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『デジタルゲーム研究』3章_コメント

はじめに

 前回に引き続き、現在〈ゲームの哲学〉研究会*1で読み進めている『デジタルゲーム研究』のコメントを紹介する。今回扱った3章は筆者の提示した概念や理論を整合的に理解するのが困難で、読書会で意見を出し合ったものの、それでも十分に解明されなかった*2。今回は読書会でのコメントを紹介すると言うよりは、読書会の内容を踏まえて筆者の主張を僕自身の手で再整理することがメインとなる。

 

概念・理論関係

 ここでは筆者が提示した概念・理論を整理し、僕の手でどうにか頑張って整合的に解釈することを目指す*3

キャラクター、アイコン、オブジェクトの整理

  • キャラクター:スクリーン上で視覚的に認知される画像(イメージ)。
    • キャラクターはアイコンであり、オブジェクトでもある。
  • アイコン:それ自体とは別の何かを指す「記号」。
    • アイコンはスクリーンの外*4にあるものを指し示す(マリオのアイコンはパッケージや実写映画の人物を指す*5。)
  • オブジェクト:プログラム内およびスクリーン上で一定の量と機能が定義される対象。
    • オブジェクトはスクリーンの外部に参照物を持たなくていい点で「記号」ではない。

キャラクター、アイコン、オブジェクトの考察

 読書会でこの章を読んでいた時、筆者は何を言いたいのかよくわからなかったが、おそらく次のようなことを言いたいのだと思う。

  • 筆者は「キャラクター」と呼んでいるが、実際にはいわゆる画像表面やインクのしみに近い概念だと思う。つまり、ビデオゲームのスクリーンではある色の光がある配置で光っているわけだが、筆者はこの光そのもののレベルを「キャラクター」と呼んでいる*6
  • それで「アイコン」や「オブジェクト」と筆者が呼んでいるのは、ビデオゲームの「スクリーンの光」が果たす機能と言い換えられる。例えば、マンガを全く知らない宇宙人がいたとして、彼らがマンガを見たらおそらく紙の上に何か黒いしみがついているようにしか見えないだろうが、私たちはそれがコマや文字、絵として機能することを理解している。筆者はこの黒いしみに対するコマや文字、絵にあたるものを「アイコン」「オブジェクト」と呼んで区別している。
  • 問題は以下で説明するように、ここで言うアイコンやオブジェクトがいわゆるルールやフィクションと対応しているわけではなく、ビデオゲーム一般に適用できる概念的枠組みとして提示されているように見えるのに*7、それが説明できる範囲がかなり限定的であること。

 以下、僕によるアイコンについての解釈

  • 一見するとアイコンはフィクションと同じもののように見えるが実際は全然違う。確かに表象 の一種ではあるかもしれないが、筆者はここでかなり特殊な仕方の表象を想定している。
  • 筆者の言うアイコンは本人が1節で紹介していたデスクトップ・メタファーのアイコンに近い。つまり、ここで想定されているのは記号とそれが指示する対象との対応関係だけであり、記号が表すその他の情報(外見など)や他の記号との関係(大小、位置関係など)は想定されていないと思われる。
    • 極端な話、マリオが棒人間でも「マ」という文字*8であっても、それが「マリオを指示している」とわかる限りアイコン的には問題ないということになる 。
    • アイコンではスクリーンに映る記号とその記号が指示する対象との対応関係しか考えられていないため、スクリーン全体*9(あるいは作品全体)が何らかの虚構世界を表象するその機能についての話はしていない。つまり、アイコンはフィクションとは全く別の概念である。
  • このように理解すると筆者の「デカキャラ」に対する主張も一応説明がつくと思う(吉田 2023, 125)。
    • 筆者はここで主張しているのは、ざっくり言うと記号の大きさはアイコンの機能とは関係がないということだが、それは上記の説明にあるようにそもそも「ある対象を指示する」以外の機能は(あったとしても)アイコンの機能ではないからだ。
  • 筆者のアイコンの一番の問題点は、「スクリーンの二重化」の一方として提示されている割には、それによって説明できる範囲がかなり限定的であることだろう*10
    • 少なくともスクリーンが果たす重要な機能の一つであるフィクション(虚構世界や表す)はアイコンでは説明されていない。
    • 確かにアイコンを持ち出すことで「デカキャラ」や『ドラクエ』のワールドマップ上の勇者のような画面上の大きさが対象の実際の大きさを表していない例を説明できるかもしれないが、そのような事例は一部に限られる。
    •  アイコンは「スクリーンの二重化」の一方として位置付けるよりは、ビデオゲームが虚構的なキャラクターを表象する際の様式の一つとして位置付けた方が生産的な議論ができると思う。

