされているからだと思う。つまり、小説も映画もビデオゲームの物語も、作者がある内容(主に物語内容)を伝えることを意図し、そのために物語言説はデザインされている*22
 おそらくこの内容には物語で語られる出来事の理解も含まれている*23。遅刻の例を再度取り上げると、僕はゼミに遅刻するまでの物語を語ることによって、僕がなぜどのように遅刻したのかを伝えようとしている。この「なぜどのように」は〈僕自身の〉理解のことである。つまり、僕は遅刻するまでの物語を語ることによって、僕自身が自分の遅刻をどのように理解しているのかを伝えようとしている。
 もちろん、僕は嘘をついていたり、嘘をついていないにしても大袈裟に言っているかもしれない(この例でそれはあるか?と言うのは置いておいて...)。その場合でも、僕は聞き手に特定の理解をさせようとしていることに変わりはない。つまり、小説や映画などの物語を理解することは、主にその作者がどのような理解を提示しようとしているのかを理解することである。そして、この点において物語の理解について正当性を問うことができる*24
 それに対し、単に出来事を物語的に理解する場合、誰かが伝えようとした内容を理解しようとしているわけではない。例えば、僕の遅刻についての理解は誰か別の人物による理解ではなく、あくまで僕自身が過去の出来事を解釈することで得たものである。この点で物語を理解することと出来事を物語的に理解することは異なる。
 また、出来事を物語的に理解することについても正当性を問うことができる。歴史学や裁判で行われていることはまさにそれだろう。ただ、ここで行われている正当化は物語の理解についての正当化とは異なる。どの理解が歴史的事実や事件の理解として正しいのかとは別に、個々の歴史記述や被告の主張も「何を言っているのか(どういう理解を提示しようとしているのか)」のレベルで正当化の対象になる。
 単に物語的理解(あるいはそれに類する概念)に訴えるだけでは、この違いを拾うことが難しい。

ビデオゲームにおける物語とは何か

 次にビデオゲームにおいてどのようなものが物語であるのかについて私見を述べようと思う。先ほど説明したようにここでいう物語はある種の出来事の表象で、小説や映画、演劇などいわゆる物語作品や歴史記述、日常で起きた出来事を語ることなどが挙げられる。この意味での物語は出来事の(物語的)理解を含めた特定の内容を伝えることを意図してデザインされていて、この点でその出来事の理解について正誤を問うことができる。僕がここで問題にしたいのは、このような特徴を持つ出来事の表象がビデオゲームでも行われているのか、行われているとしたらそれはどのように行われているのかということだ*25
 確かに、RPGやアドベンチャーをはじめとした多くのビデオゲームでは、特定の出来事(一般的には「ストーリー」とか「シナリオ」と呼ばれる)が提示され、この出来事の理解についても特定の形で理解することが意図されていて、正誤を問うことができる。例えば、『ゼノブレイド』では機神兵に幼馴染を殺された主人公シュルクが復讐の旅に出るという物語内容が提示されるが、シュルクがなぜどのように旅に出るに至ったのかその理解について正誤を問うことができる。
 ただ、先ほど述べたように、ゲームプレイ中に生じる出来事の多くはその理解について特に正誤が問えるわけではないし、おそらく何か特定の理解が意図されているわけでもない。『ゼノブレイド』で言うなら、ひたすらユニークモンスターを倒すために何度も戦いを挑んだり、マップを埋めるためにひたすらガウル平原を歩いたり、あるいは単に街の人に片っ端から話しかけることについて、特定の理解が意図されているわけではないし、その理解について正誤を問うことはできない(正当化の対象にはならない)だろう。
 おそらく、ゲームプレイにおいて様々な出来事が表象されているが、実際に物語として機能している*26のはそれらの表象の一部(割合はともかく)なのだと思われる。そうでない部分については意見が分かれると思うが、少なくともそれらの部分が表象する出来事は物語の理解に持ち込まれていないように思われる*27(もちろん、これはこうした部分が物語の経験に何の関係もないことを意味しない)。
 ビデオゲームにおいてどの表象が物語の機能を持っているかを特定するのは難しい問題だと思われる。カットシーンやセリフは明確に物語の機能を持っているように思えるが、全てのカットシーンやセリフがそうであるわけではない。また、あるシーンが物語の機能を持っているとしても、そこで表象される出来事の全てが物語の内容になる(あるいは、物語の理解に関わる)わけではないだろう。『Detroit: Become Human』でトッドとアリスが夕食で会話している間カーラを動かせる場面があるが、ここでいかに挙動不審な動きをしていても、物語において重要なのはトッドとアリスの会話であり、カーラの不可解な動きが何らかの点で物語の理解に関わるとはあまり考えないだろう*28
 プレイヤーがビデオゲームによる表象からどのように物語内容を構築するかについては、実際には作者の意図やジャンルの慣習、出来事の一貫性(あるいは一貫しているはずだという期待)などが関わっていて、単純に形式的特徴のみから判断しているわけではないだろう。

