具体例とかを削らなかった感じの要約も載せときます*1。「「なぜゲーマーは語り手ではないのか」メモ」の内容をもっと詳しく知りたい方はこちらを読んでください。補足やコメントは注でします。
イントロ
-
私はジムに通うときよく『Expresso Virtual-Reality Exercise Bike』(以下『Expresso Bike』)を利用している。『Expresso Bike』では、目の前のスクリーンにエクササイズ用の自転車と連動したコースが一人称視点で表示され、利用者はそこで自分が自転車で走っているような光景を目にすることになる。
-
『Expresso Bike』が虚構的真理を生成するのは間違いないが、このとき、『Expresso Bike』の利用者の活動は物語(story)*2を(全体的or部分的に)生成しているのだろうか。もしそうであるならば、この物語を語るのは誰なのか。『Expresso Bike』の設計者か、自転車の運転手か、それともその両方か。
-
ビデオゲームは少なくとも自己関与的で、虚構的で、デジタルなインタラクティブ性を持つ点で『Expresso Bike』と類似している。ビデオゲームの物語が主にプレイする際中に起きる虚構的な出来事とそれが起きる順序の問題であるならば、ゲーマー*3は部分的にはその物語に責任がある。つまり、プレイヤーはその物語を語る人物—語り手(narrator)—であるように思われる。
-
本稿は、多くのビデオゲームはインタラクティブな物語であるが、そのゲームのプレイヤーはそこで生み出された物語の共同語り手(co-narrator)ではないという主張を擁護する。
-
私は、一部の理論家*4とは異なり、「語り手」という用語を〈虚構的な〉*5語り手を指すためだけに用いず、単に「ストーリーテラー」の意味で使用する。本稿の問いの主な焦点は、ゲーマーはそのゲームの物語における〈実際の〉(actual)共同語り手であるか否かである。
1. 概念的な下準備
ビデオゲームの定義と研究対象について*6
- ここではビデオゲームの定義について考えない*7。ゲーマーが語り手であることが最ももっともらしいビデオゲームに対して自分の主張が説得的であればいい(これが示せれば他のケースにも適用できるはず)。
-
ここで想定している作品は、『Read Dead Redemption』『ゼルダの伝説』『Granfd Theft Auto』『Call of Duty』『World of Warcraft』『Portal』『BioShock』シリーズなど
-
議論はシングルプレイに限定するが、しかるべき変更を加えればマルチプレイでも適用可能である。
-
ビデオゲームの存在論とインタラクティブ性について
-
ビデオゲームは「存在論的に複数(ontologically multiple)」であり、1つのビデオゲームに対して複数の異なる本物の(genuine)「事例(instance)」が存在する。
-
ここでのインタラクティブ性はBerys Gautによる説明を想定している——「ある作品がインタラクティブであるのは、その作品が〈鑑賞者〉の行為が部分的にその作品の事例と特性を決定することが認可される(authorized)場合に限られる(iff)」(2010: 143)。
-
一般的なビデオゲームは、その事例の重要な特性に影響を与える何者かによって「例化される(instanced)」(プレイされる)ことを通じて鑑賞され、鑑賞者が事例の特性を決定することがゲームによって〈認可されている(authorized)〉あるいは〈指定されている(prescribed)〉ため、インタラクティブである。
インタラクティブであることと物語であることの関係について
本稿の問いと主張の確認
-
私がここで主に興味のある問いは、インタラクティブな物語作品のユーザーが、それによってその特定の事例における物語の語り手であるかどうかである。
-
言い換えれば、〈インタラクティブな〉物語は〈共同的な(collaborative)〉物語であるかどうかであり、これは複数の人間が物語を語るのに貢献するケースを指している。
-
例:二人以上の人間により即興で語られる口承の物語、ほとんどの映画映画など。
-
-
ゲーマーは作品とのインタラクションを通じて物語の特性をプレイスルーに与えるため、ゲーマーは特定のプレイスルーに対して共同的な語り手と同じように機能しているのではないだろうか。
-
私がこれから重要であると主張する一つの違いは、共同的物語の貢献者はその物語の鑑賞者である必要がない一方で、作品にインタラクションする人物は当然その人が貢献する作品の事例の鑑賞者であることだ。