 以下、僕によるオブジェクトについての解釈

  • オブジェクトの特徴はアイコンとの対比で言うと、①指示対象を持たず(何かの指示として機能しない、②その大きさや位置関係がその機能に大きく関わるということになると思う。
  • それで、一見するとオブジェクトの機能は「ルールやゲームメカニクスといったもののある要素を表すこと」と言えそうに思えるが、何度か読んで、実は筆者はそもそもオブジェクトを「ゲームメカニクスを表す記号」として論じている訳ではないように思えてきた。
  • つまり、筆者が「オブジェクト」と呼んでいるものは、「スクリーン上の光」の配置がゲームメカニクスの要素を表しているということではなく、光の配置がゲームメカニクスの要素そのものになっていることであるように思われる。
    • 筆者はオブジェクトを「「操作」する対象」と位置付けていたり、「プログラム内」と「スクリーン上」の両方にまたがる概念とされている。ここで筆者は「スクリーン上の光」の配置とゲームメカニクスの要素を同一視しているように思われる。
  • 某ふくろう先生がブログで指摘しているように、ビデオゲームにおいて両者が一致するのは二次元的なゲームメカニクスの空間を持つ作品の中でも特定のケースに限られるだろうし、そうであるならば「オブジェクト」を用いて説明できる範囲はかなり限定的になるだろう(松永 2013)。
    • もちろん、こちらについても分析対象を適切に限定して論じる分には問題はないと思う*11

4節:意味論的次元、統語論的次元の考察

 4節で筆者はモリスを参照し、「スクリーンの二重化」を意味論的次元と統語論的次元の二つの概念に整理している(吉田 2023, 127–129)。

  • 意味論的次元=スクリーン上(ゲーム空間内)の記号(キャラクター)とスクリーン外(ゲーム空間外)の事物との対応関係
  • 統語論的次元=スクリーン上(ゲーム空間内)での記号(キャラクター)同士の形式的関係

 筆者はこの意味論的次元と統語論的次元は前節のアイコンとオブジェクトに対応していると説明している。オブジェクトはそのまま統語論的次元に敷衍できると思うが、アイコンについてはデスクトップ・メタファーのそれとしてのニュアンスが多少薄れている感じがする(あるいは僕の解釈が普通に間違っているか)。なんというか「記号」の単位が複数のアイコンだったり、スクリーン全体に拡張されている感じがする。この場合、複数のアイコンの組み合わせによってある事態を指示する(『ファミスタ』の例で言うなら「フライを取る」行為を指示する)ことができるし、虚構世界も(指示できるなら)指示対象になるかもしれない。ただ、そうなると指示の仕組みがちょっと複雑になりそうなので、何らかの説明が欲しいところ(それこそ誤用論の出番では?)。
 統語論的次元については、オブジェクトの問題点がそのままこちらにも当てはまってしまう。これについては某ふくろう先生が既に批判している(松永 2018, 248–249)が、読書会の参加者の間でも画像表面のレベル*12とゲームメカニクスの空間が混同されているという指摘があった。
 筆者は松永の批判に対して注7で返答しているが、筆者の返答は松永と自分では「ゲーム空間」の意味が異なるというものであり、噛み合っていない。松永が批判しているのは概念レベルで混同が起きいるというもので、用語法のレベルの批判ではない。筆者が自身を擁護するのであれば、実際には概念のレベルでの混同は起きていないとか、両者を一緒に扱うことに一定の正当性*13があるだとか主張するべきだと思う。