理解の仕方の物語はビデオゲーム研究にどう貢献しうるか

 長くなりそうだし、まとまらなかったので省略。

参考文献

  • Currie, Gregory. 2012. Narratives and Narrators: A Philosophy of Stories. London, England: Oxford University Press.
  • Frasca, Gonzalo. 2003a. “Ludologists love stories, too: notes from a debate that never took place.” In 2003: Proceedings of DiGRA 2003 Conference: Level Up. Tampere: DiGRA. https://doi.org/10.26503/dl.v2003i1.64
  • Frasca, Gonzalo. 2003b. “Simulation versus Narrative: Introduction to Ludology.” In The Video Game Theory Reader, edited by Mark J. P. Wolf and Bernard Perron, 221–235. London, England: Routledge.
  • Gaut, Berys. 2010. A Philosophy of Cinematic Art. Cambridge, England: Cambridge University Press.
  • Herman, David. 2004. Story Logic: Problems and Possibilities of Narrative. Lincoln, NE: University of Nebraska Press.
  • Hutto, Daniel D. 2019. “Narrative Understanding.” In The Routledge Companion to Philosophy of Literature, edited by Noël Carrol and John Gibson, 291–301. London, England: Routledge.
  • Juul, Jesper. 2004. “The definitive history of games and stories, ludology and narratology.” The Ludologist. February 22, 2004. Accessed May 17, 2024. https://www.jesperjuul.net/ludologist/2004/02/22/the-definitive-history-of-games-and-stories-ludology-and-narratology/
  • ユール、イェスパー(2016)『ハーフリアル:虚実のあいだのビデオゲーム』ニューゲームズオーダー
  • 倉根啓(2023)「ゲームプレイはいかにして物語になるのか」『REPLAYING JAPAN』5巻:109–119、https://doi.org/10.34382/00018327
  • 松永伸司(2018)『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会
  • 難波優輝(2024)「流行中の「就活対策」実は「逆効果」な理由…!「就活ウケ」する「作り話」の気持ち悪さ」現代新書、2024年12月04日、最終閲覧日:2025年4月7日、https://gendai.media/articles/-/141956
  • Pearce, Celia. 2004. “Towards a GameTheory of Game.” In First Person: New Media as Story, Performance, and Game, edited by Noah Wardrip-Fruin and Pat Harrigan, 143–153. London, England: MIT Press.
  • Ryan, Marie-Laure. 2006. Avatars Of Story. Minneapolis, MN: University of Minnesota Press.
  • 榊祐一(2015)「物語としてのゲーム/テレプレゼンスとしてのゲーム――『バイオハザード』を例として」『日本サブカルチャーを読む――銀河鉄道の夜からAKB48まで』押野武志編、253–286頁、北海道大学出版会
  • Tavinor, Grant. 2009. The Art of Videogames. Chichester, England: Wiley-Blackwell.
  • Tavinor, Grant. 2017. “What’s My Motivation? Video Games and Interpretative Performance.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 75 (1): 23–33. https://doi.org/10.1111/jaac.12334.
  • ウォルトン、ケンダル(2016)『フィクションとは何か:ごっこ遊びと芸術』田村均訳、名古屋大学出版会

 



 

 

*1:これはもともとカタカナ語のナラティブについての記事に書く予定だったが、後で見返して話がだいぶズレている感じがしたので別記事にすることにした。

*2:ユールがこの分類を提示したのは“narrative”が複数の意味で用いられていることを指摘するためだが、ブログではこの点について(というかおそらく6つ目の用法について)もっと痛烈に批判している。「それで、それ〔ゲームvs物語議論〕にはとてもうんざりしている。その理由は主に、半分の人々は「物語」を固定された一連の出来事を意味するのに用い、もう半分の人々は「興味深いもの(interesting stuff)」を意味するのに用いているからだ(ちなみに、二つ目のバージョンは大して役には立たない)」(Juul 2004)。
 あと、なんか『ハーフリアル』を「ビデオゲームはゲームと物語の二つの側面を持つ」みたいな読み替えする人結構いるけど、ユール自身はフィクションと物語を明確に区別している以上、その読みはあくまで自分の解釈であること(あるいは、自分の定義ではフィクションも物語も同じものであること)を予め断っておくべきだと思う。