-
このことはインタラクションする人物が共同的語り手に〈なれない〉ことを示しているわけではない。それでもなお、私はインタラクティブな物語のユーザーは〈それゆえに〉ユーザーが影響を与える物語の共同語り手になるとは限らないと確信しているし、さらに、私は『Red Dead Redemption』などのインタラクティブな物語のビデオゲームの最良の候補場合でさえ、実際のところゲーマーはプレイスルーにおける物語の共同語り手ではないと確信している。
2. インタラクティブな物語の可能性に対するいくつかの議論
-
ここではビデオゲームはインタラクティブな物語である可能性に対する(否定的な)主張をいくつか検討する(後の議論に有用であるため)。
-
Gautはこの種の主張を5つ挙げている。Gautはそれぞれの主張を検討し棄却している。
-
〈分岐〉説(bifurcation argument)*8:
ビデオゲームには(i)非インタラクティブで物語の「カットシーン」と、(ii)インタラクティブで非物語のゲームプレイの2種類のシークエンスがあり、そこにはインタラクティブな物語はない。
-
〈エラー〉説(error argument):
出来事それ自体と出来事の表象は異なる。ビデオゲームにおいてプレイヤーキャラクターは出来事を起こしているが、その出来事(についての物語)を語っているわけではない。
-
〈シミュレーション〉説(simulation argument)
-
〈時間的距離〉説(temporal distance argument):
物語を語るためには、物語で語られる出来事は語る行為より前に起きていなければならない。ビデオゲームはこの条件を満たしていない。
-
(Gautは〈語り手不在〉説(no-narrator argument)も挙げているが、あまりにも酷いのでここでは検討しない*9。)
-
分岐説の検討
-
〈分岐〉説(bifurcation argument):
-
Gautはこれを経験主義的な主張であると返答し、『Façade』を反例に挙げて反論している。
-
Gautの主張には『Façade』がインタラクティブな物語であるという仮定*10が含まれているという反論がありうるが、そうだとしても、①カットシーンが物語であることと、②カットシーンとゲームプレイが明確に異なることから、③インタラクティブなゲームプレイが物語でないことは導けない。結局、分岐説は間違いである。
エラー説とシミュレーション説のバージョン1の検討
-
エラー説とシミュレーション説のバージョン1は似ているので同時に扱う。
-
Gautはエラー説は語りの位置を誤認していると指摘している。
-
また、Gautはシミュレーションのモデルは表象の一種であるため、シミュレーション説も失敗していると指摘している。
シミュレーション説のバージョン2と時間的距離説の検討_その1
-
シミュレーション説のバージョン2と時間的距離説は似ているので、同時に扱う。
-
これら両方の主張に対して、Gautは作者が自分の物語がどのように展開するのか知らないケースがあると指摘している。
-
小説家は自分の(虚構的な)物語をどのようにして終わるのか知らずに始めることができるし、スポーツキャスターもゲームの(実際の)出来事をそれが起きると同時に語っている(2020: 228–229)。
-
-
しかし、小説などの完結する物語作品の場合、作者はある時点で物語〈全体〉の最終的な形を固定する決定をしなければならない(それが単に物語を書くのをやめることだとしても)。とはいえ、ビデオゲームのプレイングは後から修正できない点で小説とは異なる*14。
-
より近い例えは即興的なストーリーテラーかもしれない。即興的なストーリーテラーは次の言葉が本人の口から出るまで、物語がどのように展開するか本人ですらわからない。したがって、次に何が起きるかを知らないからといって語り手になれないわけではない。
-
スポーツキャスターはどうなのか。優れたスポーツキャスターは出来事を起きると同時に語るように見せるかもしれないが、実際は事実の後に語らなければならず、そうでなければ、スポーツキャスターは何を報告すべきかわからないだろう。
-
もっと良い例は、友人とカフェに行く際に、そこで起きた出来事を〈それが起きると同時に〉友人に語る人物だろう*15。この語り手には2つの困難がある。
-
これらの例から得られる教訓は、語り手と物語の関係の距離は時間的なものではなく、認識的なものである。つまり、一連の出来事を語るために語り手はそれらの出来事が何かを知っていないといけない。
-
なぜ認識的な関係と時間的な関係が混同されるのかというと、それは日常生活において出来事について知るのは、普通その出来事が起きてからのみだからだろう。