その他

スーパーマリオ』のブロックをアフォーダンスの事例に位置付けるのは適切なのか

 筆者は「はてなブロック」が叩けば何かで起こること、そして叩いた後の釘で固定された外見のブロックは叩いても何も起きないことは一目瞭然であり、こうした認知は事物が持つ「アフォーダンス」が引き起こすものだと論じている。僕はアフォーダンス理論に詳しくないが、少なくとも筆者の説明では『スーパーマリオ』のブロックをアフォーダンスの事例に挙げるのは不適切だと思う。

 筆者による説明ではアフォーダンスは「世代や言語、文化の垣根を超えて、かなりの程度ユニバーサルに成立する」(吉田 2023, 120)とあるが、「?」の意味を理解できるのはこの記号の意味を知っている人だけだろう。はてなブロックを叩くと何かが起きるという理解はむしろ言語的な慣習から得られる物であるように思われる。

 そもそもアフォーダンスを適用するならブロックの柄ではなくブロックそのものではないだろうか。ただ、ブロックに対し「叩く」あるいは「叩いて何かを取り出す」という使い方はあまり標準的ではないと思う。

おまけ:1節、2節で紹介されている議論と本章全体の関係について

 一見するとタークルやジジェク、東の議論は自説の導入に使われているだけで、本論とはほとんど関係なさそうに見えるが、実際は何らかの点で吉田の自身の理論的枠組みの元になっているのかもしれない 。そんなことを考え元の文献を手に取ってみたものの、自分は全くの専門外なので彼らが何を言っているのか理解できず、読解を断念した...*14
 何の参考にもならないが、自分が読書会で筆者の紹介をまとめたものを残しておく*15

タークルの主張

  • 画面に映る情報のみを信じ、その「背後」にある機械やプログラムの存在を想定しない(機械やプログラムの働きを意識しない)。
  • 我々は複数のウィンドウが成立するスクリーンの上で「多数の自己にアクセス」し、その結果「多重だが統合されたアイデンティティ」を得る。
    • ここでいう「自己」とは。別にウィンドウごとに「自分が果たす機能や役割が変わります」程度なら、日常生活でも同じようなことやっているし。

ジジュクの批判

  • サイバースペースではインターフェースが全てであって「背後」などないというタークルの見解は間違っている。
  • タークルのアイデンティティの議論では、でラカンの象徴的同一化の次元(象徴界想像界の区別)が見落されている。
  • 象徴的同一化が「自分の目が教えてくれることを否認し、象徴的虚構を信じることを選択する」のに対し、サイバースペースでは「自分が持つ(象徴的)知識が教えてくれることを否認し、目だけを信じることを選択している」。

東の主張

  • ジジェクの指摘(想像的同一化(スクリーン)と象徴的同一化(スクリーンの背後)の二重構造)を評価しつつも、ジジェクが言う目(イメージ)と知識(シンボル)の逆転を認めない。
  • インターフェース的態度はむしろ「目よりも言葉、イメージよりもシンボル(文字)を信じることで維持されている」。
    • ジジェクの言っていることもわからないけど、少なくともジジェクが「目だけを信じる」で言っているのは言語の読解も含まれると考えるのが普通では(そうでなかったら、ジジェクの分析は文字だらけのウィンドウを前提としないものになる)。
  • 「インターフェース的価値」的態度においては「スクリーンそのものが二重化されている」。サイバースペースにおいては「目と言葉、イメージとシンボル、仮想現実の虚構性を伝える情報と現実性を仮構する情報とが、ともに並んでスクリーンの上に見いだされる」。
    • 三つの対置が提示されているが、これらは同じレベルと考えていいのか。つまり、「目」のレベルは「イメージ」や「仮想現実の虚構性を伝える情報」のレベルでもあるし、「言葉」のレベルは「シンボル」や「現実性を仮構する情報」のレベルでもあるのか。そうだとすると、記号の種類によって虚構か現実かが変化するのはおかしいと思うけど。
  • すなわち、「インターフェース的主体」は「スクリーン上の文字列や図像を、一方で虚構的イメージとして処理しつつ、他方で現実的シンボルとして処理する」ことで成立する。
    • 上の対置(正確にはそれに対する僕の解釈)とズレてないだろうか。