*3:書いていて「うまくいっていない」て何だよと思ったが、おそらく「理解の仕方」という概念だけでは物事を分析するツールとして不十分で、本来区別すべきものがごっちゃになりがちみたいなことが言いたいのだと思う。あと単純にこの種の概念持ち出す人は「〇〇も物語である」で議論が止まりがちで、実際に出来事がどのように組織化されるのかなどはあまり考えていないという偏見がある(単に僕の調査不足かもしれない)。

*4:単純にstorytellingの意味の物語と混同するのでややこしい。

*5:物語的理解の詳細についての説明は本筋ではないため、ここでは省略する。

*6:ガクチカで語られる内容がどれだけ素晴らしくても、それだけで学生の性格や能力があることの証明にはならないと思うのだが...。そもそも、プライバシーを相手に見せるという普通憚はばかられることを強制することに一定の悪さがあると思う(他の方法でよくない?)。就活で物語を語らせる悪さについては最近難波優輝さんが論じている(難波 2024)。

*7:ひょっとしたら、原子の振る舞いを計算すると必然的に僕が遅刻することが導かれるかもしれないが、それは普通僕がなぜ遅刻したかの説明にはならないだろう。

*8:これは物語の対象と物語を混同することに近いものがあると思う。

*9:「藁人形気味になる」とは、この議論はどこからどこまでを物語とみなすべきか、その線引きの問題に過ぎない可能性があること、ライアンの主張はあくまで「ビデオゲームは物語になり得る」という弱い主張であり、それ自体はまあそうである(そもそもそこを否定する論者はいないのでは?)ことである。

*10:本筋ではないため物語性が何であるかについては省略するが、ライアンは物語性の条件について結構細かく指定している。

*11:「一部の」というのは『テトリス』などの抽象的なビデオゲームを排除するためであると思われる。ライアンがフィクションを持つビデオゲームはすべて物語に含まれると考えているかはよくわからない(特に何も言っていない)。
 あと、こういう「(ビデオ)ゲームは物語か否か」みたいな問いを見るたびに毎回思うのだが、ビデオゲームが物語を語るのにも使われることが(結構)あるというのが実情で、それが物語かどうかを問うのはなんかポイントがずれている気がする。

*12:ライアンの議論の詳細についてはここで取り上げることはしないが、ライアンの批判点の多くは妥当だと思う。その一方でライアンはルドロジストが「違う」と言って区別しようとしているポイントをあまり理解していない感じがする。『Avatars Of Story』の1章と8章はメモを書いてもいいかもしれない。

*13:少なくともルドロジスト全体がそのような強い主張をしているわけではない。例えば、Frasca(2003a)は(当時の)ルドロジストに対するその種の誤解を訂正している。ある意味ライアンも意趣返し的にルドロジストを藁人形にしているのかもしれない。

*14:榊祐一も注で「ゲームの虚構的側面に注目することと物語的側面に注目することの曖昧な同一視はM=L・ライアンにも一部見受けられる」(榊 2015, 282–283)と同様の指摘をしている。

*15:「シミュレーション的な表象のあり方」についてはFrasca(2003b)、松永(2018)参照。基本的にはこの手の文脈で言われているシミュレーションは、虚構世界の振る舞いをシミュレートすることを指していると思われる。後述するように僕個人はシミュレーション的なあり方が物語になる可能性を否定しないが、虚構世界の振る舞いのシミュレーションはそれ自体で物語になるわけではないと考えている。シミュレーションが物語になるとしたら、それは出来事を一貫性を持つようにデザインし、理解可能な形で提示する行為、つまり物語を語る行為それ自体のシミュレーションになるだろう。

*16:そもそもシミュレーションはdiegesisやmimesisと同じレベルにはならないと思うのだが...。それはさておき、diegesis / mimesisは物語内容を伝達する方法についての区別を指していて、ここでは物語内容をもっぱら言葉で伝達するか、それとも演劇的に登場人物の身振り手振りを再現して伝達するか程度の話しかしていないと思う。