-
しかし、一般的な物語フィクションにおいて、出来事は表象によって決定されるため、(i) 時間的な関係と認識的な関係は分離され、(ii)認識的な条件は一般的には自動的に満たされる。
シミュレーション説のバージョン2と時間的距離説の検討_その2
-
(後の議論に役立つため)自伝的な語り手が採用する可能性がある2つの戦略について考えてみる。
-
1つ目の戦略は出来事が起きる〈前に〉その出来事を語ることである。
-
ゲームプレイは探索的であることが多いため、日常生活より自分の行為が成功すると考えることは有意味に正当化できることは少ない。本当に少なくとも、インタラクティブな語りの支持者は、プレイヤーは「私はこれから銃でそのゾンビを殺そうと思う」といった風に出来事を語っているのだと主張することはできる。
-
自伝的語り手が採用する二つ目の戦略は、自身の行為を言語的に表象するのを避け、模倣的な(mimetic)表象を選択することである*17。つまり、語り手は出来事を言葉で伝える代わりに、演じることで伝えることができる。
-
この場合、語りにおける認識的条件がどうなるか疑問に思うかもしれないが、これは限定的な問題だろう。John Cageの『4分33秒』の演奏者が演奏中に生じたあらゆる環境音によりこの演奏の内容を決定されるとしたように、語り手はあらゆる自分の行為と周囲の出来事が物語の一部になると定めている*18。
まとめ
-
インタラクティブな語りの可能性に対する主張で、最も説得力があるのはシミュレーション説(のバージョン2)と時間的距離説である。
-
ゲーマーが語り手である可能性について問題となる語り手と語られた出来事の関係は、〈表象的〉なものでも〈時間的〉なものでもなく、〈認識的〉なものである。
-
ビデオゲームのプレイヤーはプレイの最中に何が起きているのか、これから何が起きるのかを知らないため、それらの出来事を語ることができない。
-
-
私はゲーマーは共同語り手であるという主張の擁護者の代わりに二つの返答を提案した。
-
一つは、プレイヤーはゲームで自分が何を〈しようとしている〉のかを知っていること。
-
二つは、プレイヤーはゲームプレイ中に起きたあらゆる出来事がその物語の一部になるという包括的な意図を持っているかもしれないということ。
-
3. 語りの必要条件
-
Gautは語り手になるためには、その人物は〈物語の情報を伝達することを意図〉(intend to transmit story imformation)しなければならないと説得的に主張している(2010: 232–233)。その後、彼はビデオゲームはインタラクティブな物語であり、設計者はこの基準を満たしていると主張しているが、〈プレイヤー〉が語り手であるかについて考えることを拒んでいる(はっきりとではないが)。
-
一般的なゲーマーがこの基準を満たすか、この基準を3つのパートに分解してそれぞれ検討してみよう。
検討1:ゲーマーは何らかの情報を「伝達(transmission)」しているのか
-
この概念(concept)の中心にあるのは、何らかがあるところから別のところへ移動するという考え(notion)である。
-
私が先ほど取り上げたGautのインタラクティブ性について中心的な洞察は「インタラクティブなケースにおける鑑賞者の役割はその作品を例化すること〈によって〉鑑賞することであり、単に別の誰かが作品を例化する際にその作品を見るだけでは、作品を完全に鑑賞していることにはカウントされない」(2010: 143)である。
-
しかし、もしゲームプレイが一般的に自分に向けられたもの*19(self-directed)であるならば、このインラタクティブ性の概念が示すように、ゲームプレイで意図されたいかなる伝達もよくても標準的ではないことになるだろう。このことは自身自身に対し物語を語ることは〈できない〉ことを示さない。
-
私の提案は自分自身に物語を語るというのは不可能だというものではなく、ストーリーテリングの主な〈目的〉(telos)を満たさないというものだ。上演はこの点でストーリーテリングと似ている。自分自身のために上演するのは可能かもしれないが、そのような上演が〈範例〉(paradigm)となるような上演の〈様式〉(tradition)は普通ではない。
-
少なくとも、このことプレイヤーがゲームプレイを通じて自分自身に物語を語るという考えに対し待ったをかけるはずである。
検討2:プレイヤーが伝達するのは〈物語〉の情報なのか
-
ゲーマが〈本当に〉自分自身に情報を伝達すると仮定した場合、その情報は〈物語〉の情報なのか。