 全体として、各論者が使用している用語が著作を読んでいない人間からするとはっきりと理解できず、また微妙に言い換えられているように見える箇所も本当に単に言い換えているだけなのかよくわからなかった。あと、東の議論はスクリーンとその背後の関係からスクリーン内部の関係へと議論の焦点が横滑りしている感じがする。

参考文献

 

 

*1:〈ゲームの哲学〉研究会に興味のある方はTwitter(現:X)のアカウントに連絡してみてください。https://x.com/GamesPhilosophy

*2:正確に状況を伝えると、筆者が言わんとしていることの候補らしきものまでは特定できたが、それ以上に整合的な読解が不可能な部分が確認された感じ。ジグソーパズルで言うと全体像がどんな感じかは何となくわかったけど、一方で噛み合わないピースがたくさん発見された感じ。3章については、筆者自身による解説が欲しい。

*3:読書会でこのように解釈されていたという話ではないです。あくまで読書会が終わった今僕がこう解釈しましたというだけです。

*4:「スクリーンの外」と書かれているのでややこしいが、ここで筆者が言いたいのはある表象の指示対象がそれを表象する物体(この場合はスクリーン)にはないということだろう。

*5:普通に考えてここで指示しているのは虚構的なキャラクターのマリオだろう(虚構的なキャラクターが本当に指示できるのかは一旦置いておいて)。この説明だと、そのキャラクターを表象する他の媒体が全くない作品では、虚構的なキャラクターのアイコンは何も指示していないことになる。

*6:じゃあ「なんで光のレベルを「キャラクター」と呼んでいるの?」という話になるが、おそらく筆者は「キャラクター」という語を用いることで、スクリーン上の光があるまとまった単位(これをキャラクターと呼んでいる)で機能していることについて話したいからだと思う。

*7:これに関してはこの章に限らず筆者の議論のスタイルに関わる問題であるように思う。何というか筆者はビデオゲーム一般の特性について論じているように見えるのに、実際はあるビデオゲーム群にしか言えないことが結構多いように思える。

*8:ここでは『Rogue』(1980)のようなケースを想定している。

*9:全体と言っていいのかは微妙だが...。とにかく、筆者は一個の記号単位の話しかここではしていないよということが言いたい。

*10:一応補足しておくと、僕は説明できる事例が限定的であることそれ自体を批判しているのではない。それがあたかもビデオゲーム一般の特徴として説明されていることを批判しているつもりである。分析対象を適切に限定すればアイコンでそれなりに面白い議論ができるはずだと思う。

*11:とはいえ、これに関しては一致している例より一致していない例を分析した方が面白い結果が出そうなので、オブジェクトを使って議論するメリットをあまり感じない...。

*12:要は松永(2018)の統語論的空間のことなのだけど、ここで持ち出すとややこしくなるので、一応「画像表面のレベル」と呼ぶことにした。

*13:例えば、対象を説明するのに今の区別で十分であり、それ以上細かく概念を分けるメリットがないなどだろうか。

*14:時間ないしね...。

*15:ここら辺から読書会の準備が間に合わずに一読してその場で理解したことをささっと書いて終わらせることが増えた気がする...。よくない。




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