*17:実際に、ビデオゲームにおいて様々な要素・現象が物語として捉えられる例についてはPearce(2004)を参照。

*18:ユールの分類で言うとだいたい1. 2. 3. に該当するだろう。

*19:もちろん別のレベルではゲームプレイ中に生じる出来事の理解は正当化の対象になり得る。例えば、マリオがキノコを食べた理由を「そのプレイヤーがマリオをパワーアップさせようと考えたから」と説明することは可能だし、この種の説明は正当化の対象になるだろう(実際にそのプレイヤーはそう考えてキノコを取ったかもしれないし、たまたま進路上にキノコがあったから結果的に取ることになっただけかもしれない)。ただ、これはあくまで物語の外部の視点からの理解であり、物語の内部の視点からの理解ではない。例えば、『進撃の巨人』でライナーが壁を壊した理由を作者の諫山創の意図の観点から説明することは可能であるし、この説明は正当化の対象になるだろうが、これは今ここで問題としている理解ではない。私たちがここで問題にしているタイプの理解は、マーレから洗脳教育を受け壁の中の人々のことを何も知らないまま任務をしていたからとか、ライナーが任務の成功可能性より己の承認欲求を優先したからなど、内部の視点からの理解である。

*20:ゲームプレイ中の出来事についての理解が正当化の対象になるかについて、自分の知る限りではグラント・タヴィナーも似たような議論をしている(Tavinor 2009, chap. 6)。ただ、タヴィナーのその後の議論を追うにそこまで単純な問題ではないかもしれない(Tavinor 2017)。

*21:これについて、あくまで指摘はヘンリー・ジェンキンスに対するものだが、榊の指摘が同様に当てはまるだろう。「虚構世界は虚構の物語が繰り広げられるための可能性の条件のひとつではあるだろうが、虚構世界はかならずしも物語という形をとる必要はなく、虚構世界と関わる行為が必ずしも物語的な行為である必要もない(たとえばごっこ遊びを想起してみればよい)」(榊 2015, 283)。

*22:僕はここで物語をintentional-communicative artifacts(訳すなら「意図的な伝達のための人工物」になるだろうか)の一種とみなすグレゴリー・カリーの見解(Currie 2012)を念頭に置いている。

*23:自分は全く同じ主張をしている論者は知らないが、例えば、ベイズ・ゴートは物語における出来事のつながり(linkage)について「物語(story)は実際につながっているか否かにかかわらず、つながっているものとして表象する」(Gaut 2010, 233)と主張している(ゴートがここで“story”と呼んでいるものは明らかに本稿でいう「物語」と同じ意味である)。

*24:僕はここで明らかに意図主義の立場をとっているが、慣習主義でもおそらく同様のことが成り立つはずと考えている。

*25:これが僕の博士課程における研究テーマなのだが、「これ」を言うまでに3年くらいかかってしまっている感がある(どうして...)。

*26:「物語として機能している」が適切な表現かはだいぶ怪しいがここではそう呼ぶことにする。

*27:例えば、RPGにおいて急いで助けないと村人が死ぬといった状況が提示されてもプレイヤーはレベル上げしたり探索したりして寄り道できることはよくあるが、プレイヤーはこの寄り道によって村人が助けらなくなるとは考えないし、主人公は村人を助ける気がない薄情なヤツだとは思わないないだろう(さらに言うなら、村人のところへ来た際のカットシーンで主人公が急いで駆けつけたことが示唆されたとしても、その描写を他の部分と矛盾しているとは考えないだろう)。
 こうしたパラドックスを説明する方法は二つあって、一つは、寄り道は物語の世界で起きていないと考えること(倉根 2023)で、もう一つは、寄り道は物語の世界で起きてはいるのだがいわゆる愚かな問い(ウォルトン 2016, chap. 4)に属するものであり、他の出来事や物語全体の理解に(何らかの意味で)関わりを持たないと考えることだ。

*28:実際に僕はプレイ中動かせることに気がついてカーラをぐりぐり動かして遊んでいたが、今確認したところ、カーラが一定距離離れるとトッドが「ちょこまか動き回るな」と言ってカーラを静止する。トッドが指摘している以上、この時カーラが何らかの理由で遠くに行こうとしたのは事実であるし、ひょっとしたらそれが変異体の兆候であるという解釈も正当な解釈として成立するかもしれない。ただ、僕が操作した時のカーラはアンドロイドとしても人間としてもあまりにも不自然な動きだったし、それを見たトッドやアリスがそれを無視して会話できるとも思えない。そのため、僕は物語においてカーラが奇怪な動きをしているということを無視していたし、他のプレイヤーもそう解釈するはずだと考えている。とはいえ、『Detroit』は事例の選択として適切ではなかったかもしれない。会話中になんか不自然な動きができるという点であれば、『Half-Life』の方が良かったかもしれない。




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