-
あるものを物語(story)にするのは何かその詳細についての合意はほとんどないが、少なくとも哲学者の間でそこそこの合意(moderate agreement)があり、それは物語(narrative)は何らかの方法でつながった出来事の表象であるというものである。
-
よく知られている候補は〈因果関係〉(causation)だが、Gregory Currieは、3つの理由から、物語の概念(notion)をこれほどに制限しようとすることに注意を促している(2010: 27–48)。
-
第一に、因果関係はどの他の物語の特性(統一性(unity)、目標志向的な行為など)が現れる場合にも存在する最小公倍数的な基準の一種に過ぎない。
-
第二に、物語性の連続(continuum of narrativity)を扱う方が、あらゆるものを単に物語か否かに分ける二値的な概念より有益であるかもしれない。
-
第三に、私たちは物語の概念を少なくとも3つの異なる方法で用いている。(i)明らかに物語でない表象(例えば、数学理論)であるケースから物語を区別するのに、(ii)物語性の連続における〈閾(境界)〉(threshold)をつけるのに、(iii)与えられた表象を〈典型的な〉(exemplary)物語に分類するのに。
-
-
これらの詳細はどれもGautの取り扱いに問題を起こしてはいない。ただ、Gautはこの概念を「物語はそれらを実際に連結しているかどうかに関係なく連結したものとして表象する」(2020: 233)と説明している。つまり、表象された出来事が物語としてカウントされるためには、出来事がただ表象されるだけでも、表象されかつ連結しているだけでもダメで、連結したもの〈として〉(as)表象されなければならない。
-
ここでポイントになるのは、ゲーマーがプレイスルーを通じて自分のキャラクターの行為(ゾンビを銃で撃つ)を表象するかどうかでも、そのキャラクターの行為によって別の出来事(ゾンビの仲間が復讐に来る)が引き起こされるかでもなく、ゲーマーがそれらの出来事を連結したものとして表象しているかどうかである。
-
ゲーマーに直接責任があるのは射撃を表象することで、その結果ではないため、この例が不公平な例であるという反論があるかもしれない。
-
もし、ゲームプレイが語りであるならば、ゲームプレイは〈インタラクティブ〉な語りであるため、物語の作業は複数の共同語り手の間で分担されることが予想されるだろう。
-
ゲーマーの責任は出来事の一部(プレイヤーキャラクターの行為)を表象することのみで、ゲームの設計者はその他の全ての出来事と出来事のつながりに対し責任があるのかもしれない。
-
もしそうなのであれば、確かにゲーマーはある意味では共同的語り手であるが、ゲーマーが〈どの〉重要な〈つながり〉も表象しないのであれば、極めて狭い意味でさえもゲーマーは語り手でないという理解(sense)もあり得るだろう。
-
-
しかし、これはまだ不公平かもしれない。というのも、ゲーマーは一部の出来事を重要な(relevant)方法で連結されたものとして表象していると考えられるかもしれないからだ。
-
上記の自伝的な語り手と同様に、そこにはある種の包括的な意図がある可能性がある。この意図はゲーマーが表象する虚構的な出来事が他の出来事(例えば、ゲーム設計者よるもの)と因果的に繋がったものとして表象されるという意図であり、この時そのプレイスルーにおいてこれらの出来事は繋がっていると考えるのがもっともらしい。
-
例えば、ゲーマーは(特定のボタンを押すことで)自分キャラクターが引き金を引くのを表象することにより、因果的に(causally)特定のゾンビに向けて銃を撃つのを表象するよう意図しているのかもしれない。
-
-
注意すべき理由はいくつかあるものの、これがゲーマーが満たしていると主張するのが最も難しくない語りの基準の一つかもしれない。
検討3:プレイヤーには物語(story)を語る〈意図〉はあるのか
-
プレイヤーがゲームをプレイする際に正しい種類の情報を伝達していたとしても、そのゲーマーはそれを意図しているのだろうか。
-
これについては『Expresso Bike』をもう一度検討するのが有益であると思う。というのも、この問題は『Expresso Bike』にも同様に当てはまるからだ。
-
もし『Expresso Bike』についてこの主張が妥当であれば、問題は『Expresso Bike』と『Red Dead Redemption』の活動との間に重要な違いはあるのかということだ。
-
Gautがインラクティブな物語の概念を説明する際に提示した「明確で典型的なケース」を考えてみよう(2010: 230)。これは一種の比喩であり、議論の余地のないストーリーテリングとインタラクティブなゲームプレイの間の連続性を証明することを意図している(2010: 230–231)。
-
その比喩では、ジェーンは息子オーティスに主人公テディとその敵のドラゴンが主役のおとぎ話を語っている。話の途中でジェーンはオーティスに、複数の候補から物語の続きを選択させた。さらに、ある時点から彼らは物語を口頭で語るのではなく、自分たちで演じる(ジェーンがドラゴン役、オーティスがテディ役)ことにした。最後に、Gautはジェーンはビデオゲームの設計者であり、彼女はビデオゲーム『Teddy and the Dragon』を手掛けていたことを明らかにする*21。
-
Gautがこの比喩から次のような教訓を引き出している。
-
ロールプレイングゲームの実演*22とビデオゲームの間には緊密な類似性がある。どちらもごっこ遊び(make-believe)とストーリーテリングの手段(vihicle)として機能している*23。
-
両者の違いは、ビデオゲームは動画を用いるに対し、ロールプレイングゲームの実演は上演(enactment)を用いること。
-
-
ただし、Gautは「ジェーンは物語の情報を伝達する意図抜きでも、オーティスとごっこ遊び(make-believe)ゲームだけを行うことができるだろう。この場合、どの物語も彼らのゲームでは語られていない」(2010: 234–235)とはっきり指摘している。
-
ビデオゲームにおいてフィクションは様々な機能を持つが、ゲームプレイをストーリーテリングにしてはいないように思われる。もちろん、ゲームプレイ(のフィクション)における物語を語ることはできるだろうが*24、そのことにより一般的なゲームプレイが物語を語ることになるわけではない。
-
まとめると、ゲーマーがプレイスルーにおける物語の(虚構的な)出来事を部分的に決定するのだとしても、そこから、そのゲーマが(共同)語り手になることは導けない。
-
実際、ゲーマーが語り手でないと考える理由は存在する。上記で検討してきたインタラクティブな語りの可能性に対する議論が表現しようとしていると思われる単純な洞察は、〈ビデオゲームのプレイヤーは自分自身をストーリーテラーだと考えていない〉ということで、つまり、プレイヤーは物語の情報を伝達する意図はないということである*25。
-
ビデオゲームは間違った種類の物語表象ではなく、プレイヤーはフィクションの出来事との重要な(認識的な)関係を欠いていないかもしれない。単に、プレイヤーは一般的にこれらの表象と関係を物語を語るのに使わないだけだ*26。
-
ゲーマーは自身のプレイスルーの物語における語り手であるという考えの支持者は、虚構的な出来事を虚構的な出来事についての物語(narrative)と結びつけて(conflate)はいない。むしろ、支持者は物語の出来事を決定することをその物語を語ることと結びつけている。
-
ビデオゲームの多くは物語であり、それらの物語はインタラクティブである。しかし、そのことはそのようなビデオゲームをプレイする人が、プレイの結果生じる物語の語り手であることを導かない。
ではプレイスルーにおける物語の語り手は誰か
-
私たちが最終的にたどり着く疑問は、結局のところ、誰がゲームのプレイスルーにおける物語を語るのかということである。今までの議論が示すその答えは、ゲームの設計者がそのプレイスルーにおける物語の唯一の語り手であるというものだ。
-
ただ、そうであるならば、設計者はプレイスルーにおける物語の特性の多くを決定するものの、全てではないのは奇妙に思える。その物語には自分たちが予測してない(できない)特性が多く含まれるにもかかわらず、ゲームの設計者が意図的に全てのプレイスルーにおける物語を語るというのは実際にあり得るのだろうか。
-
最初は直感的でないように思えるかもしれないが、私はこの結論を受け入れなければならないと思う。この直感的でなさは2つの検討によりやわらげることができる。
-
一つは、設計者が自身の知らない(unaware)情報を意図的に伝達することは、先ほど議論した自伝的語り手における包括的な語りの意図に似ていることだ。このような意図は古典的な物語において一般的ではないが、そのような意図を本物の(genuine)意図と考えるべきではない明確な理由はない。
-
また、設計者の無知は誇張されるべきではない。現代の一般的なビデオゲームは慎重に設計されリリースの前に広範囲にわたってテストされている。ゲームの設計者は、特定の未来のプレイスルーの詳細までとはいかなくとも、可能なプレイスルーのパラメーターについての非常に優れたアイデアを共有している*27。
-
二つは、現代のビデオゲームをインタラクティブな物語の自閉スペクトラムに陥っていると考えるのは、設計者が唯一の語りの地点であるという奇妙さを和らげるかもしれない*28。例えば、『A Choose Your Own Adventure』の本はインタラクティブな物語である。その物語の可能性は出版時に作者により明確に決定され、少なくとも私の経験では、このような本を読むことは作品内に暗示された物語を〈発見する〉経験であり、その出来事(の一部)決定することにより物語を〈語る〉経験ではない。
-
この本の作者はある「リードスルー」(readthrough)の側面に驚くかもしれないが、上記で議論した即興演奏者や即興詩人の(improviser)のように、このことは作者がこれらの物語の作者でないことを示さない。
-
-
最後に、Grant TavinorとBerys Gautがどちらも、関連する問題についての議論の中でビデオゲームの語りに対するこの説明に暗に同意していると解釈できるのは注目に値するだろう。
-
Tavinorは普段ゲーマの物語との関係を「発見」の一つであると言っていて、これは彼が「強い意味でのインタラクティブな物語」と呼ぶものの場合であっても同様である。
-
そして、Gautは「ジェーンと彼女の設計者のチームはビデオゲーム『Teddy and the Dragon』をインタラクティブな物語を語るのに用いているが、それはまさにジェーンがオーティスに物語を語る実演に言葉と行為を用いるのと同様である」(2010: 235)と言っている。つまり、Gautは語りの行為は、ジェーンからオーティスへの一方向であり、それはインタラクティブな物語の場合も同様であることを示唆している。
-
また、Robert Steckerは、正しい種類の情報(つまり、物語の情報)を用いて表象を作ることは物語を作るのに十分であるという意味で、物語は非意図的に生じる可能性があることを示唆している。つまり、誰によっても語られない物語がありうるということだ。
-
この提案を十分に検討すると脱線するので、ただ私にはここでの直感におけるどの局所的な利益よりも全体のコストが勝るように思えると言わせてほしい。
-
Gautが物語における意図を合意された見解、それも意図主義者による芸術作品、ゲーム、その他の人工物に対する幅広い概念と結合したもの、であると考えるのは正しいと思う。もちろん、私たちはまさに自然現象を芸術作品であるかのように扱うことができるように、ある物語でない表象を〈物語であるかのように〉扱うことができる。しかし、そのような区別は物語と芸術作品の本質的な人工物性に依拠している。
マルチプレイヤーゲームについて
- マルチプレイヤーゲームはこの見解を複雑にするのだろうか。
- マルチプレイヤーゲームでは、各プレイヤーが各々のプレイスルーにおける物語を別のプレイヤーに語っていると考えるかもしれない。しかし、もちろん、マルチプレイヤーのプレイスルーからなる物語があるとすると、複数のプレイヤーが貢献するのは単一の物語である。プレイヤーはそれぞれ別々の物語を語っているのではなく、互いに関連する物語を語っているのだ。
- それはともかく、私には、シングルプレイヤーの場合と同様に、このプレイヤーたちは誰も重要なストーリーテリングの意図を持っているようには見えない。
- もし、ネットワークに接続されたエスプレッソ・バイクでリアルタイムで他の人と競争できたとして、少なくとも、それによってその人が物語を語るのかについて、私の直感は何も変化しないだろう。
- ウォルトンのフィクション論を仮定すると、マルチプレイヤーのビデオゲームをプレイすることは、ウォルトンによる子供の集団が泥のパイのゲームや切り株を熊だと想像するゲームの例に、驚くほどに似ているように思われる(Walton 1990)。
- ただ一つの違いはビデオゲームの場合の小道具はより没入的で魅力的な想像を経験するために製造されていることだろう。したがって、もし私たちが友人と泥のパイを、それによって料理のお話を語ること抜きに、プレイできる(そして一般的にそうしている)ならば、私たちは他人とビデオゲームを、それによってゾンビ、米国西部地方のお話、あるいはいかなるお話を語ること抜きに、プレイすることができる(そして一般的にそうしている)ように私には見える。
4. 結論
- 私は、どうやってもインタラクティブな物語はその作品のある事例における物語を共同で語ることはできないとは言っていない。
- Gautのキャラクターを借りると、オーティスは彼の友人オデットに物語を語りたいが、オーティスはテディとドラゴンに飽き飽きしているものの、自分にはゼロから新しい物語を作る能力があるか疑っているため、彼は母に彼が複数の状況で様々な方法で続けられるような新しい物語を始めるように頼む。オーティスがある状況でこの物語をオデットに語る時、彼はジェーンが作った物語と「インタラクション」し、オデットに今共同で生み出した(co-authored)事例を語っている。ただ、オーティスは私たちが使う用語の意味でのインタラクティブな語り手ではない。というのも、その語りの鑑賞者は語り手自身(オーティス)ではなく、第三者(オデット)だからだ。
- しかし、私たちはほとんど容易くオーティスが孤独な子供で自分自身に物語を語っているのを想像できる。もし彼がジェーンの新しい物語の事例における共同作者で自分自身に物語を語っているならば、私たちはインタラクティブな物語のユーザーが自分自身にその物語の事例を語る明確な例を手にする。
- 私が本稿で主張したのはインタラクティブ性、物語、語りの概念についての検討が、この状況が一般的なゲーマーのそれと著しく異なっているということである。インタラクティブな物語のビデオゲームの最良の候補を考慮したとしても、ゲームとインタラクションすることにより自身のプレイスルーにおける物語を共同で生み出して(co-authoring)いるものの、それらのゲームのプレイヤーはその行為によってそのプレイスルーの話の語り手になるわけではないのだ。
参考文献
- Kania, Andrew. 2018. “Why Gamers Are Not Narrators.” In The Aesthetics of Videogames, 128–45. New York : Routledge.
- Kania, Andrew. 2024. “The Philosophy of Music.” In The Stanford Encyclopedia of Philosophy, edited by Edward N. Zalta and Uri Nodelman, Spring 2024. Metaphysics Research Lab, Stanford University. https://plato.stanford.edu/archives/spr2024/entries/music/
*1:あと語りが三人称から一人称に変わっています。要約の要約書いていた僕は何をやっていたんだろう?
*2:ここでは“story”も“narrative”も「物語」と訳す。原文では、これらの用語は物語論的な使い分けがなされているように思われるが、そこまで厳密に訳し分けるほどではないと判断したため。気になる方は、①“story”はnarrativeによって表象される出来事や事態を指し、②“narrative”はstoryの表象で、物語作品や一連の出来事を誰かに語ることを指している、と考えて読んでください。(一応さらに補足するなら、ゲームスタディーズや物語論、物語の哲学の分野では、いわゆる既に書かれた固定的な物語を「ストーリー」、プレイングを通じて動的に形成される物語を「ナラティブ」と呼ぶ用法は〈ない〉と思ってください(似たような概念を指す別の用語はある)。)
*3:筆者は「ゲーマー」を「ゲームプレイヤー」と同じ意味で用いている。また、ゲーマーの活動を「ゲームプレイ」、ゲームの事例を「プレイスルー」と呼んでいる。
*4:原文でイタリック体の部分は山括弧に置き換えている。
*5:原文でイタリック体の部分は山括弧に置き換えている。
*6:僕がパラグラフごとにタイトルを振った。
*7:この論じ方は初めて読んだ時びっくりした。ただ、やっぱり研究対象を限定した方がいいと思う(メモの方に書いた通りこの論じ方の問題点はビデオゲームの定義をしないことではないと思う)。
*8:ここでの~ argumentは~説と訳す。
*9:筆者本人が注15でこのようにコメントしている(Kania 2018, 143)。
*10:これはどちらかというと何を物語のカテゴリーに含まれるのか(あるいはふくめるべきか)について共通の見解がないことの表れだと思う。
*11:物語論的な意味での虚構の語り手と実際の語り手は別の概念で一方が他方を代替できるような関係でもないと思う。虚構の語り手がいるとしたらプレイヤーキャラクターに違いないというのもおかしな議論だと思うが(物語世界内部で活躍するキャラクターが時間的な隔たりを経ることなくその物語の語り手になることは、メタレプシスでもない限り普通あり得ないだろう)。
*12:“open-endedness”を「オープンエンド性」と訳したが、要はビデオゲームにおいて結末(や次の出来事)があらかじめ決定されておらず、ゲームプレイを通じてその場で決定されることを指しているのだと思われる。
*13:そもそもフィクションの出来事に対して、現実の作者が語る前に起きたとか後に起きたとか問うても意味がないだろう(SFはどうなるんだ?)。時間的距離説のような議論はあくまで現実の語り手が現実の出来事について語る場合に限定する必要があるだろう。
*14:ゲームオーバーになったり、セーブからやり直したりすれば前の地点に戻れると考えるかもしれないが、その場合、やり直す前と後のプレイスルーは別物としてカウントされるだろう。つまり、それはあるプレイングにおける出来事を修正しているわけではない。
*15:ぶっちゃけ、この例えすごくわかりにくいと思うんだけど...。
*16:作者はこれが具体的に何かは挙げていない。
*17:ここで想定されているのは当然diegetic / mimeticとかtelling / showingとかの区別だろう。
*18:音楽の存在論に全く詳しくはないが、『4分33秒』が音楽としては極めて特殊な作品であることには注意した方がいいと思う。SEPの記事“The Philosophy of Music”では、音楽の概念を何らかの点で「組織化された音(organized sound)」として説明するものが代表的な説明として取り上げられているが、『4分33秒』はその条件を満たさないため音楽ではないと複数の論者が主張しているという(Kania 2024)。(ちなみにこの論者の一人はKania本人である)。つまり、筆者が挙げている『4分33秒』の例ですら包括的な意図が成立しない可能性がある(たとえ包括的な意図があったとしてもそれが音楽作品にはならない可能性がある)。
*19:“self-directed”の訳語には「主体的」とか「自発的」とかがあるらしいが、ここで言いたいのは何らかの矢印が自分の方に向いているということだろう。
*20:たぶん少なくとも(その一部は自分自身によって)表象されたものを受け取っている(伝達されている)のだから、それは自分が自分自身にその情報を伝達していると言えなくはないのではという感じなのだと思う。
*21:『A Philosophy of Cinematic Art』の該当箇所を読むに話の全貌はこんな感じ。①ジェーンは息子にテディとドラゴンの話を語って聞かせた。②テディの物語に対する要求がエスカレートしていき、ジェーンは疲れた。③語って聞かせた物語を元にビデオゲームを作り、息子にプレイさせることでジェーンは楽できるようになった(めでたしめでたし)。
*22:原文では‘live-action role-playing-game”となっていて、これはジェーンとオーティスが「Teddy and the Dragon」を演じていることを指している。ここでRPGと言っているのは、ゲームのあるジャンルを指しているというよりは文字通りの意味で「役割を演じるゲーム」をしているということだろう。
*23:別にGautに限った話ではないが、Gautの比喩には問題があると思っていて、ビデオゲームのプレイヤーは別に物語を作るためにゲームをプレイしているわけではないことが失念されている気がする。例えば、選択肢を選んだりしているときはそのような行為を行なっていることが多いだろうが、通常時は文字通りのロールプレイングをしているわけではないと思う。普通にゲームをクリアするためにプレイした結果として、出来事の表象が作られるわけで、別にプレイヤーはそれ自体で一貫性を持った出来事を表象するためや、設計者によって作られた物語と一貫した出来事を表象するためにプレイしているわけではないはず(部分的にはやっているだろうが)。
*24:ここで「物語を語る」って何を指しているのか気になるところだが、おそらく(自伝的語り手が採用する二つ目の戦略のように)ゲームプレイを通じてゲームプレイで起きた出来事を語ることを指しているのだろう。
*25:ここら辺は直感ベースの議論になっていると思う。
*26:ここら辺の話は言語行為論に通ずるものがあると思う。フィクションの哲学の議論を物語に持ち込む戦略も結構いけそうな気がする。
*27:これ読んで思ったんだけど、バグはこの場合どう処理されるんだろう。細部まで設計の意図が行き届いているというよりは、プレイヤーは意図が及んでいる部分とそうでない部分をおおよそ判断できるというのが実情に近いと思うのだけど。あと、この論じ方だと、昔の作品やあまり慎重に設計されていない作品については、設計者の無知は問題になるということになりそうだけど。
*28:この例えが何を意味するのかはよくわからない...。単に知らないだけだと思うけど。